『そうだ、先日はお主以外の者がきたぞ! 三年前にお主が連れてきた、何といったか……そう、ジュケンセイちゃんなのだ』

 それから、少し経って、白縹しろはなだの傘の小さな神様は呟いた。

「それは名前ではないよ。妹ちゃんと呼ぶようなものだ」

『むぅ……笑わずとも良かろうに』

 思わず、苦笑いしてしまう。知っているかい、神様。おれの従妹は、三年前の高校受験にも、今年のテキサス大学オースティン校の受験にも成功して、アメリカへ渡るんだ。そこで、ベンと知り合って、数々の学問の成果を残すことになるんだ。大人になっても上品で、綺麗で、ちょっと抜けているところもあるけど、優しいままなんだ。映画館も、遊園地も、水族館も、動物園も、海も、山も、どこでもあの笑顔は素敵だったんだ。その隣に、もうおれはいないとしても、とても。

「でも、そうか……なんだか、その繋がりのなかで僕が生きているようで嬉しいな。葬式に人が集まるのは、そういった意味もあるのかな」

 僕。そんな懐かしいことば遣いが、この神様の前では不思議とでてきた。向こうのおれの葬式にも、彼女は参列していたときいた。おれは地方の列車の衝突事故で死んだらしい。あまりの衝撃で持っていた鞄なども合わせてバラバラになって息絶えたために、ほかの乗客の亡骸と混ざって、ほとんど区別できなかったそうだ。

『嬉しいのか?』

「もちろん。何もなくなるように消えていくのは寂しいものだからね」

 形を失った別の世界のおれが、そこにいたと確かにしてくれた。葬式にきてくれたらしい、かつて受験生だったあの人には、その恩義もあった。

『そういうものか?』

「そういうものさ」

 


『確か、お主が初めてきたのも、人に連れられてだったな』

「そうだね、隣の家のおじさんに、近所を教えて貰っていたときだ」

 神様は、空を仰いでいう。記憶を思い返せば、確かにそうだ。まだ小さく、おれがこの町に引っ越してきたとき、やけになれなれしい男が、訳知り顔をしておれの前に現れた。おれはそれが少しだけ不気味だったが、悪い人ではないのが分かると、すぐに懐いてしまった。甘党の男は優しく、気取り屋な面もあった。この神様やおれのことは、ちょっと聞いただけでなんでも知った風に語り散らしていた気もする。この方は白縹の風神ふうじん様だとか、日本で最も旧い神族だとか。随分洋風にかぶれた餡団子を生業にしていたのもこの人で、おれはそれを買ったり、貰ったりして、神様と二人で食べていた。

『あやつな? 儂の所なぞ、年に一度と顔を出さんのにしたり顔で語るだろう? おかしかったぞ』

「だから笑ってたんだね。とても素敵だったよ」

 大きな杉の木の下で話し合う二人の笑顔はとても優しくて、少しの愁いを帯びていて、幼い自分には少しだけあいだに入りにくいものだった。しかし、一歩後退る音が聞こえると、二人はこちらに手招きして、おれを誘った。おじさんなんか、おれを肩車して境内を走り回っては神主に怒られていたような記憶もある。あんな開けっ広げな性格をして酒を飲まないので、社殿の宴会ではいつも最後までしっかりとした話し相手になってくれた。いま思いなおせば、彼は、境内から出られないらしいこの白縹の傘の神様とおれを確かに繋いでくれたんだという確信があった。

『今日は口が軽いのぅ。しかし、儂はいつも素敵だろうて』

「違いない」

『笑うところではないぞ』

「ごめんね」

 謝っても、微笑みは薄くはならない。神様が幼いころと変わらずにいてくれること、そして思い出された繋がりに、おれはただ喜びとしか表現できないものを嚙み締めるだけだった。

『しかし、長いなぁ。人は不可思議なことに労力を使うのだな』

「そうかもね。大きすぎて、複雑すぎる感情って宝を、持て余してるんだよ。でも、それが良さなんだろうね、きっと」

 鳥居の向こうの花火は、やっと打ち止めになりそうだった。人間の本質なんて、大人になっても分からなかったが、この胸のなかを温めてさらに溢れそうになる想いは、きっと悲しさの延長ではないと、いまのおれには感じられた。

