41●おしまいに①……その後のヒルダ、そしてジブリの神様たち

41●おしまいに①……その後のヒルダ、そしてジブリの神様たち




 『太陽の王子ホルスの大冒険』が、その後のアニメに多大な影響を与えたことは、広く知られるところです。

 とくに監督(演出名義)の高畑勲氏、そして場面設計・美術設計・原画を担当された宮崎駿氏が手掛けられた数々の作品に、『ホルス……』のDNAとも言える要素が潜在的に引き継がれていったことは確かでしょう。


        *


 ヒルダという、人間と悪魔、善と悪、敵と味方、あるいは文明と自然……といった対立概念の狭間にあって苦悩する、いわば“引き裂かれたヒロイン”は少しずつ形を変えながら、しかし消え去ることなく、いわゆるジブリアニメの系列に脈々と息づいています。


 まずは『ホルス……』の十年後、1978年に放映された『未来少年コナン』。

 ヒロインは善の側の少女ラナ……とされますが、悪役で登場したモンスリー女史もれっきとしたヒロイン……というか、最終話ではラナのお株を奪ってバージンロードをまっしぐらでしたね。二人の扱いは等価だったことがわかります。

 つまり……

 『未来少年コナン』では、善悪それぞれの側に、それぞれのヒロインが立っていたわけです。

 ヒルダは善と悪に“引き裂かれたヒロイン”でしたが、『未来少年コナン』では最初からヒロインを善の側と悪の側に分離していたのですね。

 これは、描きやすい。

 まさに慧眼、宮崎駿監督の深謀遠慮が察せられます。


 ヒルダのような、一人で二つの価値観に“引き裂かれたヒロイン”を観客にもわかりやすく描くのは並大抵のことではありません。

 ヒルダの行動パターンは、まるで二重人格です。チロとトトのアニマルキャラを左右に配置して、彼女の内心の対立を代弁してもらっても、本当のところヒルダが何を思って呻吟しているのか、観客が想像するのにかなりの労力を要します。

 ホルスと剣戟を交わすシーンのヒルダの葛藤の複雑さは、一度観ればわかるというものではありませんね。悪魔の妹としてホルスを殺すべきとする使命感、兄グルンワルドをホルスに殺されたくないと願う家族的な心、そして自分がこれまで行ってきた内戦工作とその犠牲者への罪の意識が三つ巴に交錯していました。

 そういった複雑さと難解さを解決するために……

 『未来少年コナン』では、善の側にラナ、悪の側にモンスリーが置かれました。

 そして、主人公の少年コナンが、モンスリーを悪から善の側へ転向させる触媒としての役割を担いました。

 二人のヒロインの善と悪、もしくは味方と敵、といった白黒を明瞭にすることで、ストーリーラインを明快化した、ということでしょう。


 ヒロインを最初から善悪二人に分ける、というパターンは、『風の谷のナウシカ』(1984)にも採用されました。

 ナウシカとクシャナです。

 クシャナの名前のスペルは『風の谷のナウシカ』のスペルのアナグラムだと言われていますので、二人は善と悪をシンメトリカルに表現する“鏡面的存在”として物語に配置されたのかもしれませんね。

 こちらでは主人公の少女ナウシカが、クシャナを悪から善(というよりも敵から味方)へ転向させる触媒の役割を果たしました。


 続いて『もののけ姫』(1997)でも同じパターンが用いられました。

 もののけ姫のサンと、敵役のエボシ御前ですね。

 そして、主人公の少年アシタカが、エボシ御前を悪から善(というよりも敵から味方)へ転向させる触媒としての役割を担いました。


 “引き裂かれたヒロイン”を最初から白黒はっきりと分離しておくことで、観客の混乱は防がれました。

 キャラクターの演技に「私は人間それとも悪魔?」といった根源的なせめぎあいを要求しなくてもいいので、物語の作り手も混乱せずに済みますね。


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 さてしかし……

 それはそれとして、ヒロイン二人がそれぞれ善と悪を分担するとしたら、さて、物語が終わるときには、結局のところ、どちらが善であったのか、決着をつけなくてはいけません。


 この点、『太陽の王子ホルスの大冒険』の場合は、一見するだけなら善悪が明瞭であるように思えますが……よく考えてみると、悪魔グルンワルドが滅びたことで、それで結果として本当に正しかったのか、そして人類側が本当に正義だったのか、ずいぶんと悩ましい作品に仕上がっていることを、これまでの本稿で述べてきました。

 “ヒルダはもともと魔法力を持っていた”という“第三の結末”に準拠すれば、人類と悪魔、どちらが本当の正義なのか? これで、めでたしめでたしのハッピーエンドと考えていいのか? と疑問が次々に出てきます。

 その点において、『ホルス……』はかなり曖昧なのです。


 そこで……

 「結末はこれでよかったのだ」と決着をつけてくれる存在が、物語のラスト近くで必要になります。

 物語の結論を正当化してくれる、世界全体を俯瞰する“絶対的な存在”です。


 『未来少年コナン』では、ラオ博士がそうでした。今わの際の最期のとき、コナンとラナに、“君たちのしてきたことは、これでいいんだ”……という、お墨付きをくれましたね。


 ただしこの場合、ラオ博士は人間の一人です。

 できればもう少し、絶対性と普遍性を有する何者かに、その役をこなしてほしい……と考える向きもあるでしょう。ですから……


 『風の谷のナウシカ』では、王蟲がその役を担いました。ナウシカを死から復活させることで、“これでいいんだ”という結論を導いてくれましたね。

 特徴的なのは、“死から生への復活”が描かれたことです。

 これは受難者キリストの死からの復活を神がなされた故事にも通じます。

 王蟲は神に等しい存在として描かれたわけです。

 このように、最終的に、主人公たちの行為と物語の結末に、“これでよし”とハンコをついて下さる存在として、“神様”が暗示されたのだと思います。

 そして……


 『もののけ姫』では、ずばり神様そのものが、物語の結末の裁定者として登場するに至ります。

 シシ神、もしくはダイダラボッチですね。

 人類に殺された神の神体は、死をもたらす物質として人類世界の一帯を地獄に変えますが、最終的には神の怒りは収まり、草木などの生命がよみがえります。

 神様が物語の結末に、“とりあえずは、それでよし”とハンコをついて下さったのではないかと思います。


 こうして、ジブリ作品の物語に決着をつける最終裁定者に、とうとう神様が登場したわけです。

 神様はさらに『千と千尋の神隠し』(2001)に大挙して登場されますが、ラスト近くでも大挙して千尋の現世への帰還を認めてくれますね。千尋に対して“それでよし”と太鼓判をついてくれたのでしょう。


 そして……

 ジブリアニメにおける神様像が簡潔明瞭に表現された決定版が『崖の上のポニョ』(2008)ということになります。




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