灼殻艘アドベント・ボート、緊急射出。

 ――様。射法はウィットブレッド年月式、始祖原初世界へ。

 紀元前七二三〇年環状雲から二〇二七年環状雲を通過します。

 逆行九二五七年。線状位相離界開始ディア・ホバート・ショット


 部屋の時計は、確かに一一時四二分を指していて、階段を駆け下りたわたしは、彼のあとを追うことに間に合ったはずだった。お酒で足元のふらついたベンジャミンが止めるのを振り切り、灼殻艘に乗り込んで、緊急射出シークエンスを起動したとき、目の前には信じられない文言が表記されていて、わたしは無限のような白い環状雲を降下しながら、意識を失った。

 気が付いたら、わたしは光のなかに浮いていて、腕も、足も、全ての形を失っていた。世界渡りは成功している。科学的でないことは信じていなかったが、きっと逆行年数に押しつぶされて、魂のようなものになったのだろうと結論付けるしかなった。

 ここがどこだか分からなかったから、わたしはふわふわと浮いて、白いまま、世界のあらゆるところを漂った。日本に戻ってこられたときには、まだ人々は土による不格好な道具を使っていて、それが縄文土器だと知っていたわたしは、そのなかに潜んで、また眠りについた。

 別世界に長くいると、内在時間を外に発散して無差別的に時空嵐を発生させる化け物になるか、それを自分のなかに引き込んで、永遠に自己の時間を滞留させる怪物になる。結局わたしは、後者だった。しかし、あまりに長いときを過ごしたからだろうか。わたしは滞留し、記憶をたどって辿り着いたある場所から動けなくはなったが、時空嵐を意図して発生させることができるようにもなっていた。

 何かしらわたしたちでは手に負えない超常が、この示準の平衡を保っているに違いない。いつか思ったことを思い返せば、それはわたしのような気がした。大杉の隣に神社が築かれはじめたころ、彼が迷わないように、正しく戻ってこられるように、多く交差する世界たちのなかでこの場所を保つことが、わたしの使命になった。時空嵐は偶然ではめったに起こらない。わたしがきたことで何かがおかしくなって、別世界に送られず、彼がそのまま死んでしまうことのないように、備えておく必要もあった。

 長いあいだ、暇に飽かせては偶然かどうか分からないほどの小さな風を送って人々を助けていると、神社は霊験あらたかなものとして敬われた。人知を越えたものを神様というなら、わたしは次第にそれになっていった。

 そうして、運命の日が訪れた。彼が、わたしの神社へときた。その日驚いたのは、彼らがわたしを見ることができた――魂が長く残ったせいで、わたしは若いころの形を取れるようになっていたが、わたしと縁の深い人でないと波長が合わないようで、それまで誰にも視認されることはなかった――のとは、別のところだった。彼は連れられてきた。老いたベンジャミンに。

 ごめん、酒は辞めたよ。ベンジャミンは開口一番、謝った。わざと時計を狂わせたことと、世界渡りを止められなかったこと、そしてわたしが九〇〇〇年の孤独を送ったことを、彼は後悔しているらしかった。わたしがここにいる可能性も確かでないまま、新型の灼殻艘でここまできたと、老体を揺らして涙ながらに口にした。

 ベンジャミンは、彼に餡団子を食べさせると、わたしにあるものを渡した。それは傘だった。事故に遭う前日にわたしがプレゼントして、列車のなかで潰れたかれの血肉と一緒にぐちゃぐちゃになったはずの傘だった。現場の遺物の一部が、過去の重大事故を記録した博物館に残っていた。それを少しだけ貰って、造り直して、連れてきたよと、老人は言う。その傘には、わたしと同じに形を失ったかれの魂が、ほんの少しだけ纏ってあり、美しい白縹しろはなだをしていた。

 時は過ぎ、『久方ぶりなのだ』と、死んでから二年経った姿で戻ってきた彼に声をかけたときわたしは泣きそうだったけれども、『無論だとも、早くこいよ、若いの』と声をかけ、ベンジャミンを元の世界に送り返したころには、もう心は静かに凪いでいた。『次はいつくる』と、問いかけたのは、目の前の彼にではなかった。

 それまでの会話で分かった。高々四一年生きたくらいで大人になったつもりの彼の内心も、受験生ちゃんだったわたしのことも、ベンジャミンの少し長い弔いも、全て見透かしたうえで、誤魔化しているうちに、気付いた。同じくらい翡翠に似て美しい目の前の青年の魂は、わたしが傘を手渡したかれの白縹をしていない。本当は、はじめから知っていたことだった。遠く見える警察署の前で、凛とした瞳をしたあの人は、わたしの失った人ではないのだ。

