エピローグ

「一番馴染んでいた病神の体ならば、混沌の海を泳ぎきることは出来ただろう。其処から先は、誰も知らない」

 かちゃり、と婦人が皿の上にカップを置く。その手首に巻かれた真珠色の腕輪がきらりと閃き、アンセルムは漸く彼女の話が終わったことに気づいた。

 目の前に出されていた自分の紅茶はすっかり冷めきっており、どれだけ長い間彼女の話に意識を遊ばせていたのか解らないが、少なくとも窓の向こうの金陽は随分とその色をあかがね色に変えていた。

 気配も無く控えていた召使の娘が紅茶を入れ直し、笑顔で促してくるままに一口、喉を潤す。

「失礼。そちらの話を聞くつもりが、随分と話し込んでしまった」

「いえ、とんでもない。こちらこそ、非常に興味深いお話を頂けて感謝しております」

 事実、彼にとっては俄かに信じがたい代物ではあるけれど、二十年程溜め込んだ自分の中の知識には無い「疑神」の神話は、非常に有意義で興味深い代物だった。

 しかし、だからこそ疑問が湧く。こう見えても、大学に入ってからずっと、神話学に傾倒しその研究を続けて来た。そんな自分が聞いたこともないこの夫人の語った物語は、一体どのような形で現存していたものだろうか。

「――お伺いしても、宜しいでしょうか。御婦人は一体、どこでそのような話を」

「口伝だ」

 さらりと告げられて、出鼻を挫かれる。別に隠す事でも無いと、あくまで淡々と夫人は告げた。

「我が家に代々伝わってきたもので、只の夜毎のお伽噺だと思っていたが――貴方の論文を拝見する機会があり、つい懐かしく思い出してしまった。貴方の研究の一助にでもなれば、それで充分。ああ、少なくはあるがこれも」

 という言葉と共に、控えていた召使が盆を差し出してくる。その上に載っている革袋を恐る恐る手に取ると、ずしりと重い。念の為ちらりと中身を確認したが、確かに金貨の輝きを垣間見た。普段お目にかかれぬ大金に、アンセルムは目を剥く。こんなにはとても受け取れないと何度も申し立てるが、向こうに押し切られた。貴族であろう夫人の顔に泥を塗るわけにもいかぬと無理やり自分を納得させて。

「何から何まで、なんとお礼を言えば良いか……有難うございます」

 恐縮したまま、深々と頭を下げて部屋の扉に立つ神学者に対し。

「いや、こちらも久しぶりに思い出した。……時に、学者殿」

「はい」

「……貴殿は。この世界が神の理に全て紡がれていることを、如何に思う」

 それは大昔から、神殿が連綿と語り続けてきたこの世の真理。少なくともアンセルムは勿論、この国の全ての子供はまずそれを手習いで覚えることから始めるだろう。故に人は、神への感謝と奇跡を忘れずに日々を過ごさなければならないという戒めであり、社会を律する為に必要な教えなのだろう。しかし、ならば。

「私事では、ありますが。私の父は、酒も博打もやらない真面目な男でしたが、馬車に轢かれて死にました。姉の子供は、結婚して十年で漸く生まれたのに、一年も経たず病で召されました。これが神の定めた理というのならば、あまりにも理不尽で残酷ではありませんか。――私はそう思い、神学の門を叩いたのです」

 神に祈っても父は生き返らなかったし、貧乏な日々はただ辛かった。小さな棺に縋って、何故ですか神様、と泣き続けていた姉の背中も覚えている。

「きっと神の創った理などは、恐らくもっと根幹の、当たり前のものだけで。我々がどのように生きて、未来にどうなるかなど、きっと神もご存じないでしょう。そうでなかったら、傲岸に過ぎると私は愚考します。この世界はもっと、雑な幸運と不運だけで構成されているのではないでしょうか。そうでなければ、悪人が世に蔓延るのも、善人が酷い目に遭うのも、納得がいきません」

