エピローグ 眠れない者たち

「……ええ、今回は私たち〈月の裏側〉のマンパワー不足を痛感しました。〈ヒュプノス〉と襲撃チームがもっと調律の取れた攻撃に出ていたら、この程度では済まなかったかも知れません。今後はラスヴェート綜合警備保障を含む外部組織との連携と、〈月の裏側〉の人員増強を急務とします。それは後日考えるとして……今は傷を癒すことに専念してください。ええ、あなたたちが命を懸けて守ってくれなければ、私は生きていませんでした。夏姫さんにもテシクさんにも龍一さんにも、そう伝えてください。もちろんあなたにもお礼を言わないといけませんね。本当に……ありがとう」

 受話器を置いた後で高塔百合子は背もたれに全体重を掛け、深々と溜め息を吐いた。命を狙われるなど不思議でも何でもなかったが、今回は特にこたえた。眠りたかった。何もかも忘れてひたすら眠りたかった。

 卓上の電話が鳴り、彼女は目を開けた。見知らぬ電話番号だったが、不審は感じなかった。むしろ来るべきものが来たか、という気分だった。

「はい」

『今さら驚きはしない、か。大したものだな』

「覚悟を決めざるを得ませんでしたから」前置きもなく話し始めたしわがれた老人の声に、百合子もまた何の挨拶もなくそう答えた。

『まずは見事、と言わせてもらおう。幾ばくかの偶然と幸運があったとは言え、〈ヒュプノス〉から狙われて生き延びたのだからな』

「優秀な人員に恵まれただけです」

『ただ優秀なだけの者など、我らは数え切れないほど奈落へ落としてきた』誇らず、むしろ淡々とした口調が逆に自信を伺わせた。『お前もそうなると我らは信じて疑わなかった』

「ご用件は」百合子は静かに言った。殺し屋の腕自慢など聞きたくもない。

『認めよう。お前たちは我らの、我らはお前たちの、それぞれに必要とするものを提供できる』

「お眼鏡にかなった、ということですね?」

『〈ヒュプノス〉は多い。当然、日本国内にも自分がと知らず日々暮らしている者は数多く存在する。彼ら彼女らが固有に持つ情報共有能力は、同一のシステムでなければ妨害も傍受も不可能だ。お前たちには紛れもない戦力倍増装置フォースマルチプライヤーだろう』

「それだけ聞くと私たちにしかメリットがないように聞こえます。こちらから提供するものは?」

『〈犯罪者たちの王〉を殺すに足る能力と動機を、お前たちは既に持っている』

 自分の喉が鳴る音を聞かれなかったか、百合子は自信がなかった。「……プレスビュテル・ヨハネスはあなたがたにとっても大口の〈顧客〉ではなかったのですか?」

『彼の者が目障りとした者の排除を我らに依頼し、我らが確実に遂行する。そのような関係が未来永劫に渡って続くなら、確かにその通りだろう。だが我らは彼の者が現在極秘裏に進めているプロジェクトを、我らにとって有害なものであると見なした』

「それは?」

『全貌は不明だ。だが実行されれば地球環境の激変を含む、大規模かつ不可逆的な変化をこの星にもたらすとの予想はされている。人類の半数──最悪の場合、人類種そのものが滅ぶ』

 百合子は目を閉じた。……お祖父様、あなたの復讐が後世に何をもたらすか、あなたは予想していたのですか? いいえ、予想はできたとしても、躊躇いはなかったのでしょうね。あなたの目的は、高塔本家の人々を地獄に突き落とすことのみだったのですから。

『大量殺戮が彼の者の目的ではない。だがその最終目標に人類種そのものを業火の中に投げ込むことが必要であるならば、彼の者はそれを躊躇うまい。そしてそれは、〈ヒュプノス〉にとってである。〈ヒュプノス〉とは美醜貴賤の区別なく誰にとっても平等な刃であり、またそうでなければならない。我らは人類の全てが〈ヒュプノス〉になることを望まない。また同時に我らは人類の半数ないし全てを殺し尽くすプロジェクトの完遂を望まない。死に満ちた世界に、わざわざ死を撒く必要はないからだ』

 人類社会の寄生虫が──喉までこみ上げた言葉を百合子は口元で留める。

『さらに言えば、彼の者は我ら〈ヒュプノス〉にとってのを保有している。無論、好んで使いはしないだろうが、我らの裏切りを知れば躊躇いはしないだろう』

「猛毒、ですか?」

 声は微かに笑う。『おかしいか? 我ら、ヨハネスの猛毒、そしてお前たちの有する『特別個体』。全てだ」

 目を固く閉じる。やはり、全てはそこに行き着くのか──相良龍一に。

「ご事情はよくわかりました。では、具体的な商談に入りましょうか。まずはあなたのことを何とお呼びすれば?」

『話が早くて助かる。他個体からは〈師匠マイスター〉で通っている。……さて続きだが、彼の者を出し抜くにはもう二、三手立てを考える必要があるな……』


「……以上です。いかがいたしましょうか?」

若い女性秘書から報告を受けた〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスは静かに目を開ける。「憂慮すべき問題は何もない。〈ヒュプノス〉の叛逆は想定範囲内だ。いや……そもそもあれは私のものですらない。かくして蜜月の夢は終わりぬ、ということだな。当初の予定に従い、計画を進行せよ」

