山猫姫世界の海洋冒険もの

鷹見一幸

第1話

・序章


 眩しい初夏の日差しが、承安の港を照らしていた。

 承安は、延喜帝国の南にある大きな城砦都市で、国土の中央を流れる光来河という大河の河口に面し、大きな港を持つ港町でもある。前の王朝の都が置かれていたことから、延喜帝国では『南都』と呼ぶものも多い。

 大陸を流れ下る河は、黄土と呼ばれる大陸の土を溶かし込んで茶色く濁り、一年を通じて決して澄むことはない。その河の水が海に注ぐ河口から、少し上流に上ったところに承安の港があり、そこには長い桟橋が突き出している。

 大桟橋と呼ばれるその桟橋は、光来河を上り下りする河船と海からやってきた外航船が共同で使っている。大陸の内陸で産する物は河船でここに運ばれ、外航船に積み替えられ外国に送られ、海の向こうの国から運ばれてきた品物は、ここで河船に積みかえられて、延喜帝国の内陸へと運ばれていくのだ。

 その桟橋の突端で、日焼けした浅黒い肌を持つ一人の少年が、太い麻の綱を一生懸命に巻いていた。

 年齢は十二歳くらいだろうか、痩せた体から伸びる細長い手で、器用に綱を巻いていく。綱と言っても、それは大きな船を桟橋に舫うものであり、少年の手首と同じ位の太さがある。

 水を吸って、じっとりと重くなった、その太い麻の綱を巻くのは、大人でも結構きつい労働だ。

 額に汗の粒を滲ませながら綱を巻いている少年に近づいた、がっしりとした体つきの男が声をかけた。

「沙敬【ルビ:しょうけい】! 舫い綱を巻き終わったら、倉庫に行って緋毛氈の敷物を持って来て十四番桟橋に敷くんだ」

「わかりました親方!」

 沙敬と呼ばれた少年は、そう答えた後で、ちょっと怪訝な顔になった。

「桟橋に敷物を敷く……ってことは、都から偉い役人でも来るんですか?」

 桟橋の歩み板は、長い間風雨に晒されて、そっくり返り、あっちこっちに隙間や出っ張りがある。その上を歩いた偉い役人が蹴つまずいたりすると、港の管理不行き届きということで港を管理している港湾部局の役人が叱責されることになる。そのため、都から偉い役人が船で来るときは、桟橋の板の上に敷物を敷くことになっているのだ。

 親方は笑いながら首を振った。

「いや、役人じゃねえ。都にある蒼橋商会って大きな商家の御隠居の婆さんだ。都から馬車に揺られて旅をするのはキツイってんで、船で来るんだとよ。結構な歳で、足でも引っ掛けて転ばないように敷物を敷いてくれってことらしい」

「へえ、役人でもないのに、敷物を使えるんだ……身分が高い役人だけだと思ってた」

「ああ、金さえ払えば、どんな人間だって特別扱いをしてもらえる。たとえお前のような身寄りの無い小僧ッ子でも、千金を積めば、身分の高い役人や定族と同じように桟橋に敷いた敷物の上を歩いて遊覧船を一隻借り切って、船の中で美味い物を食って昼寝ができる。それが金の力ってヤツだ……」

 親方は、そこで言葉を切ると、にやっと笑って見せてから言葉を続けた。

「だから、金を稼ぐのは大切なことだぞ、沙敬」

「わかりました! 親方!」

 沙敬は白い歯を見せて笑った。

 パタパタと桟橋の板の上を走っていく沙敬を、親方は父親のような目つきで見送った。

 沙敬には父も母もいない。彼は孤児だった。

 十一年前、何十年に一度、という途方も無い暴風がこの地を襲った。

 暴風は丸一日荒れ狂い、承安の港の中でも、風で舫い綱が切れた船が流されたり、桟橋にぶつかって穴が開いて沈んだ船が何隻もあった。南の方では漁船がことごとく沈み、働き手を失い離散してしまった漁村がいくつもあったと言われている。

 沖を行く船の中にも難破した船があったのだろう。暴風の次の日、承安の港の先にある砂州には、沈んだ船の積荷が、いくつも打ち上げられた。

 沙敬は、その打ち上げられた積荷の中にある船行李と呼ばれる、水に沈まないように細工を施した大きな箱の中に入れられたゆりかごの中で泣いているところを発見された。

 上質の布に包まれていたことから、おそらく裕福な身分の家の子供であり、せめて子供だけは助かるように、と船行李に入れられたのだろうと、人々は噂した。

 首に掛けられている象牙のアミュレット以外に、身元をたどれるような物もなく。その子供は、港で商いをしている若夫婦が引き取った。

 若夫婦は、その孤児に「沙敬」と名付けて育てていたが、一年前の夏に、南から来た交易船の船員が、たちの悪い熱病を承安に持ち込んだ。

 沙敬を育てていた夫婦は、この熱病に罹り、相次いでこの世を去った。

 港湾労働者の元締めをやっている親方が、残された沙敬の面倒を見ることになったのだが、沙敬は親方の家での同居を断り、育ての親と暮らしていた小さな家で、そのまま一人暮らしをしている。

 隣の桟橋に走って行った沙敬は、手押し車の中に積んであった薄手の赤い敷物を巻いたものを抱え込むと、よたよたと歩いて、桟橋の突端から少し手前あたりに敷物を置き、左右の幅と傾きを確認してから転がして延ばし始めた。