『そういうものか?』

「そういうものさ」


「ごめんね。そろそろ、行かないとかな。ありがとう」

 雨音が近づいている。重々しい雲が、厚みを増す。

 上がる水飛沫が、白縹の彼女を薄く溶かし、消え去りそうになる。

『のぅ、主。次はいつくる?』

「……ごめんね、約束はできないかも。でも、覚えていたら。きっと真っ先に行くだろうさ」

 ただ、足を戻して神社に帰ってくるだけなのに、約束はできない、覚えていたら、なんて、不思議なことばが漏れ出てきて、ふと失われていく別世界の記憶が想起された。きっと真っ先に行く。そのことばは、このおれの口を借りて、誰かが発したもののように思えた。

 雲を冠した夜闇のなかで、奇妙な会話は続く。

『そういう……ものなのだな?』

「そういうものにするさ」

『儂はな、お主を忘れんよ。くるのを楽しみに待つとも。それは、嬉しいものか?』

「そうだね、とても。でも、それが苦しみになるなら、捨てて……と言いきれない弱い男だけどね、僕は。それでも待つかい?」

 意志をおいて繰り返される対話に、おれは何となく理解した。この世界で、幼いころから、ずっと一緒にいてくれた神様。おれとは生きる時間が違う存在。彼女がどうしてこんなに良くしてくれるのかは知る由もないが、どこか遠くに聞こえることばたちのなかで、自分のなかに強い想いが漲るのが分かった。戻ってきた以上、おれはここで、しっかりと生きて行かなくてはいけない。

『無論だとも。早くこいよ、若いの』

「そうするよ」

 神様に背を向け、神社の階段に向かって歩く。背後に雨の降る音がする。濡れる。渡ったときに防水機能が壊れていたのか、コンタクト型の制御装置が不要な表示を引き出す。それは、あの世界とこの世界への渡航履歴だった。


 灼殻艘アドベント・ボート   到着時期降順

 第三回渡航 二〇二七年発 二〇〇三年着 逆行二四年

 第二回渡航 二〇五三年発 一九八九年着 新型機につき逆行なし 

 第一回渡航 二〇二七年発 紀元前七二三〇年着 逆行九二五七年

 

 おかしい。さっきの渡航が、最初で最後、たった一回のはずだ。それなのに、どうして、おれが渡ったあとに、誰かが、あの世界からこの世界にきたということか。

 困惑するおれの目前に、足音がする。降り階段の鳥居。そこには濡れながら歩いてきたらしい、見知った老人が立っていた。こちらを見て一瞬驚いたように目を見開いた彼は、しかし、直ぐに穏やかな表情を取り戻して、とても流暢な日本語で、久しぶりだなとほほ笑んだ。

 何を言う暇もなかった。背後から少女の声が聞こえると同時に、ふざけた烈風がおれの身体を浚って、神社の構えられた山から横合いに巻き上げる。なにもない中空にひとり。しかし、足元の浮遊感による落下の恐怖も、自身を襲った超常の意味合いも、眼前の光景に注がれる注意には及ばない。

 社殿の上に、神様が立っている。

 それを見上げる、老人がいる。

 水色の髪に、銀色の肌の神様は、畳んだ白縹の傘を高く掲げて、ばっと広げる。一息に、上空の色が変わった。振り上げられた一閃の風圧に、あらゆる雨は消し飛び、天を覆う雲海は押し上げられ、遠く背後の山間からさす夜明けの日が、社殿と参道を薄野に似た金色に染め上げる。

 茫漠とした朝の奔流のなかでことばを交わして、老人が静かに頷くと、少女は傘を握ったまま円を描いて回ってみせる。直後、吹き上がる。社の森の葉が、花が、枝が、彼女の描いた線の通りに、嵐の怒号を伴って天空に吸い込まれていく。

 神社に咲いた旋風。制御コンタクトに映った時空嵐の警告から、何が起こったのかは、おれには大体が分かっていた。全ての轟音が去ったころには、おれは警察署の前に降ろされていて、捜索しています、と張られた自分の顔のポスターを、しっかりと見据えていた。

 この世界で、生きていかなければならない。神社で待っている、あの神様のためにも、きっと元の世界に帰った、やつのためにも。おれは強く拳を握りしめ、紙を剥がすと、当直の警官に話しかける。――これは、僕です、と。

 

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