零の幕間、あるいは『青波の魔女と名無しの使い魔』そのはじまりの話の続き
只ノ一一
(『青波の魔女と名無しの使い魔』000話、その続き)
長い夢を、見ている。
……
それは、彼女にとって聞き慣れた音、聞き慣れたリズムだった。
三回。リン、リン、リンと綺麗な音の呼び鈴が鳴る。三秒ほど間が空き、ノックは三回。それからまた、三回。そこから間を置かずにカチャカチャとスムーズな金属の音が響き、そして扉は開く。
「ただいま。ナミ」
そこに響くのは、低く深い、声。
上がりかまちの最前に立つ彼女は、実に不機嫌な顔で、帰宅を告げ扉を閉めた彼を見遣る。
「ただいま」
再び、彼が声を掛ける。
「……遅い!」
扉の外は殆ど真っ暗だ。こんなに遅くなるなんて。深夜、あるいは超のつく早朝と言ってもいいくらいの時間なのだ。彼の帰宅は、遅すぎる。そう、彼女は無言のまま、瞳で強く訴える。
「ごめんよ、ナミ。遅くなった……ただいま」
「兄ちゃん……おかえり」
渋々、といった口調で、対になることばを返す。
「済まない、ナミ」
そう言って彼は靴を脱ぐと家へ上がる。
かまちの段差があったとき、二人の身長はほぼ互角だった。だから、土間にいる彼も、室内で出迎えた彼女も、同じ目線、真正面から見合っていた。
だが。こうして上がると、彼の身長は彼女よりも頭一つ分は高い。彼女は身長の伸びた……もしくは、元の身長差に戻った彼を、その青の瞳で睨み上げる。すぐに彼は少しだけ腰を折り、への字口のままの彼女の頬へと唇を寄せる。右、左。そして彼女もすぐ、腰をかがめたままの彼に、返礼をする。彼の凍えたその頬に、柔らかい唇を寄せて。右、左。
「ナミ。まさかと思うが、ずっと起きていたのではあるまいな」
「そのまさかよ、兄ちゃん」
だって。彼女は、彼にきちんと「おかえり」を言いたかったのだ。だから、待っていたのだ。
けれどもまさか、こんなに遅くなるなんて。もうすぐ、夜が明けてしまうのではないか、というような、こんな時間になるなんて。
それでもキチンと言えたのだ。おかえり、を。ならば、仕方があるまい。
そう彼女は納得をして、玄関脇に置かれた時計に目を遣った。
「兄ちゃん」
彼が答える前に、彼女の左手がクイッと彼の手を取る。柔らかく温かい。だが、どこか有無を言わせぬ力のある、綺麗な手で。
「行くわよ」
「……ナミ?」
「外に。もうちょっとで夜明けでしょ。お天道様を、迎えに行きましょう」
さあ、はやく。そう、彼女は続けたが、対する彼はというと、「まだ日の出には早いのではないかね」「そう慌てなくてもいいのでは」などと、少し間の抜けた声を差し挟む。
そうしている間に、彼女はいつもの靴を履き、彼もまた土間へと戻って先ほど脱いだばかりの靴を履いていた。
「さあ、行こう。兄ちゃん」
「そうかね」
彼の妹は大層我が強く、何をやるにしても極めて独善的である。そしてそれに、兄である彼を巻き込むのもまた、常である。彼は渋々といった表情ではあるものの、しかし優しい手で彼女の手をふわりと握り返した。
扉を開け、二人は揃って外を見遣った。家の扉は東へと向いていたから、二人の目線は共に東の空を捉える。外がほんのり明るくなり始め、夜の闇が朝の青へ、深いふかい藍色へと塗り替わりつつあることを、各々が確認する。
パタン、と扉の閉まる音がする。彼女が、後ろ手で、家のドアをきちんと閉めた音だ。
と、同時に。一言。彼女が小さく呪文を唱える。
流れるように、歌のように、一小節。
扉の、施錠の呪文だ。
鍵を扱うのも面倒だ。ならば、魔力を通して、軽く鍵を閉めればいい。すぐそこの坂の上まで行って、東の空を眺めるだけのことだ。物理的な鍵でなくてもいいだろう、という彼女の判断である。そこは、いかにも魔女らしい。
ちなみに、物理的な鍵かけよりも、彼女の魔力による施錠の方が、鍵の締まりは良い。防犯上は、実はより安全なのである。
「さあ、暁天を。朝日を観に。行こう、兄ちゃん」
そうして改めて彼の右手を取ると、彼女は外へとふり向いた。
空は、ほんの少しだけ、色を染め変え始めていた。
そこで。彼女の意識が切り替わる。
否。
目覚める。
……
パチ、パチ、パチ。
子どもは瞬きを繰り返した。二度、三度。部屋はまだ、真っ暗だった。夢の中では、もうすぐ夜明けだったのだが。
すぐ傍、彼女の右の頬の先には、兄の顔。だが、彼女が目を覚ましたことが伝わったのだろう。彼の顔もまた、すぐに目が見開かれる。ひょっとしたら、彼は眠っていなかったのかもしれない。小さな彼女にはよくわからなかったが。
「兄ちゃん」
「ナミ、どうした。まだ夜中だよ」
「兄ちゃん、ただいま」
「……おかえり、ナミ」
返事をし、小さなあくびを一つ漏らすと、彼は小さな妹の頭を一撫でして、すぐにこう続けた。
「でもね、ナミ。和語だと、起きたときは『ただいま』じゃなくて『おはよう』というんじゃなかったかね?」
「うん。でも」
このせかいに、もどってきたから。このせかいに、「ただいま」といったの。
寝起き、というよりも未だ眠りの中にあるような声で、彼女は掠れるように彼に言う。彼はあまり興味の無さそうな声色で「そうかね」とだけ返してきた。
