炭酸瓶の底、ナイフは走る。

鯰屋

描きたもうれ炭酸瓶

 机と椅子は窓の外、黒板、廊下、各々の興味の方向へとずれて、乱雑ながらも整列されている。塩素の匂いは教室へ重たい眠気を落とし、チョークが黒板を打つ音は呆れにも似てよく響いていた。茹だる夏風にカーテンが膨らんで、遥か遠くで振動する電車の音の方へと頬杖は傾いている。

 銘々が時計の動きばかりを気にする空間で、英文法を書き写しているのは隣の彼女だけのように思われた。柑橘風味の制汗剤と切り揃えられた前髪が、僕の心を捉えて離さないのは英語に興味がないためだけではない。


 これから起こる惨劇を、僕だけが知っているからだった。

 白い指先が欠伸を隠し、それを目撃されたことに気付いた彼女は口元を隠したまま目元だけで笑ってみせた。

 その笑顔が壊れるのは数秒後——突如として窓ガラスの割れる音に驚く間も無く、眠る生徒を怒鳴ろうとした教師の顳顬こめかみを弾丸が貫いた。弾丸に撫ぜられた両眼が同時に脳天を向いて、170cmから倒れた頭蓋骨が教壇へ叩きつけられた。遅れて上がる女子生徒たちの悲鳴をかき消すように、窓の外から機関銃が乱射される。


 轟音と血飛沫の中、咄嗟に彼女へと覆い被さったことで僕たちは無事だった。滞空するヘリから窓枠を乗り越えて侵入するのは武装した黒衣の集団。堅い靴底の音が近づいてくる。

 照れ笑いを隠したままの手の上から、僕は彼女の口元を強く押さえた。小刻みに震える目尻には涙が浮かび、とどめを刺して回る銃声が近づくたび圧迫された息は熱く激しさを増していく。死んだふり、撃たれた生徒のふりをするしかない。言葉は要らない、僕はひたいが当たりそうな距離から目で訴えた。

 今だけじっとしていてくれ。一瞬でいい、連中の注意が逸れた刹那の間に——僕がすべて片付けるから。


 順繰りに殺されていくクラスメイト。昼休みに馬鹿騒ぎしていたのが嘘みたいだ。迫る軍靴と銃声、早くなっていく彼女の鼓動。やれやれ、と隠してきた僕の本能が牙を剥き出しに——



 ○



 皆は今、二時間目が始まった頃でしょうか。

 夜との境目も曖昧なままに、埃をまとったカーテンから差し込む陽光に朝を知りました。暖房をつけたままだったから喉が枯れて欠伸あくびに痛みを感じます。

 締め切った窓にはいつぞや僕の吐いた息が露点に達して水滴を形成し、せっせとかびを育てていました。その遠く向こうで聞こえる家庭ゴミ回収のトラックの地鳴り。いっそ自分も回収してはくれないか、そして願わくば、砕いて溶かしてより良い人間の型へと流してリサイクルしてほしいものです。


 この心は、どんな松葉杖を用いようとも立ち上がれないのです。

 僕は布団に潜ったまま、匍匐前進ほふくぜんしんと四つん這いの中道を往くような姿勢で移動する。ノートパソコンを開くために丸まったティッシュと空き缶を腕で押しのけました。しかし、いつまでたってもバックライトが点灯することはありませんでした。

 昨日——あくまでこの表現が正確であるかは分かりかねますが、眠った時間は日付を跨いでいたような気がしますので——眠る前に充電器へと接続することを失念していた、と。そう考えられました。


 僕の日常において平日と休日という言葉は、カレンダーの数字が黒いか赤いか程度の違いでしかありません。したがって、僕の毎日は社会適合者の皆様からすれば休日であり、僕の休日とは僕にとっての平日とも言えることになります。

 それは、昼と夜においても同じように言えます。僕が夢から覚めて嘆息を漏らした瞬間から昼は始まり、僕が夢に疲れて嘆息を漏らしながら枕へと帰る瞬間から夜なのです。朝や夕などの曖昧な時間は存在しないとも言えますし、起床と就寝の微睡まどろみがそうであるとも言えます。

 要するに、僕にとって時間とは、意識をするに値しない外界の単位でしかないのです。絶え間なく流るる水に境目を作ろうとすることなど愚かしい、僕にはそのように思えるのです。


 さて、パソコンの電源が点きません。

 仄かな苛立ちが芽生えるのが分かりました。夜な夜な眺めていた、F5を押すたび増える画面上の文字の羅列に対して覚える苛立ち、それとは吐く息の温度が違うように思えました。

