恋と言うには穏やかで 愛と呼ぶには儚くて with Aiinegruth

Aiinegruth

 腕時計は一一時四〇分を指している。二〇二七年の初夏、ノースサイド・ヴィレッジの大通り、アーヴィントン・ブルーバードは、清らかな夏の日差しに満ちていた。足を進めて石畳を降りていく。テキサスの地下はカジノばかりではない。路地裏。アストロズのポスターが換気栓に揺れる階段を下って辿り着いた管制室では、管理局の知り合いが昼間から電話を片手にカリフォルニアの安酒を煽っていた。

 米国の誇る有能で苦労が趣味の上院高官どもが軍産コングロマリットやら拡大政策やらの事情を気にして秘匿したお陰で、この部屋が司るところの並行世界の存在を知っている者は極めて少ない。時空嵐じくうらんに巻き込まれ、始祖原初世界しそげんしょせかいからここにぶっとばされてきたおれもその一人だった。甘いものが手元にないと死にそうな顔をするアルコール中毒で気取り屋のベンは、おれの姿を目に入れると、通話先の友達とのごひいき球団への『かもしれなかった論議MMQB』を切り上げて、真剣な表情になる。

 おれと同じ時空管理局員を副職として持つやつは、本当に帰るのか、とはもう聞かなかった。おれがもといた世界に戻らなければならない理由はたくさんあったが、最も大きいものは、別世界の時間の流れをもった旅行者が、元ではない世界に居座るととても迷惑な現象を引き起こすことを、ヒューストン大学お抱えのスーパー・コンピューターが弾き出したことだ。放っておけばおれはあと五年くらいで、内在時間を外に発散して無差別的に時空嵐を発生させる化け物になるか、それを自分のなかに引き込んで永遠に自己の時間を滞留させる怪物になるらしい。前者はおれみたいな哀れな人間を量産する悪魔のような末路で、後者は――知り合いのイカレた頭の持ち主たちをしても――自己をほとんど失う可能性がある以外どんなありさまになるか分からないという。異世界からきたものは、当然元の世界へ帰るべきだ。そんな宗教的な節理じみたなにかを、年端もいかない計算機器はおれたちの目の前で画面に現わした。

 米国一の工科大学にいたころからの付き合いで、そのまま時空幾何学の専門でヒューストン大の上級フェローになったベンは、おれの視線に沿って、部屋脇のモニターを見る。一〇年ちょっとの研究でくみ上げられたシステムがけたたましく報告を上げて、そのときがきたことを伝えている。いま、この一〇分を残して、ほかにない。第二八世界と、始祖原初世界の時差が四半世紀に収まるのは、あと少しだけだ。一一時二三分。おれの決意に最後の抵抗をしてか、湿ったアルコールの匂いの満ちた管制室端の時計は今日二〇分早く時間を刻んでいる。腕時計をしているおれには無意味なことは知っているはずだ。音を立てて秒針を揺らすそれは、つまるところ、日頃おちゃらけた親友からの惜別のメッセージだった。

 おいおい、おれがいたら時空嵐は激しくなるんだ、ダラスで飲んだくれている阿呆どもをそっくり全員送りつけたら、向こうの合衆国が終わっちまうだろ。なんて、いつもの冗談はもう言わない。おれはベンに背を向け、ガラスを隔てた向こうの倒立した青いボートに似た転送機に乗り込んだ。

 

 第二八世界、滞空いたしました。

 灼殻艘アドベント・ボート、投下準備確認。

 ――様。射法はウィットブレッド年月式、始祖原初世界へ。

 二〇〇三年環状雲から二〇二七年環状雲を通過します。

 逆行二四年。線状位相離界開始ディア・ホバート・ショット


 短い涙が流れ、防水の制御コンタクトがきらめく。

 結局、もう一人。協力してくれた彼女は今日こなかった。

 心のなかで、この世界に別れを告げ、落ちる。

 

 溶暗。モニターが映す部屋の外部が漆黒に染まり、次の瞬間に、鯨の鳴く音にあわせ、茫漠とした紺碧が拡がる。時空断面。機械の都合で、空にも海にも似た青色に描画された虚無のなかを墜落してしばらくすると、時間の波が、無限の半径を持つ雲海として眼下に現れた。青の空幕に二四の白い円環を伴った異界で、独り。ない風が荒れ狂い、服を巻き上げる感覚。制御コンタクトによれば、あらゆる数値に狂いはない。三人の成果のままだ。