「かしこまりました。御心のままに、〈犯罪者たちの王〉」

「このような形で、君の忘れ形見の『成長』を実感するとは……」かつて負った傷の痛みを思い出そうとするように、ヨハネスは遠い目になる。「皮肉なものだな、我が生涯唯一の友よ」


 結局、龍一が退院できたのは暮れ近く、灰色の空から白い欠片が舞い落ち始めている曇天の午後だった。寒いはずだ、と着替えを詰めたバッグを手に何となく空を見上げていると、目の前で見覚えのある車が停まった。

「乗れよ。送ってやる」

 龍一は少なからず驚いた。運転席から顔を出している崇はまだしも、助手席にはテシク、そして後部座席にはカシミアの暖かそうなコートを着て居心地悪そうな顔をしている夏姫まで収まっていたからだ。

「どうしたんだ、みんな? 夏姫まで……いつもの運転手の兄ちゃんはどうしたよ?」

「滝川なら先に返したわ」

「どうしたもこうしたも、まだ頭の方は本調子じゃないのか?」仏頂面のままテシクが言う。「お前の退院日だろう」

「それは……ありがとう」

「寒いから早く乗って」

「ああ……」何だか本当に調子が悪くなってきたな、と首を傾げながら夏姫の隣に座った。車が走り出す。

「お前の言った通り、人手不足の解決は急務だ」ハンドルを操りながら崇が話し出す。「ラスヴェートとの提携も含め、当分はそれが目標になるだろう。それまではお前らにメインで動いてもらうがな」

「だろうな」正直あれだけ本気で殺しにかかってきた敵を相手に、こちらもまた滅茶苦茶な手段で対抗して、よく生きてられたな、という実感がある。人を増やしてもらわないとやってられない。

「それと、御当主から伝言だ。ありがとう、だってよ。直接言えなくて申し訳ありません、とも」

「……その言葉だけで充分だよ」脇腹の感触に目をやると、隣の夏姫が『よかったじゃない』と言わんばかりに肘で小突いてきていた。こちらも指で二の腕をつつき返したら、真っ赤になって本気で小突かれた。恥ずかしがるポイントがおかしい娘だと思う。

 しかし、と龍一は思う。〈スポンサー〉の真意はどこにあったのだろう? 襲撃チームと〈ヒュプノス〉、あの業界では御法度の、下手をすると両方から命を狙われかねない二重契約を行なってまで、何を企んでいたのだろう?

 それはわからない。だが〈スポンサー〉は龍一だけでなく、夏姫にも興味を示している。直前までの暗殺指令を取り消すほどの興味を。

 この少女の傍らを離れるな、そうすればお前の求めるものはいずれ姿を現す。根拠は何もないが、そう言われているように思えてならなかった。

 視界が開けた。鉛色の海に降る雪を見ながら、夏姫がどこか感慨深げに言った。「今年ももう終わりね。何だか、いろいろなことがあった……」

「そうだな。ありすぎた」

「ねえ龍一。……龍一は、この街のこと嫌い?」

 ふと、夏姫が訪ねてきた。なぜか、思い切ったような口調だった。

 考えたこともない問いだった。好きか嫌いか、か。

「好きだよ。大好きさ。そう言えば、誰かさんは俺のことをマゾヒストと言ってたっけな」

「誰だったかしらね」夏姫はくすりと笑う。

 龍一は考える。あるいは──高塔に関わり続ける理由を、他に考えた方がいいのだろうか。復讐以外にも。百合子以外の誰かにも。

 例えば、傍らの少女とか。

 ことん、と肩に軽く何かが当たった。脇を見ると、夏姫が龍一の肩に頭をもたれかけさせている。しかももう寝息を立てている。早いよ目を閉じてから何秒どころか一瞬だっただろ、と龍一は大いに呆れた。

 嫌な予感がして顔を上げると、運転席の崇と助手席のテシクが、顔を前方に向けたまま全身を耳にしていた。

「気を許したお嬢様ほど転がしやすいものはないよな?」

「キスまでなら見ないふりをしてやる」

「するわけないだろ。第一、がっつり見てるじゃないか」怒るに怒れず大声で隣の夏姫も起こせず、ふやけた優しい声になってしまった。「頼むから、前方に集中してくれよ」


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苦痛なき、眠るがごとき死を アイダカズキ @Shadowontheida

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