 あるいは、昨夕の僕は微睡の中でシャットダウンをしてしまったのか——そのような可能性に行き当たり、電源ボタンを押し込みました。画面は光ってくれません。僕の吐息の温度は上がってゆきます。


 恐るべき事態である、と全身の汗腺から警鐘が噴き出ていました。チクチクと背を這って、布団との間に不快な熱をもたらしています。


 結果を申し上げれば——パソコンが立ち上がることは、もう二度と、ありませんでした。

 この世に生を受けてからの時間を十五年ほど無為に擦り減らしてようやく、まざまざと『死』というものを感じました。フィラメントが弾けるように、あるいは線香花火が落ちるように、それは唐突にやってくるものでした。

 何かしらの準備をしておけばよかった、覚悟をしておけばよかったと心から嘆きました。パソコンに繋がったまま音を鳴らすことのないヘッドホン。起動しないパソコンの画面は無様に嘆く見知らぬ顔を映すばかりで、それが精一杯の機能であると考えるとやるせない。


 もう一度眠ってほとんど忘れた「現実」の続きでも見るか、少なくとも今より悪いことなど起きるはずもない——無数に散らばったエナジードリンクの空き缶を順番に振っていくと、時たまピチョピチョと中で音がするので、それを舌に落としながら考えました。

 炭酸の抜けきった化学的な甘味は、不思議と僕の心を落ち着かせました。もう一度眠れと促されているようでした。それは本来の役割とはまったく逆なのでしょうけれど、どうでもいい。慰めの代わりになれば何だっていい。


「…………」


 布団の上で天井を見つめました。

 ため息をくと幸せが逃げる、唐突にそんな慣用句の類を思い出しました。それならば、今ごろ、天井には僕の吐き出した幸福が渦巻いているはずであり、それを吸い込むことによって至上の幸福へと到達できるのではないかと考えました。

 僕から炭酸が抜けていく。僕は炭酸の抜けた化学的な甘味の部分だろうか。取り残された不幸が凝固し、空き缶の底に生まれ間違えた取るに足らない何か。人間になりきれず、皮膚だけを被っている脳味噌の裏側に思えてならない。


 雨粒に窓が叩かれていました。空がぎらぎらと青筋を立てて、遅れて怒号が飛んでくる。

 長らく締め切ったままの窓に鍵をかけました。雲間を結うように差し込む光をカーテンで遮断しました。舞った埃を吸い込んで咳がやまない。また寝そべる。


 寝る子は育つ。クラスメイトが古い机に座って何かを学ぶ間、寝る子が育てていたのは鈍く黒い——寄る辺のない気持ちだけでした。言葉を知らない、この渇きに名前をつけて欲しい。教科書で定義して欲しい、教えて欲しい。

 皆は今、三時間目が始まった頃でしょうか。それとも終わった頃でしょうか。どうでもいい。皆が学んでいるのはそういうことでしょうか。それを知るためなら部屋を出てもいい。けれど、扉の向こうでは男女の怒号が飛び交っている。


 一人でいたいわけじゃない。一人の方がマシなだけ。それでも一人でいたいわけじゃない。誰かと一緒にいたい。同情してほしいわけじゃない。誰かと話がしたい。この渇きに名前をつけて、垢を落として、心臓の奥底に包帯を巻いて欲しいだけだ。

 ミサイルでも、隕石でもいい。この密室に穴を開けてくれ。いや、この肋骨を引き抜いていいから理解者を創って欲しい。最初は友達からでいいから、ずっと友達のままでもいいから。胸に抱かれたまま海の底の果てまで沈んでいきたい——誰かと、話がしたい。



・Q——世の中には教育を受けることすらままならない人がいるんですよ。それを知っていますか?


・A——


・Q——知っていてそのような生き方をしているのですか?


・A——


・Q——満たされた環境にいながら、それに感謝もせずに生きるのは不誠実ではありませんか?


・A——


・Q——満たされた環境にいながら、何の苦労もせず自分の感情や欲望のままに生きられる。どのようなお気持ちですか?


・A——


・Q——胸が痛みませんか?


・A——


・Q——どうして何も答えないんですか?


・A——


・Q——世の中には生きたいと願っても叶わない人がいるんですよ?


・A——


・Q——あなたは幸福な環境にいるんですよ。それをわかっていますか?