 敷物は、桟橋の真ん中を、コロコロと転がりながら真っ直ぐ伸びて、船が着くあたりまで行ってパタリ、と広がった。

 少し離れたところから沙敬の手際を見ていた親方は、感心したようにつぶやいた。

「……たいしたモンだ」

「何がでやすか?」

 怪訝な顔をする作業員に、親方は巻物を敷いている沙敬を指差して答えた。

「沙敬の敷物の敷き方だ。先の読めないヤツは、延ばしてしまってから斜めになっていることに気がついて、人に手伝ってもらって真っ直ぐに敷きなおしたり、と、ばたばたするんだが、あいつは、敷物がどこまで伸びていくのか、その先を読んで 置く場所を決め、斜めにならないように桟橋の縁に合わせてから、丸めてあった敷物を延ばし始めた。あいつに敷き物を敷かせたのは、まだ二回か三回だが、手順をしっかり覚えて、一人でやってのけやがった。段取りのよさとカンの良さは天性のものかもしれねえな」

 親方が、そんな感慨を抱いているとも知らず、沙敬は、桟橋の上をぱたぱたと走り回って、雑用をこなしていた。

 やがて、中港の北にある高台の望楼から、船の入港を知らせるカン、カン、カン。カン、カン、カン。という三点鐘の音が聞こえて来た。

 望楼には、望遠鏡を持った港役人が陣取っていて、どんな船が入港するのか、鐘を叩いて教えることになっていた。

 船の河下りの定期船は鐘一つ。海を回る外航船は鐘二つ。特別仕立ての船は三つ。役人の乗る公用船は鐘四つ。というのが決まりである。

 ――三点鐘ってことは……蒼橋商会の船だ!

 沙敬は顔を上げて、川の上流を見た。

 遠く、初夏の日の光を浴びて、金色にきらめく屋根を持つ、三階建ての朱色の屋形船が見えた。

 川船は喫水が浅いため、船室を船の上に作らねばならないとはえ、三階建ての船はそう多くない。ましてや屋根を金色の瓦で葺いているような豪華な船は、めったに無い。

「すげえや……」

 目を丸くして見つめる沙敬を見て、入港作業員の班長が、笑いながら言った。

「見るからに金持ちっぽい船だろ。でもな、あれでも皇帝陛下の乗る玉座船【ぎょくざせん】に比べれば、貧相なモンだぜ」

「皇帝の船って、そんなにすごいんですか?」

 目を丸くする沙敬を見て班長は自慢げに答えた。

「おうよ、二十年以上前のことだが、皇帝陛下が婚礼のときに、玉座船で、この承安まで来たことがあった。すごかったぞ、金色の屋根を持つ都の宮殿が、そのまま水の上に浮かんでるような大きさの、トンでもねえシロモノだった。でも、金がかかりすぎるってんで、皇帝陛下がもっと小さい船に作り替えちまった。古い玉座船の屋根とかは、長陽の渡しに移築されて、役所になってるから、帝都に行く時があったら、見てみるといい。屋根の金板は剥がされちまったが、すげえ豪華な建物だぞ」

「へえ、行ってみたいなあ……長陽の渡し……」

「お前も、もう少し大きくなれば水夫の仕事の口もあるだろう、水夫になって船に乗れば、どこにだって行けるぞ」

「それは違うよ、水夫になったって、船の行くところにしか行けないじゃん、行きたいところに行けるには船長にならなくちゃ」

「う……あ、ああ、そうだな」

 言葉に詰まった班長を見て、作業員たちが笑った。

「沙敬の言うとおりだな」

「班長、一本取られましたね」

 班長は頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。

「ああ、全くだ、末恐ろしいガキだぜ。もしかしたらこいつはホントに船長になっちまうかもしれねえな……」

 班長はそう言うと川の方を見た。

 三階建ての豪華な屋形船は、もうそこまで来ていた。

「潮が下げているせいで思ったより流れが早い。船が行き足を止めた後、もやいは二重にしてしっかり掛けろ! 桟橋にくくりつけるつもりでがっちりとな!」

「わかりやした!」

 作業員たちは、口々にそう答えると、一斉に動き出した。

「おい、沙敬、お前は船尾【とも】の方に行って見てろ。舳先【へさき】はこれから大忙しだからな!」

「はい!」

 沙敬は、班長にそう答えると、桟橋を船尾の方に走って、入港作業にあたる作業員たちから少し離れたところで船をていた。

 蒼橋商会の船は、川を上り下りする運荷船や、人を運ぶ通船を三隻並べたほどの大きさがある。

 三階建ての家が船の上に乗っているようなつくりの、屋形船と呼ばれる形の船で、川を使った船遊びや旅行に使われるための船だ。船尾と舳先には、二本の帆柱が立っており、川の流れに逆らって川を上るときは、この帆柱に竹を細く割いて編んだ、アンペラと呼ばれる板を組み合わせた帆を使って風邪の力で帆走するのだが、川下りのときは帆をたたんでいる。