 空を見上げれば、雲が再び立ち込めるのが分かる。わたしは社殿の広縁に座り、最後の会話たちを思い返す。あのときだけは、違った。混濁する記憶のなかで、答えてくれた彼のなかに、一瞬わたしの愛したかれを見た。傘がことばを発しているようにさえ思えた。聞こえる雨音がことばをかき消す前に、小さな決意を口にする。――だから、ここで待とう。わたしの二人の大切な人を。


 ・・・

 

「おねえさん、そこでなにしてるの?」

『うん? そうだな、人を待っておる。坊はどうしてここへ?』

 それから、眠るような日々が続いたある夕方、わたしが大杉の洞に腰かけて空を見上げていると、眼下の参道に、小さな子どもの姿があった。独りで、山奥の社まで長い階段を上ってきたらしい。寝ぼけた頭でふわりと地面に舞い降り、声をかける。

「ここね、おばあちゃんの、思い出のばしょなの。初恋の人と、おねがいしにきたんだって。ぼく、こっちにこしてきたの」

『そうか』

 おばあちゃん。そう口にする少年の顔には面影があった。わたしの大切な人の小さいころによく似ている。笑った顔なんかそっくりだ。

「おじいちゃんには、しー、だよ〜って言われたの。そういうものなのかなぁ?」

『そういうものなのだろうな』

 おじいちゃん。別れのときの嵐で少しだけ驚かせすぎたかもしれないと、わたしは少し後悔した。あれから何年か経つが、音沙汰はない。しかし、しっかりとまだ覚えていてくれるだけで、何より幸せな気持ちになった。

「ここ、どんな所なの?」

『妾の家なのだよ、ここは。おばあちゃんも少しばかし知っておるぞ』

 これは本当に少しだけだ。彼が戻ってきた前日、一八歳以降のこの世界の私をわたしは知らない。

「そうなの!? おねえさん、すごいんだねぇ」

『覚えていてくれる人がおるからな』

「わすれられないと、すごいの? んー? そういうものなの?」

『そういうものだとも』

 けれども、少年の問いに、わたしは嬉しくなって得意げに返してしまった。憶えられている。この世界の彼にも、きっとあの世界のかれにも。

「おねえさん、どんな人を待ってるの?」

『いつも、「またきたよ」と餡団子を三人前持ってきて、二人前食べるような奴だ』

「ぼくも好きだよ、あんだんご〜」

『そして、従妹を魅了しても、気づかんような罪深い鈍い男だ』

「みりょ……つみ?」

 わたしが追いかけて神様になってしまうくらい、想っていたことに気付かず、喧嘩別れしたまま、一人で元の世界に戻ってしまうほど――

『――バカな者、ということだ』

「そういうものなの?」

『そういうものなのだ』

 ぽかんとした様子の少年に、笑いかけた。思い返す。それは、きっとわたしが彼を送り出すときに、するべき表情だった。

 斜陽は翳り、頭上で鳥たちが渡るのが見える。彼や私も心配しているところだろう。わたしは目立つように、畳んだ傘をゆっくりと振り上げ、上空に葉を鳴らす風を送った。

『ほれ、童は帰る時間ぞ』

「あ、ホントだ! ごめんね、おねえさん」

『……あぁ』

 参道を駆けだした少年は、降り階段口で振り向いて言う。

「あ、そうだ!」

『前を向け! 転ぶぞ!』

 そのあまりの危なっかしさに、わたしは空気をひと薙ぎして態勢の崩れかけた小さな身体を拾う。だが、少年はお構いなしに元気よく続ける。

「明日もね! ぼくくるね! またきたよ、ってあんだんご、あげるね!」

『お主に言われれば、満足だろうな……』

 その目のきらめきに、声の張りに、わたしは嬉しくなって、瞳に涙が溜まっていくのが分かる。魂だけになって形を得たわたしの全てが洗われ、晴れ晴れとすっきりした感覚があった。彼が戻ってきた夜以来、久し振りに、目が覚めた気分だ。

 と、そこでわたしは思い出した。どうして、この少年は、わたしと対話できるのか。わたしは、わたしに深い縁のある者にしか見えない。彼の関係者だからかとも思ったが、それだけではないだろう、この世界の私にも見えず、いままでわたしを見つけたのは、ベンジャミンと戻ってきた彼だけだ。

 ない心臓が高鳴る。幻覚の頬が紅潮する。わたしは、予感があった。とんっと、少年を地面に降ろす。鳥居の下、柔和な笑みを浮かべる子ども。かれは、勢いよく手を振って言う。

「おねえさん、またね!」

『あぁ、またな!』

 手を振り返すと、音がする。

 きれいな白縹の魂が、長い長い階段を下る音が。

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恋と言うには穏やかで 愛と呼ぶには儚くて with Aiinegruth Aiinegruth @Aiinegruth

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