この5月

秋永真琴

この5月

 マスクをかけ直して、会社の玄関を出た。五月の札幌は寒暖差が激しい。夏の予行演習みたいな日も、冬に逆戻りしそうな日もある。今日はどっちでもなかった。薄手のコートを着れば寒くないくらいの気温だ。

 外はまだ明るかった。水色に染まった大通の街に、人の行き来はびっくりするほど少ない。建物の灯りもまばらだった。いきなりここに放り出されたら、日曜の早朝と間違えるかもしれない。

 マスクの下で、そっと息を吐く。

 この静けさに、私は奇妙な安らぎを感じるのだった。

 本当はこうなんじゃないか。いままでが少しおかしかったんじゃないか。人間が健やかに暮らしていけるのは、このくらいの密度なんじゃないか。

 もちろん、そんなに困っていないから持てる身勝手な感慨ではある。いまのところ健康体だし、六月にはボーナスも出るし、明日は休みだ。平時ならどこかに立ち寄るところだけど、私の好きなお店はだいたい閉まっている。まっすぐ大通駅に向かった。

 地下鉄に乗った。ここも空いている。みんな、席を詰めなくなった。座れるスペースはあるけど立っているというひとが増えた。

 マンションに帰った。

 よく手を洗ってから、チーズとハムが入ったオムレツを作る。うまく巻けた。焼いている途中で「本当はスクランブルエッグを作りたかったのだ……そう、最初からそのつもりだったのだ……」と自分を騙す必要がないのは精神によろしい。

 それから、作り置きしているほうれん草と人参のお浸しを出した。タッパーからじかに食べる日もあるけれど、小鉢に盛りながら「丁寧な暮らし」とつぶやいて、ふふっと笑ってしまう。

 最後に冷蔵庫からクラフトビールの瓶を持ってきた。東京のブルワリーからお取り寄せした、ふだんは実店舗でしか買えないホワイトエールだ。

 飲んで応援。いや、そんな立派な行為じゃない。本当は限定品のままにしておきたかっただろうし、送る手間暇を考えればそんなに利益もないはずだ。ただ、珍しいものを通販で手に入れて楽しんでいる。それでいいのだと思った。自分の生活に、無理に意味づけをしなくても。

 ビールをグラスに注いだ。白金色の液体が硝子の内側に満ちていく。美しい食卓ができた。美しいと自分で言ってしまおう。お酒と料理をスマホで撮ってから、椅子に座った。

「いただきます」

 声に出して言い、ホワイトエールを飲んだ。甘くて華やかな味だ。柑橘系のさわやかな香りが鼻に抜け、冷たい刺激が喉を滑り落ちていく。幸せな気分でテレビを点けた。

 歌番組をやっている。過去の名場面をまとめた総集編だ。

 ちょっと前のヒット曲だと思っていた歌が「懐かしの名曲」扱いされていて、遠い目になってしまう。その歌が流行っていたころの恋人のことを思い出した。死んでいてほしい。次の歌が流れた。こちらは間違いなくちょっと前と呼べる、去年のヒット曲だった。

 それでも、一年経ったのか。一年前の春は想像もしなかった環境の中で、一年前の映像を観ながら、友だちに写真を送った。すぐに返信が来た。

〈オッ丁寧な暮らしっ〉

 笑ってしまった。さすが私の友だち。発想が同じだ。

〈私たちの丁寧のレベルとは〉

〈お惣菜を皿に盛れば合格。でも早くお店で呑みたいね。元通りになれ~~〉

 一瞬、返信する手が止まってしまった。

〈いっしょに呑みたいね〉と返した。

〈ね~。オンライン飲みってやった?〉

〈やったことない〉

〈今度やろう。アプリ入れといて~〉

 こういう些細なことを好きなときに気兼ねなく送り合える、数少ない友だちだ。会いたいな、と思う。いっしょに飲みたいのは嘘じゃない。

 でも、早く元通りになれという言葉に、私は即答できなかった。

 もちろん、いつまでもこのままでは世界が崩れてしまう。私も職を失い、心身の健康を損ねるかもしれない。それは嫌だけど。

 ふと、外の音が耳についた。自動車が道路を走る音が濡れている。カーテンをめくって窓を見た。わ、と声が漏れた。

 マスクをせず、外に出た。周囲には誰もいない。

 ひらいた傘が雨粒を受けて、パラパラとやさしい音を立てた。水たまりに無数の波紋が起きている。雨音がかえって夜の静けさを深めている。濡れた空気をじかに胸いっぱいに吸いこむ。

 自由だ。そう思うことへの罪悪感が、ふいに外れた。世の中はこんなに閉塞した雰囲気なのに、私はいま、とても自由な気分なのだった。

 いろいろな人が、いろいろなことを言う。世界のありようは決定的に変わってしまった、もう元の生活には戻れないと、威すような言葉も流れてくる。一変するのなら、してほしい。でも実際はそれほど変わらないだろう。変われないまま、元の暮らしが始まる。ただ苦しみだけが増して、それにもじょじょに慣れていく。

 この奇妙に安らいだ、自由な気分も、すぐに忘れてしまう。

 なるべく覚えていたい。この春の、この世界を。この気分のことを。そう思いながら、私は雨に包まれた五月の夜を歩き始める。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この5月 秋永真琴 @makoto_akinaga

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