 船尾の左右に十本ほどの長いオールが延びており、それを使って、方向を変えながら、船は見る見るうちに近づいてきた。

 船の上では水夫たちが走りまわり、船べりに立つ見張り員が船と桟橋との距離を大声で船尾にいる舵取りに伝えている声が聞こえて来る。

 桟橋にぶつければ、桟橋も壊れるし、もし船の側面に穴が開けば、そこから浸水して船は沈んでしまう。接岸は船にとって最も危険な作業なのだ。

 桟橋に並んでいた作業員たちは、太い竹を十本ほど束ねて網に包んだものを抱えて、親方の合図を待っている。この網で包んだ竹の束は、船が接岸する寸前に、桟橋と船体との間に、を放り込み、クッションとして衝撃を和らげるために使うのだ。

 沙敬は、船尾側の、少し離れたところに立っていた。大人たちが真剣に働いているときは、雑用係の彼に出番は無い。

 ――接岸の手順や、竹の束を投げ込むタイミングを見て覚えなくちゃ。いちいち説明してくれたり、手ほどきしてくれるような親切でヒマな人なんかいないんだからな。

 真剣な目で船と桟橋の間合いを見る親方や作業員たちの様子を見ていた沙敬の視界の上の方に、桃色のヒラヒラしたものがちらっと見えた。

 ふっと顔を上げた沙敬の見たものは、船の後にある三階建ての望楼の窓際で、手すりから身を乗り出している桃色の服を着た、五歳くらいの女の子だった。

 女の子は、行き足を止めた船の後にできる川面の渦に葉っぱやゴミがくるくる回って吸い込まれていく様子に興味を持ったのだろう。上半身を思い切り乗り出して、真下の渦をのぞきこんでいる。体の半分以上を乗り出しているので、今にも落ちそうだ。

 普通、これくらいの小さな子供には、侍女が付いているはずだが、だれもいない。おそらく下船の準備を手伝うために目を離してしまったに違いない。

 沙敬は叫んだ。

「親方! 船から女の子が!」

 ――落ちそうだ。と続けようとしたその瞬間。

 女の子は、鉄棒で前転するようなかたちで、手すりを、くるん、と回って、そのまま三階の望楼から足を先にして河の中に落ちた。

 白い水しぶきと、ばしゃん!という水音がしたが、水しぶきも水音も小さく、桟橋の上にいた作業員たちは、みんな、大型の川船の接岸作業に気を取られており、誰も気が付いていない。

 沙敬はとっさに叫んだ。

「子供が落ちたーっ! 船から子供が落ちたよーっ!」

 そして、桟橋の上に置いてあった、緩衝材用の太い竹を一本抱え込んで、そのまま河に飛び込んだ。

 網に入れてある竹の束は、船と桟橋に挟まれて割れるので、使うたびに入れ替える。沙敬が抱えて飛び込んだ竹は、その入れ替え用の一本だった。

 大人のふくらはぎほどの太さのある竹の棒は、材木よりも軽く、節の中に空気を含むので、丸太よりもよく浮く。

 沙敬は、竹を左脇に抱え、女の子が落ちたあたりまで泳いで行くと、その場で辺りを見回した。だが、河の水は茶色く濁っていて、女の子の姿は見えない。高いところから落ちたので、そのまま沈んでしまったのだろう。

 ――大丈夫だ、人の身体は水に浮く。必ず浮かんでくるはずだ。手でも服でも、つかむ事ができれば、引き寄せられる! もし、しがみつかれても、この竹があれば身体は浮く!

 沙敬は顔を上げて、河の下流の方を必死に探した。

 目が、白く動く小さな物に止まった。それは、必死に浮き上がろうとしてもがく小さな指だった。

 ――いた! あそこだ!

 沙敬は竹を抱えたまま、必死に水を掻いて進んだ。指が見えたのは、ほんの五短里【メートル】ほど先だった。そこに行くまで、実際には十秒ほどの時間しか過ぎていなかったのだろうが、沙敬には、何十分も掛ったような気がした。

 沙敬は必死に水を掻いて進んだ。そして、水面に出ている白い指をつかんだ。

 空しく空をつかんでいた小さな指が、ぎゅっと手を握り締めてきたのがわかった。

 ――息がある! まだ間に合う!

 沙敬は、その指を握り締めると、渾身の力を込めて水面に引っ張り上げた。

 水を吸った服がクソ重いが、なんとか頭が水から出た。そのまま引き寄せて、脇の下に手を入れて、抱えてきた竹の上に上半身を載せる。

 女の子はぐったりしているが、息はあった。その証拠に、肩が小さく上下している。

「もう大丈夫! これにつかまって!」

 沙敬が声をかけると、女の子は顔を上げて沙敬を見た。

 その、くりくりとした丸く大きい目には、恐怖と、そして安堵の色が宿っていた。

 気が付くと、わあわあ、という大勢の人の声が聞こえて来た。顔を上げ、振り返った沙敬が見たものは、桟橋にいた作業員たちと、船の上にいる人々が、大声で叫び、拍手をしている光景だった。