・A——




 ○こう—ふく【幸福】(名・形動)不安や心配などがなく、満ち足りた状態だと感じること・さま。さいわい。しあわせ。happiness『比較』幸運。『対義』不幸。『用例』——な一生を送る。(講談社日本語大辞典より引用)



 全部、全部が夢だったと突然目覚めたのなら、どれだけ幸せなことか。

 さっさと終わりにしたい。死んだ先には女神様がいて、どこか遠く、誰も知らないところに飛ばしてくれるんだろう。誰も知らない場所に行きたい。そこで生きたい。

 言葉の通じないまったくの異世界、外国がいい。言葉の通じない方がいい。むしろ言葉などない方がいい。母親の中に忘れたのか、どこかで落としてきたのか、言葉を持たない人間でも生きられる世界に生まれ直したい。それが叶うのなら、僕はその温情に泣くでしょう。


 ——また嘆息が漏れる。どうせ馬鹿な妄想だ。わかっている。退屈がいけないのだ。退屈ができるから「生きたい」「死にたい」を生きながら惰眠とともに繰り返すのだ。


 雨が強くなる、これは苛立ちにも似た心だ。

 天井を見つめる瞼が痙攣していた。言葉などない方が良いと思ったけれど、インターネットに蔓延る憂鬱と怒りに満ちた言葉のやりとりを失った現在、僕は禁断症状に震えていた。涙の舐め合いと傷口の広げ合いを求める自分がいた。


 その醜さにまた息が漏れた。このまま吸わなければ楽になれるだろうか。

 息を止めて、ただ一点を見つめる。鼻口を押さえることはしなかった。吸わなければいいだけだなのだから、簡単だ。まだまだ余裕がある。

 数秒、数十秒——耳の奥が圧迫されて高音が鳴り始める。いつしか拳を握り伸びた爪が掌を抉る。目眩が視界の全部を覆う、息が詰まる、喉が破裂しそうだ。顔に血が集まる。頭が熱い。遠くで何かがうるさい。何かが叩かれている。その音の出所は痙攣する僕の踵だった。


 走馬灯は見えない。だから、何かを思い出そうとした。

 小さい頃のファミレス、誕生日の回転寿司、お年玉、運動会のダンス、電話越しに怒鳴られる父親、花瓶の割れる音、母の目の下のクマ、振り返った校門、液晶画面、液晶画面、液晶画面、液晶画面液晶画面。


 誰かと話すための機械はさっき壊れた。機会はもうない。僕には、もう、何もない。今更ネットを見たところで何にもならない。「自販機に釣り銭入ってた」だのと小さな幸福を共有すれば、顔色の悪い道徳を振りかざしてくる。逆なら不幸自慢と言われる。『死にたい』と言えば『生きなきゃだめ』と怒られ。『生きたい』と叫べば『死ね』と喚かれる。

 ずっと昔に没収されたスマートフォンを思い出した。LINE使わないから忘れてた。でも、また喧嘩してる。まだ喧嘩してる。取りに出るくらいなら新しく買う——



 あ。



 買えばいいじゃん。

 古いスマホでも、何かしらの端末が手に入ればネットを眺めることくらいはできる。腐った言葉の羅列でも、退屈を潰せれば「生きよう」「死のう」の馬鹿みたいなメリーゴーランドも無くなる。

 僕は、息を吸った。



 ○



 お年玉はエナジードリンクとインターネットゲームに溶けかけていたけれど、長く溜め込んだ垢みたいに五千円ほど残っていた。

 千円札の集合体を財布に入れる。レシートの方が多いけれど、金持ちの気分になれた。膨らんだ小銭で閉まらないからレシートを捨てる。急に財布が痩せた。

 僕の年頃の人間は、夜中に出歩くより、真昼間に出歩いている方が補導されるような気がする。目立つし、明るいし、でも、別にどうでもいい。


 音楽を流す機械もないけれど、ヘッドホンで蓋をしてドアノブに手をかけた。空調の効いた涼しい空気が、広がる隙間から流れ込んでくる。耳栓の遠く向こうで喚き合う男女の声が聴こえた。飛び交っているのは唾だけで、言葉があるように思えなかった。

 臭い息のメロドラマの邪魔はしない。夜中にはどうせセックスでどろどろ仲直りするんだから、昼も夜もキイキイ鳴いているんだから、昼間もそうしていれば善いのに。


 息を潜めて階段を降りる。遠ざかる怒号と温くなっていく空気は、不思議と僕を高揚させた。夜中にぶらつくのとは違う緊張。サンダルを突っかけて、金属の玄関扉を押し開ける。


 そこには見知らぬ男が立っていた。顔の半分がマスクに隠れて、諦めたような皺の目尻に見下ろされる。思わず「うわ!」と叫んでしまった。向こうも驚いていた。


「すみません、あの……郵便局です。えと、美濃さんでお間違いないですか?」


 たぶん、僕は出目金みたいな表情をしていただろう。両目を見開き、酸素を求める動きにも似て口をパクパクさせていた。男もまた、二の腕のポケットから取り出したボールペンを差し出しそうとしたまま困惑している。