 

 全て想定通りだった、実用可能だ。

 ありがとう、みんな愛してる。

 

 最後のことばを通信機から送り、星のように落ちる。

 長い長い、軌跡を引いて、遥かな故郷へ。

 

 始祖原初世界、二〇〇三年四月三日。

 ――神社の大杉


 気が付いたときには、仰向けのおれの視界は巨木の幹を映していた。世界渡りは上手くいったようで、少し濡れた地面に逆行年分若返った一七歳のおれが一人で、ぶざまに転がっている。二四年分の逆巻き。それは、想定よりずっとこたえた。おれは大いに酔ってしまい、立ち上がった瞬間に大きく足を滑らせて倒れる。たくさんの情景が複雑に混濁し、自分の名前も、思い出も、ぐしゃぐしゃになって脳を駆け巡る。吐きそうだ。ただ、あまりの苦痛が満ちる前に、遠方から鈴の鳴るような優しい声が響いた。

『久方ぶりなのだ』

 それは、ことばだった。妙に慣れ親しんだ声色だった。

 目をやると、声がしたより遥か間近に、小さな少女がいた。

 きらめく水色の髪と、銀に輝く肌。ばっと開かれ、その小さな肩に担がれた白縹しろはなだの傘は、雲を深く敷いた闇夜にかかって、背後に揺らめく月のように見える。

 全く覚えのないはずの神秘的なその姿と、山の上のこの神社に、しかし、おれはどうしてか懐かしさを感じていた。頭痛が収まるなかで、すこしずつ蘇ってくる記憶と共に、問い返す。

「やぁ、本当に。いつぶりだろう」

『お主がこなくなってからだ。ざっと……二年か?』

 清浄の気に照らされて、肺のなかが心地の良い酸素に満たされる。

 二年。白縹を閉じて、横に握った彼女のことばを思い返せば、そうだ。おれは彼女と会っていた。しばしば、近くのおじさんの店で買える餡団子を持ってきて、供え物がわりに二人で食べた覚えもある。時空嵐と、別世界のアメリカで過ごした日々のせいで、こんな大切なことを忘れてしまっていたなんて。

「そんなにか、とても長かったろう」

『そうでもないとも。儂の歳月、甘く見積もるなよ?』

 気遣ったおれのことばに、彼女は優しく微笑んで返した。その小さな身体から横溢する神威に圧倒される。並行世界だといっても、向こうの日本にこの神様はいなかった。研究室での話を思い出す。おれの故郷が見つかったのは、進んだ科学的知見を用いても奇跡だった。多くの並行世界のなかに、原点座標とも思える、一切浮き沈みのない凪の世界があって、それが、ここだった。おれのきたアメリカは、観測できるうちで、この最も安定した世界から二八番目に遠いところにあった。

 何かしらわたしたちでは手に負えない超常が、この示準の平衡を保っているに違いない。昨日きてくれなかった彼女は、そういった。それが、小さなころから世話になった目の前の傘の神様なのだろう。おれは、巡り合わせの妙に驚くばかりだった。

「ふふ、そうだったね。でも、そんなに会っていなかったのは、なんだか残念だなぁ」

 おれにとって二年は長かった。何せ、あいだには四半世紀の時間が流れた。長すぎて、ずいぶん更けた大人になってしまった。神様と過ごした日々が蘇る。かけっこや、鬼ごっこ、大人も交えた宴など、地味ながら楽しい遊びをたくさんした気がする。おれは時空嵐でこの世界の二〇〇一年の冬至から、同年夏至の別世界のアメリカへ吹っ飛ばされてしまった。驚いたことに、ビザなしで送還されかけた先で聞いた話によれば、自分はこの半年のあいだに交通事故で死んでいるらしかった。死んだはずの人間が生きている。そんなふざけた状況になって困っているところを助けてくれたのが、同い年で生まれの恵まれたベンだった。