 その日の夜、沙敬は親方に連れられて、蒼橋商会の御隠居が宿泊している最高級旅館『苑麗楼』に来ていた。

 ――すげえ、壁や柱だけじゃない、天井まで金ピカだ。この旅館を遠くから見たことは何度もあったけど、まさか中に入れるなんて思ったことも無かった。

 控え室の中で物珍しげにあたりを見回している沙敬を見て、親方が小声で言った。

「こら、あまりきょろきょろするな、貧乏人っぽく見えるぞ」

 ――だって、正真正銘の貧乏人っすよ、オレ。

 喉まで出かかった言葉を飲み込んで、沙敬は頭を下げた。

「すみません」

「謝ることはねえ。俺たちは招かれて来た客だ。蒼橋商会の玉麗婆さんといえば、知らねえ者もないくらいの、強情婆さんらしいが、別にへりくだる理由もねえ。普通にしてろ普通に」

 港の作業を仕切る元締めに頼み込んで借りて来た、上等な服に身を包んだ親方が、そう言ってもっともらしくうなずいたとき、侍女らしい若い女の人が部屋に入ってきて一礼した。

「お待たせいたしまして申し訳ございません。大奥様がお呼びです。こちらへどうぞ」

 呼びかけられた親方は、バネ仕掛けの人形のように、ぴょん、と、立ち上がって答えた。

「あ、は、はい、お待たせされました、あ、いえ、そんなに待ってません」

 わたわたする親方を見て、侍女は、にっこり微笑んだ。

「そんなに緊張しなくても大丈夫です。大奥様は気難しいという評判ですが、それはご商売のときに取引相手と話をするときだけで、身内やお客様には、お優しい方です。それに……」

 侍女は底で言葉を切ると、沙敬の顔を見つめて言葉を続けた。

「……あなた方は孫娘の美麗様の命の恩人でございます。誠心誠意おもてなしをするように、と仰せつかりました。御安心下さい」

「はい、よろしくおねがいします」

 沙敬は素直に頭を下げた。


 親方と一緒に入った部屋は、床も柱も調度品もすべて茶色い木の地がでたままの材料で造られ、朱色の柱に金銀の竜や鳳凰の彫り物が、これでもか、というくらいに飾り付けられている宿屋の建物からは想像もできないほど、質素な部屋だった。

「こちらにどうぞ」

 そう言って勧められた椅子を見て、沙敬は、そのむき出しの木が、まるでベッコウのような透明感を持っているのに気が付いた。

 ――この木は、ただの白木じゃない。丹念に磨き上げられているんだ。家具だけじゃない、床も柱も、透明感が出るまで、すごい時間をかけて、職人が磨き出したに違いない。

 旅館の外壁のように朱で塗ったり飾りをつけるのと、同じくらい……いや、もっと贅沢にお金と手間ひまを掛けて造られたに違いない。

 その、ベッコウ色の艶やかな机の向こうに、一人の老婆が座っていた。

「ようこそ、さあ、座っておくれ。あんたたちは孫娘の命の恩人だ。食べきれないくらいのご馳走を山盛りにした宴席が用意させてあるが、その前に、ちょっと話がしたかったのでね。お預けをさせているみたいで、心苦しいが、少し話をさせておくれ」

 老婆は、沙敬と親方が席についてから、あらためて挨拶した。

「あたしは、蒼橋商会の先代の店主で、玉麗という。家督はすべて息子に譲って、今は隠居の身でね。こうやって毎日物見遊山に出かけている暇な婆さんさ……」

 玉麗婆さんはそう言って、にかっと笑った後で、ちょっと真面目な顔になった。

「今日は、孫娘の美麗を助けてくれて、本当にありがとう。あれは、侍女頭が、美麗付きの侍女に下船の準備を手伝えと命じたために、美麗から目を離した隙の出来事じゃった……まさか一人で三階まで登っていたとは誰も思っていなかったのじゃ。

 あそこで、お前が見ておらなんだら、美麗はこの世の者ではなくなっていたところじゃ。本当にありがとう」

 沙敬は、首をすくめた。

「あ、いえ、たまたま船尾の方にいただけです……そんな、お礼を言われるようなことは何も……」

 玉麗婆さんは首を振った。

「いやいや、見ているだけなら、礼は言わん。お前さんは、見て、そして動いた。それも、とっさに浮きになる竹を持って飛び込むなど、大したものだ。竹を持って行こう。と思いついたのはお前さんの思い付きかえ?」

「はい、周りを見たら、ちょうど手頃な太い竹があったので、これなら浮く。浮きになるものがあれば楽だろうと思いまして……」

「子供が河に落ちたのを見て助けに飛び込む。というのは、誰もが思いつく、じゃが、お前さんは。その先を考えた。より、確実に助けるには、どうすればいいか。それをじゃ。後からなら誰でも思いつくじゃろう。だが、それを、そのとき、とっさに思いつける人間はそういない」

 玉麗婆さんはそこで言葉を切ると、親方を見た。

「お前さんがこの子の親代わりをやっておるそうじゃな? 聞いた話によると、この子は海で拾われた孤児だそうだが、こうして見ると、確かにここらの生まれでは無さそうだ。獅子国人に近い顔つきをしておるようじゃが、身元のわかりそうなものを何か持っておらなかったのか?」

 親方は困ったように首を振った。

「いえ……親代わりと申しましても、沙敬を拾った夫婦は、二人とも昨年の夏に、流行り病の熱病で相次いで死んでしまいまして、こいつが拾われたときの話は、誰も知らんのです……うちのカミさんが仲良かったんで、なんでも、上等の布に包まれて、水の入らぬ立派な衣裳箱の中に入れられていた、という話を聞いたとかなんとか……でも、詳しいことは何も……」

