43●おしまいに③……ヒルダと“かぐや姫”、神様はかく語りき。

43●おしまいに③……ヒルダと“かぐや姫”、神様はかく語りき。




 『太陽の王子ホルスの大冒険』から『崖の上のポニョ』まで、その間隔はちょうど40年……。

 引き裂かれたヒルダの苦悩は、これで解けたのでしょうか?


 本来なら“人魚姫”のように身も心も引き裂かれるはずのポニョが救われたのは、神様役であるグランマンマーレの、おおらかな包容力にありましたね。

 グランマンマーレがポニョと、そして里親となるリサの思いを“それでいい”と肯定したことで、ポニョの願いはかないました。


 人間と、魚、ふたつの概念が対立する方程式に、“神様”の項を導入することで、『崖の上のポニョ』は見事な解を見出したことになります。


 では、『太陽の王子ホルスの大冒険』では、どうなのでしょうか?

 じつは、自然神を置くべきポジションには、悪魔グルンワルドが居座っているのです。冬将軍は気候の神様とも解することができますから。

 後年の『もののけ姫』なら、シシ神様に並んで、神様に昇格してもいい“冬将軍”なのですが、哀れ、悪者のレッテルを貼られて人類の敵にされてしまいました。


 となると、神様の役を担うのは、岩男のモーグ様?


 子供向けのストーリーラインである“ヒルダの第一の結末”に拠るならば、ホルスの勝利を寿いで祝福する神様の役は、モーグで正解でしょう。

 実際、モーグは「一種の自然神と思われる」(RAE91頁)との解釈があります。

 モーグは大地に秘められた鉱物資源を象徴し、人類の役に立ってくれ、人類の産業社会の基盤を表す存在となりますから、それで納得はできます。


 ただし、ヒルダに固有の魔法力が備わったまま……と解釈する“ヒルダの第三の結末”に準拠するならば、モーグが世界を統べる絶対的な神様であるのか、大きな疑問が残ります。

 鉱物資源を象徴するモーグの協力を得て文明を発展させた結果、人類は自然破壊をさらに進めてしまうのですから、魔女ヒルダが怒り、人類を自滅させる鉄槌をふるうかもしれません。


 ここが『ホルス……』の、一筋縄ではいかないところです。


 ヒルダに、“人類同士を殺し合わせる”という内戦工作の魔力が残されていて、いつかそれが発動したとしたら、岩男モーグはそれに太刀打ちできるのか?

 できないでしょう。実際、本編でも、モーグは“太陽の剣が鍛えられたとき”に村民軍に加勢してくれましたが、村の内政には不干渉でした。民事みんじには関わらないのです。ですから……


 モーグはおそらく、世界を俯瞰できるほど普遍的な神様ではないのです。


 モーグは超自然的な何者かではありますが、その地位は、土着の自然神の一種なのかもしれません。道祖神が巨大化したような。

 一方、悪役のグルンワルドは“悪魔”を称しながら、実態は冬将軍。こちらも自然神の一種と考えておかしくはありません。人類からみて“悪”と価値判断されているだけですね。

 そうだとすると、モーグとグルンワルドは、力的ちからてきに並列する、強すぎず弱すぎず……といった、“拮抗する自然神”なのではないかと思われます。


 つまり、善の自然神はモーグ、悪の自然神はグルンワルド。


 『ホルス……』における作品中の位置づけは、そういうことだったのでしょう。

 ただし、その善悪は“人類にとって善か悪か”といった相対的な基準にすぎないということになります。


 さて、それでは、『ホルス……』には、もっと普遍的な絶対力を持った、宇宙的な神様は、登場してはいないのでしょうか。



        *


 『ホルス……』の作品の原典は、アイヌユーカラに発します(RAE148頁)。

 古き伝説の歌物語から、膨大なイマジネーションの加減乗除を経て、この物語の形が決められました。

 このとき、伝説に記録されたさまざまな神様のイメージが引き出されて、その結果、善の自然神としてのモーグ、悪の自然神としてのグルンワルドが作品に採用されたものと思われます。


 しかし、それだけなのか?


 思いますに……

 この世の全てをみそなわす、善でもなく悪でもない、素朴で無邪気な“神様”のエッセンスが引き出されて、少しばかり、隠し味として残ったのではないでしょうか。


 具体的な神様の姿は見えません。

 しかし、神様はたしかに存在しています。


 “唄”の中に。


 まず一か所、“ヒルダの子守唄”(RAE60頁)に登場しています。

 そしてもう一か所、“こどもの唄” (RAE63頁)にも登場しています。


 後者では、“神様”でなく“お日さま”ですが、作品世界で太陽が信仰の対象であることは、ピリアの婚礼衣装を作っていた建物の扉に描かれている太陽の絵や、二人の婚礼の場面の夕日から想像されます。

 “お日さま”も神様なのです。


 歌詞は事情があって再録しませんが、どちらの唄も、動物たちがトラブルを起こしたときや、このままではヤバいと思わせる、クリティカルなアクシデントの発生を想定し、それに対する神様の“なさり方”を歌っています。


