ゾエ

大切なぬいぐるみ

 これは、奈月なつきチサが愛しているぬいぐるみの話だ。


 チサとゾエの出会いは、チサの六歳の誕生日。

 両親からプレゼントに買ってもらったのだ。


 ゾエは、それまでチサが出会った中で、間違いなく一番可愛いぬいぐるみだった。


 白いふわふわの毛並みのウサギだけど、尻尾しっぽがからだと同じくらい長い。


 瞳はエメラルドのようなキラキラの緑色。


 手足と尻尾の先まで綿わたが詰めてあって触り心地がとてもいい。ほわほわのからだに対して、耳は長くシャープに伸びていた。


 大きさは教科書の上に尻尾の先までぴったり乗るくらい。


 ぬいぐるみは、かなり高価だったらしい。


 お父さんとお母さんは顔をつき合わせて相談した。お店の中と、車を行ったり来たりして悩んだ。


 そのそばで、チサは跳ね回って「どうしてもほしいの!」と何度もねだった。


 ついには、お父さんが「チサがこんなにわがまま言ったのは初めてだもんな。いいよ。買ってあげよう」と笑った。




 チサはぬいぐるみを「ゾエ」と名付けて、大切にした。


 小学校に入学してからも、想像の中でいつもゾエと一緒にいた。

 授業中、机の上を飛び跳ねたり、後ろ足を伸ばして耳の裏をちょこちょこ掻いたりするゾエを想像した。


 それが先生にバレて、「奈月さん、集中してくださいね」と注意されちゃったりしたけど。


 チサは家に帰ると、ゾエに必ず「ただいま」と言った。ゾエはチサの親友だった。




 小学四年生になって、授業で「自分の大切なものを紹介しましょう」という課題が出た。

 チサはもちろんゾエを連れて行く気だった。


「ね、ゾエ。明日はよろしくね」


 勉強机の上にちょこんと座るゾエは、少し緊張しているように思えた。


「んもー、大丈夫だよ。私がついてるし、ゾエはお行儀よく座ってるだけでいいからさ」


 そう笑いながらチサは、明日はゾエにいい所を見せよう、と気合を入れた。




 無事に授業の発表が終わった。


 チサは、ゾエをお母さんから借りたエコバッグに入れて、ランドセル置き場の棚に置いた。

 お昼休みは図書室に本を返しに行かなくてはいけないからだ。


 そしてお昼休みが終わり、教室に戻ってみると、クラスのみんながざわざわしていた。

 なかには泣いているクラスメイトもいる。


 チサが、どうしたんだろうと思いながら、教室に入ると友達のサヤちゃんが駆け寄ってきた。


「チサちゃん、あのね、男子が教室でサッカーしたんだって。

 それで、ロッカーにぶつかってね、みんなの荷物がぐちゃぐちゃになっちゃったの……。

 ユカちゃんの、ほら、今日発表してたお気に入りのワンピースも足跡だらけになっちゃったんだって……」


 チサは悪い予感がした。


 教室の後ろに行くと、本当にランドセルやらみんなの荷物が散らばっていた。


 しょんぼりした顔の男子たちが立っている。


 ゾエ、ゾエはっ……!?


 チサはランドセルの下敷きになったゾエを見つけた。


 埃まみれになって、真っ白の毛がくすんでいた。

 それに、尻尾の根元が千切れかけて中身の綿が見えている。


 ぐうっと喉の奥が苦しくなった。

 涙が零れそうだ。


 ――何で、こんな……。


 私がゾエを学校に連れて来なければ……。


 男子たちが一生懸命「こけた時にたまたま落ちてて踏んじゃったんだ。それで、ずるって滑って尻尾が千切れて……。ごめんっ……」と謝った。


 チサはなんとか笑顔を作った。


「ううん、大丈夫。私、気にしてないよ」




 チサは家に帰ってもゾエに「ただいま」も「お疲れさま」も言えなかった。


 それどころかエコバッグから取り出すこともできなかった。


 バッグの中に入ったままでは、ゾエが息苦しいだろうと分かっていても、今のゾエの姿を見たくなかった。


 お店でゾエを見つけた時、そのふわふわで可愛い姿を好きになった。


 でも今はゾエの存在がとても大切になっていた。


 ゾエは毎日のいやしだったし、同時に、明日も頑張ろうと勇気をくれる存在だった。


 チサ自身で、そう思ってたはずなのに。


 ちょっと汚れただけで、ちょっと傷ついただけで、こんな嫌な態度を取っちゃうなんて……。


 ゾエの見た目が好きだ。

 じゃあ、見た目が変わったら、あっさり捨てちゃっていいの?