「そうか……それは詮無いことを聞いた。このような聡い子供は、しっかりとした師につけて、人の道を教えてやらないと。悪の道に走れば、間違いなく人の世に災いをまねく……どうしたものか」

 親方は頭を下げた。

「お願いがございやす。この沙敬に、学問を教え込んでやってくれませんでしょうか? いえ、学問と言っても、小難しい書を読むようなんじゃなくて、読み、書き、ソロバン、だけで充分です。蒼橋商会の追い回しの小僧にでも雇っていただければ、コイツ、きっと役に立つと思いやす。こいつは、こんな波止場の隅っこで雑用に追われるような人生を送るような人間じゃありやせん。あっしが保証しやす。波止場の親方の保証に何の意味がある、と言われりゃ返す言葉もございやせんが、このとおりです」

 玉麗婆さんは、優しく言った。

「頭をお上げなさい。あなたに頼まれなくとも、この子は、私のところで預からせてもらうつもりでした。蒼橋商会で、追い回しからきっちり仕込めば、きっといい商人になれるでしょう」

 追い回しというのは、日本で言うところの丁稚のようなもので、大商店に住み込みで下働きをする小僧の総称である。

 玉麗婆さんの言葉を聞いた親方は、ほっとしたような笑いを浮かべて沙敬に言った。

「良かったな、沙敬。お前もこれで身を立てることができるぞ!」

 だが、沙敬は首を振った。

「せっかくのお話ですが……俺は商人になりたくありません」

「沙敬! お前! なんてことを! せっかく玉麗様が!」

 大声を上げる親方を右手で制して、玉麗婆さんが聞いた。

「ほう、お前さんは、商人にはなりたくない、とな? では、何になりたいんだね?」

 沙敬は玉麗婆さんの顔を正面から見つめて、はっきりとした口調で言った。

「俺は、船長になりたい! 船長になれば、自分の好きなところに行ける。南の島にも、獅子国にだって行けるから!」

 玉麗婆さんは、沙敬の顔をじっと見つめていたが、やがて目を閉じて、小さく笑った。

「自分が 何者で、どこから来たのか、それを知りたい……というわけか。小さくても男の子だね。よし、わかった。その願いをかなえてやろうじゃないか」

 沙敬は目を輝かせた。

「ホントに? 俺を船長にしてくれるの?」

 玉麗婆さんは笑った。

「いきなり船長は無理だ。でも、見習いの水夫にならなれる。蒼橋商会は今、新しい交易船を作っておるのじゃが、そいつが来月に進水する。その船に乗れるように、取り計らってやろう。それでいいかえ?」

 沙敬は、ぶん、ぶん、と音が聞こえそうな勢いでうなずいた。

「嬉しいです! なんて名前の船ですか?」

 沙敬に名前を聞かれた玉麗婆さんは、少し遠い目になった。

「名前はまだ決めてないが……船には女の魂が宿ると聞く。そこで、シムールに嫁いだ妹の名前をつけようと思っておる。銀麗号じゃ……口の減らない、元気な妹で、若い頃は二人して馬車に品物を積んで、北域の小さな街から街へ行商して回ったもんじゃ。きっと元気に稼ぐ立派な船になってくれるじゃろう。お前も、船長の言うことを聞いてしっかり働け。下働きのうちは、使われるのが仕事じゃ。上の人間にとって使い勝手の良い人間になることを心がけるのじゃ。同じ用事を言いつけても、むすっとした顔で何も言わずに動く人間と、ハイ、と答えて動く人間、どっちに目を掛けたくなるか、聞かんでもわかるじゃろう? そういうことじゃ」

「わかりました! がんばります!」

 目を輝かせる沙敬を見て、玉麗婆さんは嬉しそうに笑った。

「おお、その意気じゃ。頑張れば、船長も夢では無いぞ」

 その、玉麗婆さんの言葉は、沙敬の胸に深く刻み込まれた。


 ――そして、十年の歳月が流れた。


第一章「銀麗号の帰還」


 『銀麗号』は十年前に延喜帝国最大の港町、承安の南の沖にある麗明島の造船所で作られた。

 沿岸航路用の船ではなく、外海を越えて、遠くの国まで何日も航海できるように作られた、平底の船体と三本の帆柱を持つ、大型の外航船だった。

 平底だが、細身の船体で足が速く、船倉にいくつもの隔壁を持つ船体は頑丈に作られており、ちょっとやそっとの大波ではびくともしない。

 実際、銀麗号は、この十年間に何度も嵐に遭遇してきたが、そういった荒れた海をしっかり乗り越えて、遠い南の島々や、西の獅子国の方まで足を延ばし、香辛料や、珍しい動物の毛皮、そして異国の織り方で織られた布など、様々な品物を仕入れて蒼橋商会に持ち帰って来ていた。

