◆7-3

病神は、混沌の海の中で眠りについた。

死女神は、死者の国へ帰り新たなる世界を待った。

すべてが混沌に落ちてのち、ふたたび始原神は世界を創られる。

それこそが、世界の理である。

(創世・第八章終文)


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 どう、と胴体が倒れる。その体から血は流れず、毛並みと皮膚に皹が入り、崩れていく。

「成、程……これが、死か。愚妹、貴様すら、味わわぬものを、得たぞ」

「中兄様……!」

 ひくひくと震える巨大な狼の頭に駆け寄り、ラヴィラは労うようにレタの体を抱き寄せた。片腕を失い、すっかり血の気が引いている母を守るように。

「お母様、嗚呼、お母様……! お見事に御座います!」

「……、死ぬのか、アラム」

 自分が成した事が信じられなくて、間抜けな問いを吐いてしまった。狼の頭には、既に無数の皹が走っており、止まらない。他の二頭も、何も言わず只寄り添う。

 ――終末による神の権能の低下と、既に理を果たしつつあり力を減じていた暴虐神。そして三つ首であるが故に、一つ首が死んだとしても暴虐神自体は死ぬことが無い。様々な理由があって、この奇跡は成し遂げられた。

「く――無様、無様よ。だが、悪くは、無い」

 金の瞳が濁り、光が消えていく。それでも、牙の並ぶ口から嘲るような言葉が零れていく。

「我等は所詮、親父殿の眷属……あの方の望みに殉ずるは、ここまで、心地良いものかよ」

 がらがらと崩れる音がして、空から岩が降って来た。見れば、天蓋の地面はどんどんと近づいてきていた。もう、そこまで時間はあるまい。

「さて……間に合うか、人擬きよ」

「間に合わせる。絶対に俺は、あいつを殺す」

「く、は、は」

 躊躇わず言うレタに狼が笑い、ずる、と自分の舌で何かを喉から押し出してくる。……噛み千切られた、レタの腕だ。負った傷もそのままの。

「……繋げ」

 無造作に拾って、肩に近づける。神の紐達が寄り集まり、傷口を結び付けた。腕はぴくりとも動かないが、その内使えるようになるだろう――それぐらいは出鱈目な体に成った筈だ。

 それを見届けた金の瞳が、どろりと黒色に染まって、罅割れて、溶ける。

「せいぜい、励めよ、御袋殿――」

 その言葉を最期に、暴虐神の中の首は潰えた。すべての体が溶けて砕けて砂になり、風に吹き散らされていく。

 それを自然と、見送って――どん、と背に追突された。

「何をぼうっとしている! 時間は最早僅かだぞ!」

「戦神は我が抑える! 貴様は行けい!」

 残る二頭が告げた言葉に頷き、レタは左側の首の背に飛び乗る。魔狼は地を蹴り、混沌の波すら蹴って、あっという間に空に舞った。

「――お母様! どうか、どうかお父様の望みを、叶えて下さいませ――!!」

 ラヴィラの最後の声は、あっという間に遠くなっていった。



 ×××



 地面が落ちる。

 巨大な波のように、岩盤が空に広がり、落ちてくる。

 否、大地だけではない。海もまるで理を忘れたかのように、水の塊が揺れ、空に広がり、畳まれていく。海原神が死んだからだろうか。

「――神は死なぬ。如何に身も魂も砕かれようと、再び始源神により生み出される」

 意識を読まれたかのように、アラムが呟く。

「だが、それは神に定められた理のままに果てた時のみ。お前ならば、或いは」

 独り言のように呟かれたので、答える代りに黒い毛を掴み直した。

「チ。やはり、首一つでは抗えんか」

 アラムが金目で中空を睨みつけて呟く。崩れていく海の中、ただひとつ浮かぶほの光る島。それを守るように宙で構えているのは、その身を半ば砕かれかけながらも、黒い狼の首を一つ掲げた戦神だった。