 もちろんゾエはぬいぐるみだから、言葉も話さず、痛みも感じず、感情もないのかもしれない。


 でも、これは裏切りだ。

 ゾエに「大切だよ」と伝えてきた自分の言葉を裏切っている。


 それに何より、ゾエを買った時、お父さんとお母さんに約束したのだ。

 絶対にずっと大切にする、と。


 でも。でも。今は、ゾエを見るのが、苦しい……。




 翌々日の朝、ゾエが勉強机の上に、ちょこんと座っていた。


「えっ!?」


 チサは慌てて飛び起きて、ゾエを抱き上げた。


「あ……」


 ゾエは前とは違っていた。


 ふわふわだった毛は、ごわごわ硬くなっていた。


 尻尾はちょっと綿が減って、その付け根が青い糸でわれていた。


 ――そっか。そうなんだ。


 おとといの夜、ボロボロになったゾエを見つけたのは、チサに貸したエコバッグを取りに来たお母さんだろう。


 そして洗濯したのはお父さん、尻尾を縫ったのはお母さんなんだと思う。


 チサは――チサは最高に嬉しかった。


 だってゾエは、世界にたった一つのぬいぐるみになったのだから。


 お店で売られていたぬいぐるみなのだから、当然ゾエと同じぬいぐるみはたくさんいる。


 でも、もうこの子は見分けられる。


 持ち上げると凹みができてしまう尻尾も、ごわごわの毛に見え隠れする青い糸も、全然気にならないどころか、この子の個性だと思えた。


「……ね、ゾエ、どこかまだ痛いところない?」


 ゾエは愛らしく小首を傾げて、「そんなことよりもっと撫でて」と言わんばかり、に見えた。


 ――ゾエ、ゾエ、前よりもっと大好きだよ、と心の中で呟いた。


 もし誰かが、新品と取り換えてあげよう、と言ってもチサは断るだろう。


 約束する。この先何十年経っても大切にするからね。




 その日の夕方、チサはリビングで、ゾエを膝に乗せて勉強した。

 時々耳の後ろを撫でたりした。


 お母さんが洗濯物を畳みながら、チサの様子には素知らぬふりをして、


「チサはそろそろ新しいぬいぐるみとか、着せ替え人形がほしいんじゃない? あとはアクセサリーとか」


 お母さんの視線がちょっとだけ楽しげにゾエを向いたので、これは多分からかいだ。


 チサの向かいで、パソコンをカタカタ鳴らすお父さんも、実は耳をそばだてているんだろう。


「んー、ま、アクセはサヤちゃんと相談してみるよ。ほしい時は言うから」


 チサは自分なりに大人っぽくお母さんをあしらってみせた。


 小学四年生は、ぬいぐるみを連れて歩くのはさすがに卒業する頃なのだろう。


 周りの友達もだんだんと、もっと大人っぽい、例えばオシャレなんかに興味が向き始めていることを知った。


 これから先は、ゾエを誰かに自慢できることは少ないかもしれない。


 だけど、チサはそれで良かった。


 誰かに自慢できるかは関係なく、ゾエが大切なのはこの先大人になっていっても変わらないと思う。


 ゾエは心の支えなんだ。


 チサは、よろしく、という気持ちを込めて、ごわごわの前足をぎゅっと握った。






 それから十数年が経った。


 チサは恋人に振られた。

 五年も付き合ったのに、最後に五分くらい電話で話して、それでおしまい。


 涙でどろどろにくずれたお化粧に、自分で笑えた。


 お風呂から上がって、ぼーっと宙を眺めていると、ふと棚に飾ってあるゾエに目が留まった。


 ――ゾエ、ゾエ、あなたはずっと私を見ててくれてるね。


 いい時も悪い時も、みんな赤裸々せきららにこの親友に知られてしまっている。 


 気まずいような、安心するような。


 ベッドに寝そべって、ゾエをお腹に乗っけた。


 小さな重み。ごわごわ。

 ちょっとあったかい、気がする。そんなわけはないんだけど。


 そんなことに、今はすごく笑えてくる。


 ゾエの緑の瞳がキラキラ光を反射した。

 まるでチサの涙を吸いこんでいくみたい。


「ゾエ、大切にするから。あの約束は続いてるから。

 ずっと情けない姿ばっか見せてらんないもん」


 おそらくチサの妄想だけど、でもゾエは一緒に泣いてくれた。


 だから、見ててね。頑張るから。


 今度はたくさん笑う私を見守っててもらいたいから。




 チサは、ふー、とゆっくり息を吐いてから、電話をかけた。


「……あ、お母さん?

 ……あのね、ごめん。この間紹介した人ね、別れちゃったぁー。 ……うん、そう。

 ……大丈夫。元気だよ。……あーじゃあ、今度帰った時、愚痴ぐち聞いてほしい。

 あはは……うん、ありがと。またね。……はーい」




〈完〉





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ゾエ @kazura1441

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