 この日、長い航海を終えた銀麗号は、ゆっくりとした船足で、承安の港に向かっていた。

 深く沈みこんだ喫水線が、銀麗号の船倉の中に、ぎっしりと異国の品物が詰まっていることを示している。

 春から初夏に移り変わるこの季節に東から吹く季節風に乗って、銀麗号は千切れ雲が浮かぶ青空の下を進んでいく。

 ギイ……ギイ……という木造船特有の木の軋む音が響く銀麗号の船首に作られた望楼では、一人の若い男が、長い望遠鏡で岸を見ていた。

 年齢は二十歳になったかどうか、というところだろうか。背は高いが、筋骨隆々という体型ではない。ゴツさよりもしなやかさを感じさせる体格だ。肌は浅黒く、髪は少し長め。

 この時代、ガラスを磨いて作られたレンズを使う望遠鏡は、とても高価なものであり、船長クラスの人間でなければ触ることは許されない。つまり、この若い男は、船長か、もしくは船長と同等の地位にあるということになる。

 若い男はしばらく無言のまま、望遠鏡で陸地を眺めていたが、やがて望遠鏡をおろして、望楼のすぐ下の甲板で、帆として使われている竹を細く裂いて編んだ『アンペラ』と呼ばれる板を補修していた四十歳くらいのヒゲ面の大男に声をかけた。

「甲板長、承安の灯楼が見えた! この風だとあと三刻ほどで入港できそうだ。みんなに準備をさせてくれ!」

 甲板長と呼ばれた大男は、握りこぶしを額に当てるような仕草をして答えた。

「わかりやした船長代理どの。部下に入港準備をさせやす」

 若い男は、嫌そうに顔をしかめた。

「その、船長代理ってのは、やめてくれよ。把舵【はだ】と言う正式な呼び方があるだろう?」

 把舵【はだ】というのは文字通り『舵を把握する』と言う意味で、今で言うところの航海士に当たり、船員の地位で言えば船長に次ぐ役職である。

 甲板長は、にやっと笑って言い返した。

「いんや、沙敬【しょうけい】把舵のことを、船長代理と呼べ、と命じたのは船長でやす。この船で一番偉いのは船長でやす。ですからその言いつけに従ってるだけのことでやす。王慶船長は、あんたを見込んで船長代理にしたんでやんすから、もっと喜んだ方がいいと思いやすよ? 親心ってヤツっすよ」

 沙敬把舵と呼ばれた若い男の表情は変わらなかった。

「船長代理なんて肩書きは本当は無いんだぞ? 給金は把舵のまんまで、責任の重さと仕事の量は船長と同じなんて、ちっとも嬉しくねえ。あのダルマ親父は、面倒な仕事を全部俺に押し付けたくて、俺を船長代理にしたんだとしか思えねえな。あの船長にあるのは親心じゃねえな。どっちかというと怠け心だ」

 甲板長は、声を上げて笑った。

「はははは、確かにダルマ船長は、モノグサで、昼寝ばかりしていやす。でも、昼寝できるってことは、沙敬把舵を信頼しているって証拠でさあ。あぶなっかしいヤツに船の舵を任せて昼寝なんかできやせんぜ?」

「そりゃあそうなんだけど……」

 今一つ納得できない。という顔をしている沙敬を見て、甲板長はなだめるような口調で言った。

「まあ、船長の仕事を押し付けられて、忙しくて仕方ないのはわかりますが、ここで船長の代理をやらされたってことは、この航海が終わったら自分の船をもらって、船長の仲間入りってことですぜ」

 沙敬は肩をすくめて見せた。

「そんなこたあねえよ、いくらなんでも甘すぎる話だ。蒼橋商会の海運部には、俺より年上で年季を積んだ先輩が山ほどいて、みんな船長の椅子を狙っているんだぜ。俺みたいな、何の後ろ盾も無い、海で拾われたガキに、船長なんて回ってくるわけがねえよ。もし来たとしても、河船がせいぜいさ」

「それでも、大した出世ですぜ?」

「運が良かっただけさ。十年前のあの日、承安の船着場で、蒼橋商会の店主の孫娘を助けなきゃ、俺は、そもそも船乗りにすらなれなかったに違いないんだ」

「銀麗婆さんの末の孫娘……美麗でしたっけ? あの子が船から落ちたところに居合わせたのは運かもしれねえが、とっさに河に飛び込んで助けたってのは、運じゃありやせん。それは行いってヤツでさあ。人を動かすのは運じゃなくて、行いだって、偉い坊さんが言ってたそうですぜ」