 “ヒルダの子守唄”の神様は、寝かしつける歌詞からして、夜の神様と思われます。

 こちらの神様は、動物たちのトラブルを断罪し、厳しい罰を与える裁判官ジャツジ

 神様のセオリーは、“因果応報”の法則です。

 罪には必ず罰を……これはまた、ヒルダの心を支配する想いでしょう。

 自分を迫害し、悪魔の世界へ追いやった、醜い心の人間に対する断罪の心。

 しかしそんな人間たちを戦わせ、死へ追いやって来た自分の罪も、いずれ裁かれねばならない。

 神に審判される、その時が来たら、死をもって罰を受けよう……と。


 “こどもの唄”の神様は、お日様ですから、昼の神様と思われます。

 こちらの神様は、動物たちのアクシデントを、高い空から見守るだけの観察者オブザーバーです。

 どうやって解決するかは、みんなで考えてごらん……とばかりに、自主解決を促します。

 そのかわり、神様は見ています。

 日の光があまねく地上を照らすように、あたたかく、すべてを見守っています。

 こちらのセオリーは、“天網恢恢、祖にして漏らさず”でしょうか。

 この唄は言外に、こう諭しています。

 ……“さあ、どうかな。暴力的に解決するか、平和的に解決するか、それとも見て見ぬふりで、何もしないでいることもできる。でも、そんなあなたを、いつだって、お日様は微笑んで見ているんだよ”……と。


 夜の神様が悪で、昼の神様が善ということではありません。

 どちらの神様も、夜と昼のように、いつも変わりなく永遠に、私たちの頭上を回っておられるということでしょう。


 あなたたち人類が、どのようなときに、どちらの神様を選ぶのか。

 それは、あなたたち次第なのだよ……と。


        *



 きっと、これが、『ホルス……』の物語すべてが行き着く、本当の結論なのです。


 “こどもの唄”は先の“ヒルダの子守唄”と美しい対称をなしています。

 暗い夜の神と、明るい昼の神。

 どちらの神様を信じるのも自由であり、どちらの行動規範に従うのも自由ですよ……ということですね。

 子供たちは、この唄をうたいながら、ヒルダに教えてくれるのです。


 “こっちの神様もあるんだよ”と。


 こうして、なにもかもが、神の御手みてに委ねられ、夜も昼も、時とともに巡りめぐって、因果がからみあい、輪廻していく。

 つまり……


「神は天にいまし,すべて世は事もなし。」



 『ホルス……』の11年後、1979年にアニメ『赤毛のアン』の掉尾を飾ったこの言葉こそ、高畑勲監督が、可哀そうなヒルダに手向けた、ひとつの結論ではなかったかと思うのです。



        *



 そして……

 西暦2013年、再びヒルダが銀幕に登場しました。

 高畑勲監督の遺作となった『かぐや姫の物語』です。


 月と地球、二つの世界の文明の“掟”に挟まれて、引き裂かれ、身も心もすり潰して苦悩し、呻吟する姫の姿は、もう一人のヒルダといっていいでしょう。

 “かぐや姫”のヒルダは、宮崎駿監督作品の“最初から二人に分かれた少女”とは異なり、“引き裂かれたヒロイン”そのものでした。

 こちらには悪魔グルンワルドに相当する悪役は登場せず、ストーリーラインは徹底して、かぐや姫の心と行動を描きます。残酷なまでに詳細に、赤裸々に。

 ヒロインを善悪の二人に分離するとか、あるいは普遍的で絶対的な神様が魂の救済を告げることもなく、引き裂かれたヒロインは引き裂かれ続け、その現実リアルを私たち観客に突き付けてきます。

 観客にとって測りがたい彼女の心情は、ヒルダのように動物キャラに代弁させるのでなく、かぐや姫本人の言動や、彼女が見た幻や夢の描写によって詳細に語り尽くされます。その長大なモノローグが語るのは……


 彼女にとって、解決はない、ということです。


 21世紀の、“かぐや姫”のヒルダは、すべてを諦観し、すべてを忘却して、月世界へ昇っていきました。

 人の手の届かない世界へ。

 これは“あの世”と同じです。

 八月十五日、旧盆の時季に、月からの迎えを得て、天空へ昇る姫。

 もう一つの、“死”の形ともいえるでしょう。

 それは永遠の別離。


 人の生とは、そして死とは、このようなものではないか。

 別れは避けられない、ただ、どう生きるか、それだけのことだ……。


 これが、監督からのメッセージなのかもしれません。


 都に住まわされた姫は心が引き裂かれた状態で、まるでポニョのように暴走もしますが、救いの手は差し伸べられません。姫はただ一人、ヒルダと同様に粛々と身を処してゆきます。

 まるで、『崖の上のポニョ』の真逆を行くような、悲劇的な結末です。


 しかし、最後の最後に、高畑勲監督は、原作にない美しいカットを残されました。


 月から無垢な眼差しを送る、“たけのこ”の愛らしい姿。


 いつの日か、彼女は……

 地球のことを、何かのきっかけで、思い出すかもしれません。




 『かぐや姫の物語』は、ヒルダへの鎮魂歌でもあり……

 そして、監督からこの世界すべてに贈られたオマージュではないか。

 そのような気がしてなりません。


     監督へ、感謝を込めて。






                               【おわり】





※『太陽の王子ホルスの大冒険』という一篇の作品について思うところを記してみましたが、四百字詰めで三百枚余りの文字数になりました。だらだらとした読みにくさは改めてお詫びいたしますが、これだけ考えさせてくれる作品には、そうそうめぐり逢えないと思います。個人的には、書き終わって気分スッキリですが、観るたびに新しい謎が現れる奥深い名作。皆様はいかがお感じになりますでしょうか。


 

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『太陽の王子ホルスの大冒険』の謎を解く。 秋山完 @akiyamakan

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