 一気に語って、息を吐く。自分が神を学問で紐解こうとした理由がこれなのだ。始原神や死女神がたとえ存在したとしても、我々は頚木など嵌められていないと信じたかった。勿論この主張が、沢山の人に眉を顰められてしまった理由なのだけれど、きっと目の前の貴婦人は理解を示してくれると思ったから。

「そうか。――そうか」

 貴婦人は僅かに声を揺らして、天井を仰いだ。本の僅か、ヴェールの隙間から口元が見える。紅も差していないその顔には、酷く痛ましい傷が刻まれていて――

「そうだったら。……とても、素敵だ」

 酷く満足げな声と共に、唇を歪めていた。もしかしたら、笑ったのかもしれない。





 ◆◆◆





 ――それからすぐ、アンセルム・シャラトは学会を追われることになったが、渡東しネージ王国に腰を落ち着けた。

 当時ネージ王国では神殿と王家による権威争いがあり、神の権勢を弱める為に王家から学説を支持された。著作が当時開発されたばかりである活版印刷の普及の後押しとなり、一躍時の人となった。

 やがてネージ王国に初の高等大学であるシャラト学院が設立され、アンセルムは貴族位を賜り初代学長に抜擢された。しかし本人は研究の時間が減ってしまったと、故郷の家族へ向けた手紙でぼやいていたという。それでも六十七歳で没するまで、様々な古い神書の解読と新解釈、研究書の執筆など、現在でも信頼されている神学書を数多く著している。

 著書のほぼ全ての後書きに、署名と共に「親愛なる黒き貴婦人に捧ぐ」と綴られている理由は定かではない。アンセルムがまだ無名の頃にパトロンとなった貴族を指しているのではないかと言うのが一般的であるが、彼が始めて古神書の中に存在を証明した、名も無き神の化身がモデルとされる御伽噺のキャラクターに対する、彼なりのジョークだという説もある。

(伝記「アンセルム・シャラト-神に挑んだ男- 解説より抜粋)





 ◆◆◆





 自宅のベッドに横になり、アンセルムは深く息を吐く。

 気付けば自分の体は随分と鈍磨してしまい、視力も悪くなった。ペンを握るのにも難儀する日もある。

 それでも、アンセルムの心はどこか沸き立っていた。いよいよ、「死者を死女神の馬車が迎えに来る」という一説が誠であるか否か確認できる日が近づいているのだから。

 我ながら研究馬鹿で、稼いだ金も全て注ぎ込み、家庭を持つことも無かった。きっと沢山の人から、寂しい人生だったと後ろ指を指されるかもしれないが、ちっとも気にならない。心残りがあるとするなら、これからの自分の経験を書き留められないことだけだ。

 ふう、ともう一度息を吐き――狭い部屋で僅かに空気が動いた気がして、まさか、と目を開ける。

 ベッドの傍に、黒い服の女が立っていて、思わず声をあげそうになり――彼女の姿が、若い自分に見たものと全く変わっていない事にも気付いた。

「礼を、告げにきた」

 朴訥な声。頭の先から足先まで黒い皮のドレスに包まれた姿。未だ、隆起したままの腹部。顔を隠した黒いヴェールと、その隙間から僅かに覗く肌に刻まれた傷。全部全部、覚えていた。疑問や不信よりも先に、喜びが勝った。

「お礼など。貴女のご援助のおかげで、ここまで来ることが出来ました。寧ろこちらが、礼をしなければ」

 万感の思いを込めて、自分の研究を肯定してくれた貴婦人へ告げると、緩く首を振られた。

「気にすることは無い。貴方の書く文章は、皆面白かった」

「読んで頂けて、いるのですか。お恥ずかしい」

「恥ずかしいのは、こっちだ。……実は、文盲なんだ。著作は全部、娘に読んで貰っていた」

「なんてことだ。それは、却って、申し訳ない」

 お手を煩わせてしまった、という意味を込めて僅かに顎を引き詫びに代える。

「……ずっと、貴女のことを、黒き貴婦人と、僭越ながら、呼ばせて頂いて、おりましたが」

 呼吸が細くなる。喉が重い。もう少し、もう少しだけ、告げることを許して欲しい。様々な神書を、口伝を、壁画を読み解いて、辿り着いた僅かながらの真実の中で浮かび上がった、彼女の――或いは彼の名を。