「行いか……確かに行動を起こさないと始まらないのは確かだな。ちょいと船長に報告してくる。甲板長も、みんなに伝えておいてくれ」

「わかりやした!」

 そう言って、握りこぶしを額に当てる敬礼をした甲板長に、小さくうなずいた後で、沙敬は梯子を駆け下りた。

 船尾にある船長室に向かって小走りに走りながら、沙敬は、十年前に、玉麗婆さんに言われた言葉を思い出していた。

『十年頑張れば、船長になれるかもしれないよ』

 沙敬は、小さく笑うと、胸の中でつぶやいた。

 ――玉麗婆さん……あんたの言うとおり十年頑張ったけど、船長には、なれそうもねえよ……なれたのは代理だ。


 船長室の戸を叩くと、ノックの仕方で、誰が叩いているのかわかるのだろう、中から声がした。

「沙敬か? 入れ!」

「失礼します!」

 沙敬はそう答えると、戸を開けた。

 そこには、額の禿げ上がった一人の太った男が立っていた。銀麗号の船長『王慶』【おうけい】である。年齢は五十代半ば、十歳の頃から船に乗ってきた、海の古強者である。

 もみ上げと繋がった白髪交じりの頬のひげから船員たちは、影でこの船長のことを『ダルマ船長』と呼んでいた。

「承安の灯楼が見えました。この風が続けば、あと三刻ほどで、承安の港に入れます。甲板長に入港準備をさせておきました。商会あての信号旗は何色にしますか?」

 船長はしばらく考えていたが、やがて、顔を上げて沙敬に聞いた。

「お前ならどうする?」

「俺だったら……ですか?」

 船長は面白そうな表情でうなずいた。

「ああ、そうだ。銀麗号の三本の帆柱に揚げる信号旗の色で、何を多く仕入れてきたかを蒼橋商会の承安支店の連中に知らせるってことは知っているな? 入港する船の品物で市場の値段が大きく変わる。だが、わしらが知っている旗の暗号は、三ヶ月前のものだ。旗の色がどんな品物を意味するのか、おそらく相場師の連中にバレておるだろう。番頭や丁稚頭には、きつく言ってあるんだが、金を握らされて旗の意味を教えちまうようなヤツは必ず出る」

 沙敬はしばらく考えたが、やがて顔を上げて答えた。

「帆柱の旗の色は、前から黒、黒、赤、にしたらどうでしょうか?」

「香辛料多め、布少なし……でいいのか? それだと積荷と合わんぞ? 正反対だ」

 怪訝な顔をする船長を見て、沙敬は、にやっと笑った。

「舳先の望楼に、白い旗と、蒼橋商会の旗を逆さに掲げておけばどうでしょうか?」

「白旗と、蒼橋商会の旗を逆に……だと?」

「はい、積み荷を示す旗の色は、おそらく知られているでしょう。しかし信号旗の意味は知られていないと思います。白旗は『知ラセタキ事アリ』そしてその下に逆さの旗です」

 沙敬の言葉を聞いて、船長は、ああ、そうか。という表情で目を見開いた後で、にやっと笑った。

「知ラセタキ事アリ、旗は逆ナリ……という意味か」

 沙敬はうなずいた。

「はい、この旗の意味に気がついてくれるかどうか、それは賭けですが、暗号が漏れていれば、相場師は、蒼橋商会に新しい香辛料が多めに入荷すると判断し香辛料の値段は下がります。もし相場師が古い香辛料の在庫を持っていれば、市場で安めに売るに違いありません。支店の連中に才覚があれば、安くなったところで買い叩いて買い占めるでしょう。銀麗号が入港しても新しい香辛料が出回らない、ということに気がつけば、市場の値段は跳ね上がります。買い占めてあった香辛料を市場に売りに出して、しっかり利ざやを稼ぐことができるはずです。競売で高く売れれば、それだけ船員たちの受け取る配当金も増えます」

 船長は、満足そうな表情でうなずいた。

「そいつは面白い。相場師どもを出し抜けるというわけだな? それで行こう」

「わかりました、では、その配色で旗を準備させます」

 そう言って船長室を出ようとした沙敬を、船長が呼び止めた

「ああ、ちょっと待て沙敬」

「はい、なんでしょうか?」

 振り向いた沙敬を、少し真面目な顔で見つめて船長が言った。

「呂宋【ルソン】からここまで、船長代理ご苦労だった」

「あ、いえ、手際が悪くて申し訳ありませんでした」

「船長の仕事はどうだ? 横で見ていると楽そうに見えるが、そうではなかろう?」

 沙敬は素直に頭を下げた。

「はい、実際に船長の仕事をさせてもらって、今まで俺は何も見ていなかったんだということに気づかされました。実際にその立場になってみなければわからないことが山のようにありました……得難い経験をさせてもらったことに感謝します」

 船長は満足そうに笑った。

「それに気がついてくれただけで十分だ。これで、わしも、承安に戻ったら、お前さんを沿岸航路の交易船の船長に推挙できる」

 沙敬は目を見開いた。

「俺が船長に? 本当ですか?」

「あわてるな。まだ船長になったわけではない。うちの……蒼橋商会の海運部の船長候補者の表に名前が載るだけだ。なれたとしても、最初は河船か、沿岸航路の塩積み船の船長だろうな。わしも最初はそこからだ」

「塩積み船ですか……」

 塩積み船とは、延喜帝国の沿岸沿いにある塩田を回って、塩を集める船のことだ。この時代の塩は水分を含んで重く、船も傷みやすいため、他の航路で使い古された船が使われており、ボロ船の代名詞にもなっている。

 沙敬の顔に浮かんだ表情を見て、船長が笑いながら聞いた。

「ボロ船は嫌か?」

 沙敬は首を振った。

「いえ、そんなことはありません。慣れていない河船の船長をやらされるよりはマシです。河は大雨が降るたびに河底の様子が変わり、流れも変わります。私は海の船にしか……正確に言うならば、この銀麗号にしか乗ったことがありませんので……」

「海を行く船ならば、文句を言わん、ということか。わかった、その旨事務方に話しておこう、沙敬は海路希望、とな」

「ありがとうございます!」

 一礼して船長室を出た沙敬は、上甲板に繋がる梯子を登りながら思った。

 ――もしかすると、船長になれるかもしれない……ってことか。

 並みいる先輩たちを押しのけて俺が船長になれる可能性はほとんど無いが、船長候補の表に名前が入るってことは、そういうことだ。

 結局、玉麗婆さんの言うとおりになったってことか。あの婆さんも最近はめっきり足が弱って、別荘から出ないって話しを聞くけど、もしどこかで会う機会があったら、挨拶しなくちゃな……向こうは俺のことなんか忘れているかもしれないけど。