 自分でも意味がわからず、玄関と男の隙間をすり抜けて逃亡した。マンションの廊下、無数に並ぶ同じドアが視界の端を掠めていく。何かのカウントダウンみたいに部屋の番号は小さくなっていって、配達員の乗ってきたエレベーターに飛び乗った。

 閉めるボタンを連打したのちに一階のボタンを押す。カーペットみたいな壁の生地は剥がれかけ、左上のモニターには僕のモノクロの後ろ姿が映されていた。


 一階です、という女性の声を置き去りにして走りだす。肩に落ちる小雨に背を押されて僕はどこまでも走った。水溜りを踏んで足が濡れ、アスファルトを蹴るたびにギュッギュッと音が鳴った。息が切れて口内にしょっぱい味が広がる。点滅する青信号へ駆け込み続けるうちに、僕は目的地の前で腰を折っていた。

 両膝に手をついて深く息を吸うと咳が出た。足首が熱い。濡れて頬に張り付いた前髪をどかしながらリサイクルショップへと入った。


 祖父の家に似た匂いだ。古着やアンティークの家具によるものだろうか。真っ白い蛍光灯の明かりが目に痛かった。

 ゲームソフトコーナーを通り過ぎ、追いやられた古いゲーム機の前で少し立ち止まって、カードゲームやエアガンの辺りを徘徊した。『2F・楽器/スマホ・タブレット』と記された看板を見つけたので階段を登る。


 ガラスのショーケースが多いからか、一階よりも眩しく感じた。早く買って、さっさと退散したい。天井からぶら下がる案内表示に従って、右に左に棚の角を折れて歩く。


 廃墟で伸び放題のつるみたいに、半額のワゴンから日焼けしたケーブルが飛び出して絡まっていた。ショーケースを離れて桁の少ない棚から眺めていく。一番安いパソコンが930円。電源が入らないジャンク品らしい。

 ちゃんと動くパソコンの最安値は8000円だった。僕が使っていたラップトップと同じ型だが、何度もシールを剥がした跡が目立つ。僕の財布には千円札が五枚と小銭がそこそこ。これでは買えない。タブレットもスマホも買えなかった。馬鹿みたいに明るい店の中が、どんどん暗くなっていくように思える。


 大袈裟にため息を吐いた。

 しばらく声も出していないけれど、カラオケにでも行けば発散できるだろうか。この気持ちを一刻も早く嘔吐してしまいたかった。何も繋がっていないヘッドホンのケーブルを手繰り、ポケットを探り、本気で携帯を探そうとした自分に呆れる。


 ——仮に携帯を持っていたら何だ? 「品揃えの悪い店だ」とネットに書くのか?

 金が無い様と住所を晒すだけだ。住所がバレたところで困ることなんて何もないが、剥き身の言葉を垂れ流したところで何かが変わるわけでもない。誰かが背をさすってくれるわけでもない。やはり言葉など、何の役にも立たない。


 一度引き返して壊れたパソコンを持ってこようか——それを下取りに出すなり、壊れている箇所を教えてもらって部品を買うなり、まだ打てる手はあるかもしれない。修理する知識などないが。


 しかし、同じ道を引き返して、また戻ってくるのは憂鬱だった。僕の部屋に早く帰りたいけれど、あの家には帰りたくない。

 学校にも行けず、クラスで飛び交う言葉は理解ができない。家に帰りたくはないけれど、そのうちの一部に僕の寝床はある。でも居場所じゃない。いっそ、生まれてきたその瞬間から半額のワゴンに放り込んで欲しかった。誰も拾わないだろうけれど。


 どこにも行けないならば、ずっと閉じ籠もっていた方が善かった。

 暗い、暗い海の底がいい。音も無く、光も無く、やがて眼は引っ込んで言葉も要らなくなるだろう。泥の中でただただ眠っていたい。


 こんなことを呟いたら「贅沢だ」と怒られるだろうか。

 それとも「前を向いて歩け」と背を打撲されるのだろうか。

 僕と全く同じ人間が、全く同じような言葉を吐いていたら、僕は何を思うのだろうか。かけて欲しい言葉など無いが、かける言葉を持っているのだろうか。


 ——本当に吐きそうだから、やめよう。

 虚しく濡れた髪に爪を立てて、僕はパソコンの前を離れた。


 鳴らないヘッドホン越し、遠くでエレキギターの試奏の音が聴こえる。なんとなく、心惹かれた。騒々しい金属質の轟音が、心の奥底を掻き毟ってくれるような気がした。

 ふらふら近づいて、壁に吊り下がったギターたちを眺める。爽やかな水色やハツラツとしたリンゴ飴みたいな赤色、夕空にも似たグラデーションのもの、凶悪なVの字型に尖った黒いもの——自分の心が浮遊しているのがわかる。怒りや悲しみのままに六本の弦をかき鳴らす、言葉を持たない自分でも何者かになれそうな気がした。


