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 ふーっと、吸った空気をゆっくりと吐き出す音が小さいながらも聞こえる。反して、私の呼吸は息の音が止まるほどに鎮まっていた。

 どくどくと心臓が震えている。

 隣人が帰宅して部屋の明かりが戻っていたことに気づけなかった。そもそも気にするのを忘れていた。

 幸いにも私の存在には気付かれていないようだから、隣人がバルコニーから去るまではひっそりと息を潜めていようと決意する。


 普段であれば何時間だろうと無心で空を眺めていられるのに、名も知らぬ他人の気配があるだけでこんなにも苦行になるとは思わなかった。

 

 時刻を確認しようとポケットからスマホを取り出して、画面に触れようとした指先をぴたりと止めた。

 画面の明かりは暗闇の中では目に付くものだ。

 いくら柵があるとは言え、タイミングが悪ければ漏れ出る明かりに気づかれる可能性がある。

 何故こんなにも顔を合わせるのを嫌うのかと、ふと馬鹿馬鹿しく感じることもあるにはある。しかし、今のご時世、知らない方が色々と気楽だろう。


 スマホ画面を斜め下へと向けて画面に触れると、ホーム画面から時刻が確認できる。

 21時30分――どうりで指先がかじかんでる訳だ。

 バルコニーに出てから既に1時間を越えていた。時間を意識したせいか、途端に身体中が震え出したので身を寄せて丸くなる。


 風と揺らぐ爽やかな香りの混ざる煙草の渋い煙が鼻につく。

 煙草は吸わないが嫌いではない。

 副流煙を気にして生活している訳でもないので隣人が吸っていようと気にもならないのだが、今日だけは一本で切り上げてほしい。

 両手を組んでゆっくりと摩りながら、時間が経つのを待つ。


 そうこうして隣人の吐き出す空気を無心で聞いていると、一通の着信音が鳴り渡った。

 瞬間心臓が跳ねたが、ポケットにしまったスマホから鳴ってはいない。

 音の距離的に隣人だろう。

 着信は鳴ってもすぐには出ずに、吐き出すような長い溜め息を吐いていた。そして着信音が止まったかと思えば「なんか用?」と素っ気ない声が小さく聞こえる。

 吐息の音から想像はしていたが、やはり男の人の声だ。中高年男性かと思ったが、声の雰囲気的には若い印象を受ける。

 電話をするなら部屋に戻るだろうか、と淡い期待を抱いたが、そうなることはなく。

 隣人の小さな相槌が聞こえる。

 ひっそりと隠れている今の状態では盗み聞きみたいで、会話らしい会話がないことに心底安堵した。


 この相槌の主はどんな人物だろうか。

 寒さを紛らわせるためにも、音の出ない息を吐きながら想像をして時間を潰すことにする。

 若くして新築マンションの最上階に住むなら、裕福な家庭なのだろうか。

 それとも、若々しい雰囲気の声だがそこそこ経験の積んでいる社会人か。

 それか……


「はあ? パスワード?? なんで」


 今までとは比較にならない音量で聞こえたその単語にびくりと震える。

「いやいや、そんなのさ……」

 もしかしなくとも、電話の相手からパスワードを聞かれているのだろうか。

 なんのパスワードか分からなければ聞いてしまったところで何ともならないし、そもそも誰が聞いているかわからない外でパスワードを言う者もいないだろう。

 ……必ず室内に戻るはずだ。


「ああ、もうしつこいなぁ。今から言うから!」


 そんなまさかと口元を抑える。

 今からとは言え、流石に室内に戻るはずである。どうか戻ってくれと願いながらも万が一の場合も考える。


 このまま聞いてしまったところで。

 そもそもIDすら知らないから聞いても意味がない。

 それに、たった一度聞こえても、覚える気がさらさらなければ簡単に忘れさるものだ。

 そして昨今はログイン通知が来て不正アクセスされていないかと注意喚起がある。

 つまりは、たった一度、謎のパスワードが聞こえたとしてさして問題はない。


 とはいえ。

 万が一、この場に居たことに気づかれてしまえば盗み聞きされたと思われるだろう。引っ越したばかりの隣人同士で早々に嫌悪感を抱かれるのは良くない。

 なによりも、こちらの精神状態に悪影響である。聞いてしまったという罪悪感に苛まれることは目に見えているし、余計バルコニーに出づらくなるではないか。


 では、万が一、億が一に今の状況で隣人がパスワードを口にし始めたらどうするか。

 ここまでを脳内フルスロットルで考えたところで、ついに隣人が口を開いた。


「最初が大文字の……」

「ハッくしゅんッ!!……寒っ」


 のろのろと体を起こして欠伸を大きくしながらデッキチェアを折りたたむ。

 ザ・うっかり寝ちゃったけど、自分のくしゃみで起きました戦法である。


 転居前は雨予報でない限りバルコニーに放置していたデッキチェアも、隣人に見せつけるために折りたたんで脇に抱える。

 ありきたりな小芝居ではあるが何も不自然ではないはずだと言い聞かせて、窓を開けて戻ろうとした時だった。


「あのっ! ありがとうございます!!」


 背後で聞こえたのは当然隣人の声だ。

 お礼を言われるようなことでもないのに律儀な人だなと思いながらも、ここで無視する訳にもいかず、顔だけ右へと向けて会釈をしてから室内へと戻る。



 一瞬だけ顔を合わせた隣人は、予想以上に若かった。若々しかった。

 そして、電話での話口調と煙草を吸うという事実から想像する人物像とは真逆をいく、穏やかで人の良さそうな青年であった。


 第一印象で決めつけるべきではないが、それでも第一印象は重要視していいだろう。


 隣人同士の揉め合いは余程のことがない限り起きないのではないか。

 それなら、なるべく隣人がいない時間を見計らって、バルコニーで空を眺めよう。

 せっかく高い家賃を支払っているのだ。

 当初の予定通り、都会の空を満喫しようと心に決めた。



 それが、名も知らぬ隣人との一度目の出会いだった――



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天に埋もれるバルコニーで、潜む恋を君と。 青葉 ユウ @ao_ba

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