 上甲板に上がって来た沙敬を見て、水夫の一人が銀麗号の進行方向を指差して言った。

「船長代理! 承安の灯楼が見えて来やしたぜ!」

 水夫の指差す先に、さっきまで望遠鏡でなければ見えていなかった二つの白い塔が、肉眼でもはっきりと見えた。

 それは延喜帝国の皇帝が、航路を安全に航海できるように、と巨額を投じて光来河の河口の両側に建てた塔だった。

 石を積み、木で枠を作り、白い漆喰で塗り固めたその塔のてっぺんには大きな烽火台があり、夜にはそこで火が焚かれる。

 左右の塔の高さは違っており、河口から上流に向かって右側の塔は低くなっている。

 夜でも二つの灯りの高さと間隔を見れば、自分がどのあたりにいるのかわかるように工夫されているのだ。

「ああ、戻って来たな。久しぶりに光来河の匂いを嗅いだよ」

 沙敬の言葉を聞いた水夫は笑った

「海の匂いの違いがわかりやすか?」

「ああ、土臭い。このあたりまで、河の水が流れ込んでいるんだろう。あれだけでっかい河だからな。海に注ぐ水の量も半端じゃないってことだろうな」

「海の匂いで、自分が今どこのあたりにいるのかわかるようになれば、一人前っすよ」

「俺もそれなりに年季が入って来たって事かな?」

「年季と言えば、この銀麗号も十年でやす。半年前に大修理して、痛んだ船底も張り替えて帆柱も新品に取り替えて、新品同様に生まれ変わってやすから、定期的に手入れしていけば、あと五年、十年は充分使えやす」

 そう言って、水夫が嬉しそうに笑った、そのとき、追い風が増して、銀麗号が、ぐん、と速度を上げたのがわかった。

「銀麗号も早く戻りたがってますぜ」

「承安は生まれ故郷だからな……俺も、こいつも」

 哨戒はそう言って笑って見せた。


 銀麗号が、蒼橋商会専用の桟橋に接岸したのは、その日の昼過ぎだった。

 船舶司という外国との交易船を監督する役所から来た船役人が、官券と呼ばれる取引書類の確認と、目録以外の品物や武器などを隠していないか、熱病の病人はいないか、などを調べた後で、やっと上陸許可が出た。

 沙敬は、官券の写しと台帳を持って航海の報告のため支社に行く王権船長を見送った後で、水夫たちに、銀麗号に誰も乗り込ませないように指示をしてから、積荷のリストを持って、船倉に入った。

 ロウソクを灯したカンテラを持って薄暗い船倉に入った沙敬を、ツン、と鼻を突く香辛料の匂いが包んだ。

 カンテラの灯りの中に、薄暗い船倉の中にぎっしりと詰め込まれた香辛料と薬種が詰まった樽や精緻な刺繍を施されたタペストリーなどが、ぼうっと浮かび上がる。

 長い航海の間に、毛織物の一種であるタペストリーに、この香辛料の匂いが染み付いてしまうのだが、この、染み付いた香辛料匂いこそが本物の証である、として珍重されることから、タペストリーは、わざと香辛料の樽に挟むようにして詰め込まれている。

 船倉にある物は、どれも市場に流せば途方もない値がつくような品物ばかりだ。特に樽につめ込まれている「海参」【かいじん】と呼ばれるナマコを干したものは、薬効のある珍味として、驚くほど高価で売れる。いわば今の銀麗号は宝船のようなものである。

 沙敬が水夫たちに、銀麗号に誰も寄せ付けるな、と命じた理由は、荷物の受け取り人のふりをして品物を持っていくヤツや、言葉巧みに水夫に言い寄って、積み下ろしの際に、荷物を抜き取ろうと企てるようなヤツが後を立たないためである。

 蒼橋商会の承安支店の大番頭が、船長が持っていった台帳の割符を持って来ないかぎり、絶対に品物を船から下ろすことはないし、部外者を船に乗せることもない。

 船倉に入った沙敬が、手に持った台帳の控えと、船倉の積荷を照合し始めて、しばらく過ぎた頃。上甲板で、何やら言い争う声が聞こえて来た。

 片方は聞き覚えのある甲板長のだみ声だが、もう片方は聞き慣れない声だ。

 ――役人か? いや、役人相手なら甲板長は、あんな言い方はしない。何者だ?

 そう考えるのと、船倉の扉を叩かれるのは同時だった。

「船長代理! ちょっと来てください! 甲板長が呼んでます!」

「わかった、すぐ行く!」

 沙敬はそう答えると、台帳を閉じ、カンテラの中のロウソクの炎を吹き消してから、船倉を出た。

 上甲板に上がった沙敬の目の前にいたのは、困り果てた顔をした甲板長と、下卑た笑いを浮かべている若い男だった。

 何事だ? と聞くより早く甲板長が、助けの神が現れた、という表情で言った。

「ああ、船長代理、実は、こいつが荷車を引き連れてやってきて、妙なことを言いやがるんでさあ」

「妙なこと?」

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山猫姫世界の海洋冒険もの 鷹見一幸 @enokino

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