緑のきつねと赤いたぬき

浰九

第1話

 もうずいぶんと夜の風が冷たくなってきた。顔に当たる弱い風でさえ頬に当たるとそう感じる。自宅へ帰る道は、近所の家々からテレビの音や人の声などの生活音は漏れ聞こえるが、通勤時のように歩いている人はもういない。今年で五十になる。会社では不況のあおりを受けて人手が足らず、夜遅くまでの勤務を強いられる。

 自宅に着いた。我が家の前に立ち、自宅を見上げる。子供も二人生まれ、狭くなったアパートから飛び出し思い切って買った家。長男は今年大学受験だ。もう少し頑張らなきゃな。

 初心を思い出すように、ドアノブを握りしめた。

「ただいまぁ。」

 もうすぐ十時になるころだ。なるべく小さな声で帰宅の挨拶を誰にするでもなくする。

 リビングに入ると、長男がキッチンのテーブルに座って何かを食べていた。

「ん、おかえりなさい。」

口に食べ物を入れたまま、おかえりと言ってくれる。

「ただいま。おっ、いいもん食ってるな。」

見ると、赤いきつねを食べていた。

「父さんも食べたいなぁ」

歌うように鞄を下ろし、上着を脱いだ。

「ダメだよ。母さんがご飯作ってくれてるよ。」

「母さんは?」

「お風呂。」

「人が食べてるの見たら、食いたくなるんだよ。」

「はは。わかる。」

テーブルに着きながら、

「どうだ?受験勉強の方は?」

と、問いかける。聞かれるのも嫌だろうし、聞かれないのも嫌だろうから、なるべく軽いことであるかのように言う。なんてったって、自分も経験済みのことだから。

「ん~・・・わかんない。」

「わからないってなんだよ。」

「だって、やってみなきゃわかんないでしょ。」

「まぁ、そりゃそうだろうけど・・・・あっそうだ。お前覚えてるか?」

重い空気になる前に話題を変えた。

「ヒロトがまだ幼稚園のころ、父さんと一緒に買い物に行ってさ、赤いきつねと緑のたぬき籠に入れたら、『何それ』って聞いてきたから、『赤いきつねと緑のたぬき♪だよ』って言ったら、その響きが気に入ったか何だかわかんないけど、スーパーから家に帰るまでずっと歌ってたんだよ。それが可愛くてさ。家に着いたら、紙に三角だけで描いた狐と、丸だけで描いた狸見せて、『色塗ったや』って渡したんだけど、ヒロト、色反対に塗ってて、緑の狐と赤い狸になってたんだよ。『これ、色反対やん!』って言ったら、お前びっくりしたかなんかわかんないんだけど、急に泣き出してさ・・・。覚えてるか?」

「覚えてないよ、そんな小さいときのことなんか。」

「あっ、おかえり~。」

「おっ、ただいま。」

妻のリコが髪をバスタオルで拭きながら風呂から上がってきた。

「二人で仲よく、何の話してるの。」

「ん、ヒロトが幼稚園の時のことだよ。リコは覚えてるか?赤いきつねと緑のたぬき。こいつオレが描いてやった狐と狸反対の色で塗ってさ。そんで大泣きしたやつ。」

「あ~、あったね。そんなことも。あの頃は可愛かったな~。」

「もう、何だよ二人して・・・。あっ、そうだ。父さん、また描いてよ。狐と狸。」

「え?何だよ急に。」

「どうやって描くか教えてよ。おれ、絵下手だし。将来、俺に子供が出来て、赤いきつねと緑のたぬき食べてるときに、子供に狐と狸かいてってせがまれたら困るだろ。」

「え?ヒロトに子供?何だよ急に、突拍子もない。まぁ、いいけど。紙とペン、紙とペン。」

私は立ち上がり、電話機の横にあるメモ帳を取ってきた。

「見てろよ。簡単だから。狐は三角だけで描くんだよ・・・。こうやって・・・、こうやって。な、簡単だろ。」

簡素な狐を書いたメモ帳をヒロトに渡す。

「かわいい~。」

と、母さんの声。

「狸は丸だけで描くからな。こうやって・・・。こうやって・・・。こう。ほら出来た。わかったか。」

「へぇ~、うまいもんだね。」

久しぶりの息子に褒められて、少しむず痒くなる。

「ありがとう。これもらっていくよ。」

そう言って、赤いきつねを食べ終えたヒロトは私の描いた狐と狸を持って、自分の部屋へ行ってしまった。



     翌日



「おはよう。」

昨日の疲れが残っているのがありありと感じられる。体が重だるい。

リコと娘のシオリは、もう朝食を済ませていた。

「おはよう。」

「おはよう。」

「ヒロトは?もう行ったのか?」

「うん、今日はヒサト君と朝勉するんだって。」

「そうか・・・。」

「あなた、これ見て。」

そう言った妻の視線の先は、冷蔵庫。磁石で扉に張り付けられた紙切れに赤色と緑色が見える。もしやと思い近づいてみると、そこには丁寧に色鉛筆で塗られた赤い狐と緑の狸がいた。その下には、【パパ】【ありがとう】の文字。思わず頬が緩くなる。

「パパって、何年ぶりだよ。」

子供が小さい頃は、私たち夫婦は自分たちのことをパパ、ママと呼ばしていた。小学校5年生くらいだったか、急に「父さん、母さん」と呼び方を変えてきたのだ。

「あの子、なんだか嬉しそうだったわよ。ちょっと煮詰まってたみたいだから。久しぶりのリラックスできたって。」

「…そうか。」

「パパ、いいとこあんじゃん。」

娘のシオリが茶化してくる。

重だるかった体も、いつの間にか軽やかになっていた。


                               終わり

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緑のきつねと赤いたぬき 浰九 @kiyushito

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