 ぐっと息を呑んだレタに対し、既に一つ首になってしまったアラムは呟く。

「我等は所詮、神の擬きに過ぎぬ。忌まわしき魔女王が無理やりに神へと仕立て上げ、それでも始源神に逆らえぬ愚者共よ」

 初めて、この暴虐の神の鬱屈が聞けた。他者を擬きと罵るのも、自分自身がそうであると思っていたからこそなのかもしれない。

「結局、我等に親父殿を助けることも、理解することも出来なんだ。だが、貴様ならば――」

 空を駆ける狼に、言葉よりも先に何かを伝えたくて、首の柔らかい毛をぎゅうと抱きしめた。驚いたように鼻先を上げる狼の耳元に、ただ一言。

「お前達も、勝て。戦神を殺してこい」

「く――ははは、ははははは! 言われずとも!!」

 本当に嬉しそうに笑い叫ぶ、息子の背から飛び降りた。それを塞ぐように戦神が動くが、残る一つ首はそれを許さない。

「奥方殿、行かせぬよ!」

「それはこちらの台詞ぞ、戦神ィッ!!」

 巨大な槍斧と狼の爪がぶつかる音を聞きながら、皹の入り始めた島に転がり降りる。あれだけ侍っていた竜も居ない。ただ平らで、真ん中に浮かんでいた白い球も無い。

 ただ、代わりに置かれていたのは、寝台のように小さな祭壇。その上から、黒い液体が流れ落ちてくる。

 黒い液が島の表面に触れる度、まるで砂の上に水を流したように帯を作り、削れていく。それは島を伝い海へと落ち、その海すらも削り、皹割っていく。

 触ったら拙いものだと瞬時に解ったので、黒い河を飛び越える。寝台の上は黒い池のようになっており、その中に浮かんでいる体を漸く見つけた。眠っているのか、黒髪の美しい男は、目を閉じたまま動かない。

 沈みそうな体を捕まえようと、覚悟を決めてその肩を掴む、と。

「――、あ」

 硬い筈のそこが、ぐずりと崩れた。服も、肌も、黒い粘液になって溶けて、指の間をすり抜けて落ちる。この悍ましい黒い液体は、全部、崩壊神の身体なのだ。形を保つことが出来なくなったかのように、黒い海を生み出しながら、どろどろと溶けていく。

「ふざ、けるな……!」

 これのこんな無様な姿など望んでいなくて、躊躇わず黒水の中に手を差し込む。未だ浮かんだように見える目を閉じたままの顔を掴んで、ずるりと引き抜く。……体はついてくること無く、そのままずぶりと沈んで消えた。

「っアルード!」

 頭部を抱えて、名を呼ぶ。首の切れた場所から絶えず黒水が流れ落ちて膝を汚していっても構わずに。嘘のように美しいのに、細かな皹の入った瞼が震え、開く。金色の濁った瞳はそのままで、しかし白目であった部分が黒く染まりきり、黒い涙が溢れだしていた。

「……よう。来たのか、お前」

 唇の両端を引き上げて、首だけの神が嗤う。

「残念だが、時間切れだ。いつも通り、終わる」

 その笑顔は、酷く空虚で。何もかも諦めてしまったような、酷く冷めた顔で。それを見た瞬間、レタの苛立ちは頂点に達した。

「ふざ、けるな。ふざけるなよ……! 俺を巻き込むだけ巻き込んでおいて、ひとりで、逃げるのか!」

「逃げる? ……いいや、違う。終わるんだ。何も終わらないのに、終わる」

 ぴしりと皹が入る。割れるのは世界か、神か、もう解らない。それでも、それでも――

「次は――どうするかな。また、お前に似たような奴でも、探してみるか」

 他人事のように、譫言のように。もう自分の方を見ずに囁くこの神が、我慢ならなかった。

 小さく舌打ちをして、レタは。今にも弾けて消えそうな、崩壊神の唇に齧りついた。がり、と硬い音がして、思ったよりも簡単に、欠けて腹の中に落ちていく。

 突然の行動に、驚いたように金の両目が瞬いた。初めてこの規格外な奴を出し抜いた気がして、気分が良い。

「まだ間に合う、アルード」

「……、」

「俺を、全て壊せ。たとえ世界が元通りになっても、俺だけは壊れたままでいるように」

 全てが黒い粘液となって零れ落ちるのを胸元で受け止めて、もう一相手の唇を噛む。口腔から溢れる黒を、啜って飲む。酷く腹が熱くなり、腐って融けるような悍ましさを感じても、止めなかった。

「そうすれば、必ず! 創り直されても、俺がお前を、殺してやるから!」

 決意のつもりだったのに、哀願のようになった声が心底腹立たしかった。

 ゆるりと解けて崩れていく金の複眼が、笑うように歪んだ。

「は、は――そう、か」

 もう口の形も原型を成していないのに、嘲るような声はきちんと聞こえた。

「じゃあ、もう少し、待ってやる」

 その言葉を最後に、崩壊神の首は全て溶けて消えて、

「シブカ。こいつを、守れ」

 最後の声も掻き消えた時、レタの体は突然膨れ上がった、大蛇の口に飲み込まれた。

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