42●おしまいに②……神は天にいまし,すべて世は事もなし。

42●おしまいに②……神は天にいまし,すべて世は事もなし。



 『崖の上のポニョ』(2008)の“海なる母”グランマンマーレは、いわば海の女神、海洋神と言えましょう。

 フジモトは魔法使いですが、もともとは人類の一員。

 このお話は、海神と人類の間に生まれた“魚の子”ポニョが、その成長過程で“人間になる”ことを選択しようとする物語です。

 お話のモチーフとして、アンデルセンの『人魚姫』が参考にされたと言われます。


 お魚のままでいるか、それとも人間になるのか。

 『人魚姫』では、主人公の姫は迷い、悩み、塗炭の苦しみを味わいます。

 王子様を慕って人間になることは、ただ苦しみに耐えるだけでなく、自分の命を懸けて、人魚であることを捨てることでもあります。


 人類と魚類の狭間にあって、身も心も引き裂かれてゆく人魚姫。

 ヒルダと似ていますね。


 『崖の上のポニョ』に『ホルス……』の図式をあてはめてみれば……

 フジモトはグルンワルド。

 宗介君はホルス。

 ポニョはヒルダ。

 わりとスッキリと、位置づけが当てはまります。


 ポニョの本名はブリュンヒルデ。

 ヒルダと似ているような気もいたします。

 『崖の上のポニョ』は、明るい素朴な作風ながら……

 『ホルス……』の物語構造をしっかりと継承しているのです。


 しかし、根本的な違いがありますね。

 ポニョが“引き裂かれていない”ことです。

「ポニョ、宗介が好き!」

 このシンプルなスローガンでフジモトの説得も妨害も跳ねのけて、一心不乱、怒涛の如く突進するポニョ。

 このあたり、ヒルダの真逆です。

 ヒルダの悲劇性は、ホルスへの愛を優先すれば、恩義を感じていた兄グルンワルドをホルスに殺されてしまう……という二律背反の過酷な条件にありました。

 ポニョは、宗介によってフジモトが殺される心配などありませんから、自分の足を引っ張られる要素がありません。


 そして最後に、ポニョの選択を祝福し、“これでいいのよ”と判定ジャッジしてくれるのが……

 神様の位置づけにある、グランマンマーレ。

 なので、裏も表もない、純粋に幸せな結末が実現されます。


 つまりこの『崖の上のポニョ』は、『太陽の王子ホルスの大冒険』に対する、明朗快活なアンチテーゼであり、ヒルダのような“引き裂かれたヒロイン”に対する21世紀的な回答でもあるといえるでしょう。


 悩まなくていい、神様がいるかぎり、この世は成るようになる。自分が間違っていなければ、行動しよう……と。


 愛のため、堂々とひたすらに突っ走るポニョ。

 その原動力に、魔法がありますね、ポニョは魔法の力で海を疾走する。

 海面を山のように盛り上げ、月さえ引き付けて天変地異を現出するポニョ。

 これ、“ANA雪”(2013米)です。エルサの暴走と同じです。

 あの“レリゴー”の歌のかわりに“ワルキューレの騎行”の楽想を含む勇壮なマーチに乗って、ポニョは海原を駆けていきます。

 エルサのように自分一人の氷の城に閉じこもるのでなく、自分の意志をさらけ出すポニョは、エルサのスケールを超えていると思います。


(余談ですが、エルサはオトナであり、女王である立場を衝動的に放り出し、寒波災害を無視して家出レリゴーする身勝手さは、ほぼほぼ、“無責任グルンワルド”でありました。突然の寒さでは普通、市民に多数の死者も出るであろうことを思うと、最後にしれっと玉座に舞い戻る神経はいただけません。致命的な失態を犯しても辞職せず議員の椅子にしがみつく御仁を連想させます。悪役にされたハンスですが、寒波襲来でただちに国民に防寒具を配る機転をみると、政治家としての行動は正しいのです。よい子ならエルサのような暴挙は慎むようにと、大人は子供に教えるべきでしょう。現実の社会では、エルサの逃亡行為は市民革命を誘発しかねず(事実、エルサの国はハンスに乗っ取られそうになる)、そうなったら玉座復帰どころかギロチンものです。ハンスに処刑されなかったのは、ただ運がいいとしか言えません。ご本人の意図に反した病的な魔法力とはいえ、それすら制御できないなら、国政の制御などできるはずもなく、一国の統治者に収まる資格はありません。エルサが賢明なら、早々にあれこれ理屈をつけてアナに権力を移譲し、自ら隠居するべきなのです)



 それにしても、『アナと雪の女王』(2013)の五年前に、ポニョのようなキャラクターがヒロインとして完成していたとは……

 宮崎駿監督の底知れぬ発想力に震えずにおれません。


 とはいえ……

 ポニョは大津波と洪水を引き起こしていますので、多くの人々に大変な迷惑をかけています。その意味では、エルサの愚行を笑えませんね。

 神様の役を務めるグランマンマーレの配材で、人命は失われずに済んでいるようですが、家や車など多くの財産を台無しにされた人々が、悲しみも恨みもなく能天気な明るさを維持しているのは、とても不思議ですね。みんなお祭り騒ぎで船団を組んで、これからピクニックに行くかのように楽し気です。


 ということは……

 リアルを追求したラストシーンではないのです。


 この明るい結末は、現実的な因果関係で導き出された結果というのでなく、もっと観念的に“こうあってほしい”という……作品の作り手が観客に呈示した、“あらまほしき”姿なのでありましょう。


 みんながこうだったら、幸せになれる。

 こうなろうよ。

 苦しみや相克を解決する闘いに必死にならなくても、世界は穏やかに日が照らし、波たゆたう海は豊かであり、全ては美しい。

 宮崎監督が舞台のモデルにされた瀬戸内の海の風景そのままの、理想郷です。


 ここで思い出されるのが……


「神は天にいまし,すべて世は事もなし」


 高畑勲監督のもとで、15話まで場面設計等に宮崎駿氏が参加したTVアニメ『赤毛のアン』(1979)の、最終話の、アンの最後のセリフですね。


 『崖の上のポニョ』の結末は、おそらくこの一言に落ち着くのでしょう。

 上田敏氏(1874-1916)の訳詩集『海潮音』(1905年)に収録された、英国の詩人ロバート・ブラウニングの『春のはるのあした』の一節です。


 神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。(上田敏 訳)


 これは単独の詩ではなく、『ピッパが通る』という長編劇詩のごく一部、ということです。年に一度の休日を喜ぶ少女ピッパが街を明るく闊歩します。その途上でいろいろなアクシデントや罪深い人に出会うのですが、ピッパが通れば円く収まり、人々は不幸から幸福へと指向する……といった内容、らしいです。

 そうだとすると、ポニョはピッパと似ていますね。


 物語中で巻き起こった事件の数々、不幸を抱えたおばあちゃんも含めて、みんなが幸せへと舵を切る……そんな状況が情緒たっぷりに、詩的ロマンティックに描かれたのが『崖の上のポニョ』の本質ではないか、と。


        *


 『太陽の王子ホルスの大冒険』に近似値の物語構成を持ちながら、“引き裂かれたヒロイン”に幸福な結末をもたらすことができた『崖の上のポニョ』。


 『ホルス……』からちょうど40年後の2008年に公開された『崖の上のポニョ』は、引き裂かれたヒルダの悲劇に対する、宮崎駿監督の渾身の一発解答だったのではないか……と思えてならないのです。





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