真冬の夜中だ。寒さもかなりある。そのことを急に意識して、彼女は大きなおおきな兄の体に更にぴったりと体を寄せる。兄が、そうして身を寄せてきた小さな彼女に、その頬に、同じように身を寄せて、頬擦りをする。
「ナミ、『おはよう』を言うにはまだ早すぎる。日が昇るまでは時間がある。寒いし、まだ寝ておいで」
「……ゆめをね、みたの」
「……いい夢だったかい」
「……兄ちゃんの『ただいま』が、おそかったの。すごく、すごく」
それを少し思い出して、彼女は口をへの字にする。真っ暗な室内だから、こんなに近くても彼女の表情は分からないだろう……と小さな彼女は思っていたが、夜の闇に慣れた彼の目には、彼女のその不機嫌な表情は丸判りのようだった。そして。いやむしろ、その表情につられてなのか。どうしたことか、彼はちょっと可笑しいぞ、とばかりに、唇の端にほんの小さな笑みを浮かべている。そう、彼女の瞳は見て取る。
彼女はいつの間にか、無意識の内に、目に魔力を通していたようだった。いつもの習慣。夜の闇、その万が一にも備えられる、彼女の魔力。
彼が笑ってくれていたことに、彼女は少しだけホッとする。
「兄ちゃんがね、『ただいま』っていうの。わたし、おこって、おこって、それからやっと、『おかえり』っていうの」
「ふーん。見た夢はそれだけかい、ナミ?」
「……うーんとね。どうだろう」
少しだけ身を離し、小さな彼女は大きな兄の顔を見る。同じ布団、同じ横にった姿勢、そして同じような寝ぼけまなこ。目線も、いつもよりもうんと近く。尤も、兄ちゃんは目に魔力を通していることはないだろうが。
うんと近い目線。それが少しおかしくて、彼女は小さく笑みを浮かべる。
「ゆめのなかのわたしはね、ずっとおねえさんだったのよ。ちゅうがっこうとか、こうこうとかに、いっているの。ずっとね、おおきかったの」
ひょっとしたら、だいがく、かもしれないわ。彼女は内心でそう思ったものの、そこまでは口にしなかった。
「兄ちゃんは……」
「兄ちゃんは?」
彼が、少しだけ、期待を込めた声色で、彼女にその先を促した。
「すこし、おじさんになっていたよ」
「……」
彼は、絶句したようだった。
「あとねー、わたしがおおきくなっていたからね。兄ちゃんのおかおがね、すごく、ちかかったの」
今の彼女はまだ子ども。たったの五歳。次の二月には六歳だけれども。そして当人としては、かなり大きくなったつもりなのだが。けれどもまだ、小さすぎる。
対する彼は十八歳。しかもかなりの長身で、結構がっしりとした体格だ。だから彼は軽々と、五歳の彼女を持ち上げて、その気になれば肩車だってなんだって、してしまう。けれども、彼女の手は、背の高い兄の肩にすら届かない。背伸びをして、頑張っても、だ。
だが、先刻の夢の中では、彼女はその兄との身長差がぐっと縮まっていた。手を伸ばせば頬に届く、というのは、夢の中とはいえなかなか新鮮な体験であった。この布団の中のように、顔が近かった。夢とはいえ、なんとも不思議だ……そう思い起こし、どうにも彼女はおかしくて、ニコニコとしてしまう。
「あと、あたまいっこぶん。そこまでちかくに、なっていたの」
「そうかね」
彼の返事にもまた、どこかニコニコとした笑いの気配が含まれている。
「さあ、夜はまだ長い。もう少しだけ、寝ておかないと」
「うん」
わかった。小さく声を漏らして、彼女は大きくあくびをする。
「次は……お日様が出たら、お日様……お天道様に、『おかえり』を言ってあげよう」
「うん」
おてんとうさまに、「おかえり」だね。兄ちゃん。そう、彼女繰り返す。ああ、と返事を返して、彼が柔らかく彼女の小さな背中と、髪の毛とを、撫でる。ゆったりとしたリズムが、心地よい。
暖かい布団の中で、いつしか彼女は瞼を閉じていた。
「……兄ちゃん、おてんとうさまに、『おかえり』っていうのはね、ふたりでね、いうんだよ」
「ああ」
「おてんとうさま、『おかえり』って」
「ああ」
「……兄ちゃん、あした、はれるかなあ」
「……どうかな」
「おてんとうさま、あえると、いいなあ」
「ああ」
「兄ちゃん、いっしょだよ。いっしょにだよ」
「ああ」
「そうして、いっしょに、ごはんを、たべよう」
ごはん。あしたのあさ。どんなごはんが、たべられるのかな。おいしいかな。ほかほかかな。そう、彼女は少しだけ翌朝の食事に思いを馳せる。瞼を閉じたままで。
もう少しで眠りに落ちる、というその寸前。彼女は、小さく口にしていた。
「……みんなで、いっしょに、ごはんをたべようね。こんどは……五にんみんなで、おそろい、だよ。いいね、兄ちゃん……」
その声はか細く、ほんとうに聞き取れるかどうか、という呟き。
けれども。
その声を耳にした「兄ちゃん」の目が、驚愕に、そして苦痛の色を湛えて見開かれたことを、隣にいる幼子は知ることは、ない。
そうして幼子が穏やかな眠りに落ちるのと同時に。彼の、錆びた鉄のような瞳から、ゆるりと涙が零れて落ちた。
そして。長い夢を、見る。
(零の幕間、了)
零の幕間、あるいは『青波の魔女と名無しの使い魔』そのはじまりの話の続き 只ノ一一 @cococo_gogogo
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