『そういうものか』

「そういうものさ」

 返して、目に涙がたまるのが分かった。彼女の問いに、上を向く。そういうものだ。吹き飛ばされたと本能で気付いたときから、きっと元の世界に帰ってこようと思っていた。家族も、好きな人もいたからだ。けれど、大人になって、時空幾何学の大成として世界渡りを実現させていまここ戻ってきても、それが正しかったかどうかは分からない。向こうに居続けておれが酷いありさまになっても最悪だったが、そのために多くの友情と、ともすれば愛さえ犠牲にしたのは同じくらい最低だった。時間は大切なものを作り過ぎて、家族も、愛する人も、友達も、再び満たして余りあるほどに溢れさせてしまった。一五年を過ごした元の居場所か、二七年を過ごした新しい居場所か。おれは、こんな大人になってまでも、その天秤の傾き具合を、しっかり認識できはしなかった。

 向こうの家族は説得しきれなかった。本当の家族ではなくとも、一度失った息子が今度こそ完全にいなくなる。ここより神威のない神社で祈祷も受けさせられたし、何人ものカウンセラーとも顔を合わせる羽目になって、おれは逃げ出してきた。 

 ベンにはどうにか分かってもらった。けれども一度は、この計画は凍結するとか言い出して、一〇年かけて集めたデータの入ったストレージボックスを電子レンジでお釈迦にされる寸前になった。

 そうして、彼女はついに送りにきてもくれなかった。向こうの世界で再会した、愛する人。おれと同い年のあの人とは、喧嘩別れになってしまった。

 思い出そうとすると、向こうの世界での記憶が、ゆっくりと砂上の楼閣のように消えていきそうになるのが分かる。淡く溶けてしまう。忘れて流れてしまう。おれは、まだ、二七回の春と、夏と、秋と、冬の想いを踏み台にしてまで、ここに立っていていいのか、分からないというのに。

 嗚咽が漏れ、倒れそうになるおれの手に、水色の髪の神様は、白縹の傘を握らせた。杖にして、どうにか身体を支える。そういえば、この傘も、どこかで見覚えがある気がするのは、記憶の混濁のためだろうか。しっかりしようと頭を振るおれの肩を優しく叩いて、彼女は夜に揺れる鳥居を指差した。

『ところでな? これは何をしているのだ?』

 目をやる。丹色にいろに塗られた門のなかには、本来あるべき降り階段はなく、代わりに小さな花火が映し出されている。知っている。別世界間映像送信だ。二度と会話のできない世界から最後に送られたらしいそれに驚くおれを置いて、巨大な画面となった左端に、いくつかの文字が浮かぶ。


 L.I.P. Dear ーーーー To 2003, From 2027. 

 Benjamin・A・ Whitbread  


「これかい? 人の弔いだよ」

 おれと、友の名前を見て、声を上げなかったのも、涙に狂わなかったのも、大人になった成長によるというよりは、ぐっと押し寄せた疲れからだった。折れてしまいそうな傘を持ち上げ、代わりに大杉に身を預けながら、深く呼吸を続ける。鳥居のなかの花火は上がり続けていて、その光がおれの輪郭をこの世界に強く刻む。

『弔い……聞かぬなぁ』

「いなくなってしまった人に、ありがとうとさようならを伝える儀式さ」

 いなくなってしまって二度と戻れないおれに、最後の想いを伝える花火だ。

『いなくなったあとにか? なんの意味があるのだ』

 ないよ。とまず、おれは断った。このささやかな光は、おれと彼らのどんな距離を縮めることもできないし、何か劇的な変化をもたらすこともない。

「でも、少しだけ整理できれば、その人のことを思い出すとき、少しでも長く笑顔でいられるだろう? 人に思い出してもらうなら、笑顔で語られたいものだよ」

 笑って欲しい。泣いて欲しくない。思い出してもらうなら、笑顔がいい。

『そういうものか?』

 神様は、分からない、といった顔をした。けれどおれは、そのこころの奥深くが、少しだけ揺れたのを感じ取った。上を向けば、星はなく、街灯も遠く、闇夜が立ち込めるばかりだ。大きく息を吸い、おれもできるだけ笑って、傘とことばを彼女に返した。

「そういうものさ」


 


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