「この、神が創り繰り返す、真円なる世界に刻まれた――癒えることも、消えることもなく、完全を阻害し続ける。それこそまさに、あなたに、相応しい」

 孤独なる魂が生きる証、それを示す名だ。自分の目で、彼の方の本懐を遂げられるところを見られないのは、至極残念ではあるけれど。

「ご武運を。――親愛なる、レタよ」

 薄れていく視界の中で、貴婦人がそっと自分のヴェールを持ち上げるのだけが僅かに見えて。

「ありがとう」

 朴訥な礼だけが一欠片、耳の中に入り込んで。

 アンセルムは満足げに、一つ息を吐いて、もう二度と吸うことは無かった。













「――お母様」

 闇の中から呼ばれて、レタは瞼を開く。目の前のベッドには、既に事切れた老人が、安らかな顔で覚めぬ眠りに就いている。

「お疲れ様でした。後はわたくしにお任せ下さいまし」

 今まで気配の無かった部屋に湧いて出たのは、黒髪の美しいメイド。白磁のような手をベッドに向かって差し出すと、遺体からふわりと青白い火の玉のようなものが浮かび上がり、それを丁寧に両手で捧げ持つと、天に放った。天を流れる忘却の川を通り、再び生まれ変わるのだ。生まれ直しではない。記憶や現世の澱を洗い流して、新しい命になるのだ。それが、人に与えられた唯一の理。世界をいくら壊しても、次に使い易いように、星の形で溜め込まれている。

 そんな彼女の行為を何百、何千と見ているレタは、僅かに息を吐く。変わらない世界への苛立ちと同時、それでも諦めずに己を律する為に。

「このような、老い耄れの文言ひとつで、何が変わるというのか」

「気の長いことだ、いずれすぐに親父殿は目を覚まされるぞ」

 ずるりと影から這い出て、獣の口から悪態を吐くのは、黒毛の狼。権能を殆ど失った状態で、大きさは精々大型犬程度だが、牙と爪の鋭さは健在だ。粗暴な性格も。

「まだ、兆候は無い。あいつが寝こけている内に、出来ることは何でもやるさ」

 嘯く息子達の頭を、レタはそっと撫でてやる。二頭しかいないから、両手で同時に。

 そう、アラムの中の首は創り直されていない。シブカに引き裂かれ、レタに止めを刺されるという形を取った為、理の檻を潜り抜けたのだ。魔女王ヴァラティープも生まれておらず、魔王とは強き魔の者が名乗る称号と化しているらしい。

 神の一角を僅かながら、己の手で削ることが出来た。ならば、いつかは。

 どくり、と腹部が熱を持った気がして、シブカの巻きついた腕でそっと丸く隆起した腹を摩る。崩壊神の欠片を無理やり飲み込んだ後、気を失ったレタは、シブカによってラヴィラの神域に運ばれた。その時には既に、このような有様だった。それからはずっと、この重い腹を抱えて世界を歩き続けている。

 人が、出来る限り沢山の人が、神の頚木から外れることが出来れば、いつかきっと、世界の理を全て砕くことが出来るかもしれない。……自分のやっていることが、あの腹の立つ崩壊神と似通っていることは、どうにも気に入らないが、それしか思いつかなかったのだから、仕方ない。

 また、ぶるりと腹が痙攣する。どうにも不気味で悍ましいが――此処にこうやってあれが留まっていることこそが、レタに対する返答なのだろう。もう少しだけ待ってやる、と。

「……大丈夫だ。いつか必ず、殺してやるから」

 もう一度腹部を摩ってそう囁いた声は、物騒なわりにはどこか、我が子にかける慈愛のような、或いは睦言のようにも聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

崩壊神と世界の傷 @amemaru237

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