 でも、高かった。

 パソコンよりずっとパーツも少なくて、死んだ木で作られているだけのはずなのに、桁が違う。ロックを叫ぶのにも金が要るのか。

 わかりきってはいるけれど、それでも薄っぺらい財布を開いて中を見た。五枚の札束ではロックンロールは見向きもしてくれないようだ。試奏を促そうとこちらを見ている店員に会釈して、僕は階段へと向かった。もう、帰ろう。


 中古の漫画なら、そこそこの巻数を揃えられるだろう。ハンバーガーでも買って食べながら、一人で読もう。

 生まれて初めて大人になりたいと強く思った。死んだ目の大人ばかりだけれど、稼げるようになりたいと思った。少しの間ネットを遮断しただけで、僕は随分と老けたようだ。


 あくまでため息ではなく欠伸を漏らして、これまで従ってきた案内表示を逆走していくと階段まで戻ってこられた。登った先の三階はリサイクルの小説や漫画、名を聞いたこともない映画とアニメのDVDで埋め尽くされ、埃っぽい紙の匂いと加齢臭が入り混じっている。

 頭を空にして読めるやつがいい。適度にエロくて、余韻が重くないようなものがいい——必然的に僕の足は階段から一番遠く、奥深いところへと向かっていった。


 蛾が鱗粉を散らす蛍光灯の下、爪先ばかり見て歩いていると唐突に漫画の棚が終わった。目当てのジャンルはこっちじゃなかったか。

 理科室に近い殺菌されたような匂いが広がる。視線を上げた先は、狭い画材のコーナーだった。乱雑に積まれたスケッチブック、小学生のころに見たアルミ材のケースは開け放たれて、誇るほどでもない十二色が展示されている。


「…………」


 日の当たらないのみの市の隅が、僕の目を捉えて離さなかった。

 古いフランスの映画に出てきそうな、赤茶けたレザーの四角い鞄だ。思わず息を呑んで、こうべを垂れながら歩み寄った。音楽室の奥に仕舞われたオルガンや苔のむした鳥居、輝いているというよりは光を吸い込んで佇む鞄。


 誰もいない廊下で足音を立てて、水面に触れるような背徳感に一歩を促されながら、錆びてくすんだ金色のロックを外す。乾いた木材が、ごとりと音を立てる。指を添わせて押し上げると、金具が軋み、眠っていた画材たちが半目を開いた。


 所々に絵の具の汚れは残っているけれど——飴色に変色した木材に整列する数十色の色鉛筆と絵の具に対して、畏れを抱かずにはいられなかった。

 水のカップが一つ、丸まった消しゴムが大小二つ、鉛筆削りが一つ、半分以上使われた色鉛筆と畳んで絞られた絵の具が五十色くらいずつ並んでいる。丸い固形の水彩絵の具への既視感の正体は、化粧品のチークパレットだろう。裏のポケットにはスケッチブックが挟まれている。


 何か……おそらく数本の絵筆を持ち歩くための穴だけが虚しく空いて、それ以外は満ち足りていないだけで完全に思えた。

 この想いを何に喩えればいいのか、言葉を持たない僕にはわからなかった。でも、ただ、この最強の武器庫に触れていたかった。革の質感、四隅の金色、細い持ち手——


 ふと息を吸い直して、何度も瞬きをした。慌てて値札を探す。

 貼られた二枚の付箋には『絵筆欠品・絵具残り4割ほど』と『税込3990円』と記されていた。近くに積まれた300円の絵筆を二つ手に取って、僕は鞄を持ち上げた。何も躊躇わなかった。


 異常な質量のケースを抱え、僕は札束のすべてを差し出した。店員の話が頭に入ってこない。僕の頭は既に狂っている。頭に浮かぶ絶景が氾濫を起こして止めどなく、握られた絵筆は残酷な使命を帯びた刃物のようだ。


 描かなくてはならない。

 雨が上がっていたわけではなかった。けれど、カーテンで遮った雲間の光を直視することはできた。ヘッドホンを外し、自販機で炭酸のジュースを買って、僕は走った。走って帰った。

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炭酸瓶の底、ナイフは走る。 鯰屋 @zem

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