邪視の話

森 メメ

邪視の話

 夜更けの街、人通りの少ない道。

 何処か普段とは表情の変わった街が私は好きだった。

 歩き慣れた道ですら、暗くなっただけで初めて通るかのような新鮮さを感じることができる。


 そうして今日もまた、私はいつものように日の落ちきった街を散歩していた。

 気楽な独り身だ、いつ何処へ行こうと何も遠慮するようなことも無い。

 幸いにも今日は週末だ。

 日が昇るまで歩いたっていい。

 いつもの道を通り、見知らぬ路地を抜け、見覚えのない公園を通り抜け、かれこれ1時間は歩いただろうか。

 ふと顔を上げると、さびれた雑居ビルが目に入った。

 中には消費者金融や飲み屋が入っている程度だ。

 いつもなら気にせず散歩を続ける所だが表に出ている、同じくビルに入っている喫茶店ののぼり旗が気になった。

 右下に店名が書いてある普通の旗ではあったが、真ん中に白い布が貼られ、そこに大きく書いてあるメインの文字が奇妙だ。

 そこにはただ一文字


『目』


 とだけ書かれている。

 何か意味があって書いているのだろうが、見当もつかない。

 この辺りでは珍しい事に、その店は深夜も営業しているようだ。

 少し興味を惹かれてしまう。

 あるいはそういった興味を持たせること自体が、この旗の目的なのかも知れない。

 それならそれで上手いやり方だ。


 長時間の散歩で喉が乾いていた事もあり、私は『目』と書かれたのぼり旗を掲げる喫茶店『カリギュラ』へと足を踏み入れる事にした。


 ____

 ____

 ____


「いらっしゃいませ」


 店の扉を開いた私を出迎えたのは、中年といった頃合のマスターだった。

 清潔な雰囲気の服とエプロンを付け、柔和そうな笑みを浮かべている。


 ひとまず私はマスターに勧められ、カウンター席の1つに腰を掛け、アイスコーヒーを注文した。

 その後、周りへと目を向けてみたが特筆するような事も無い、至って普通の内装だ。

 表で見た旗からイメージされるような奇抜な客寄せをするようには思えない。

 そうしてキョロキョロと見回しているとマスターが注文の品を持って席へとやってきた。

 感謝の言葉と共にコーヒーを受け取る。

 しかしマスターはそのまま奥へと立ち去らず、私の顔をじっと見ていた。

 何か失礼を働いたかと思ったが、私が訊ねるより早くマスターの方が口を開いた。


「外にある旗、ご覧になられましたよね? 貴方もようですね」


 違和感のある言い方だ。

 『ご覧になられた』と言ったのに『見られた』と表現した。

 その言い方はまるで、私が何かにと言っているかのようだ。


「言い間違えではありませんよ。文字通りの意味です」


 マスターは笑顔を崩さずに、更に言葉を続けた。


「『目』をご覧になられましたよね?」


 その様子に少し気味が悪くなりつつも、首肯してその通りだと伝えた。

 マスターは満足そうに頷くと、新しく一つの単語を出した。


「『邪視』をご存知ですか?」


 ____

 ____


『邪視』

 あるいは『魔眼』、『邪眼』とも呼ばれるもの。

 文字通り邪悪な視線を示し、人に害をもたらす呪いの類だ。

 しかし、なぜ今その言葉がマスターの口から出たのだろうか。


「貴方は随分と目が良いようですね」

「眼鏡で矯正しなければ散歩も出来ない有様ですが……」

「いえ、視力の話ではありません」


 マスターは手を広げて店の入口を示した。


「よく物を見ていらっしゃるようです。そうでなければこのような店には入って来られませんから」


 そういう意味であれば少し覚えがあった。

 趣味で始めたカメラ撮影で小さな賞を幾つか取っている事を思い出した。

 私を評価してくれた審査員には「目の付け所が良い」と褒められたものだ。


「着眼点、感受性、観察力に優れる、と言い換えても良いかもしれません」

「お褒めいただきありがとうございます」

「しかし見え過ぎるというのも良い事ばかりではないでしょう?」


 マスターは自身の目を指差した。


「誰しも見られたくない物の一つや二つはあるものです。けれど貴方は見えてしまう。悪気は無くとも、人に話す事は無くとも、隠している物が見えてしまう」


 覚えがある、というよりもありすぎる程だ。

 知人の子供がまた別の知人にどこか似ている事。

 友人が立ち上げた会社の年間売上の違和感。

 部下の作り笑顔、上司の空元気。

 どうにも見るべきでは無いものが、確かに私には見えすぎているような気がする。


「案外、見られている側も敏感なもので、無意識に見つめ返してしまうものです。そしてその視線には不安や警戒心、恐怖や少しの敵意が混じる」


 そこまで言われて理解ができた。

 だからこそか。

 だからこそマスターはこう言ったのだ。


「それを『邪視』と呼びます」


 そのままマスターは説明してくれた。

 あまりにも良く見え過ぎる為に、私は人の隠し事すらをも見えてしまう。

 そして私の視線は、相手には無意識に気づかれている。

 だから見つめ返される。

 不安や警戒心、恐怖や少しの敵意が混じった『邪視』に。


 ____


 __見られる、という行為はそれだけで心身ともに、自他ともに僅かな負担が掛かります。


 そう話していたマスターの顔はずっと笑顔だった。

 ただの作り笑顔ではない、本物の笑顔でずっと接してくれていた。


 __『邪視』というくらいです。

 その悪影響は小さくない。

 見られている事には気付かなくても、体と心には確かな傷を付ける。

 だから見すぎてはいけません。


 私は自宅の一室でマスターの話を思い返していた。

 もしかすると壺でも買わされるのか、とその時は思ったが何事もなく精算を済ませ、店を後にした。

 正直な所、胡散臭い話だとは思ったが、ある程度は為になる内容だったのは間違いない。


「見過ぎてはいけない、か」


 その言葉は心の隅に留めておく事にした。


 ソファに深く腰掛け、ゆっくりと目を瞑る。

 このまま寝てしまおうか、そう思った時。

 ふとマスターから手渡された土産の事を思い出した。

 ポケットの中から一枚の紙を取り出し、テーブルの上へと置く。

 そこにはたった一文字、『目』とだけ書かれている。

 マスターはこれを『邪視避け』だと言っていた。


 __目を見つめると見つめ返される。

 そして目が合うと自然と目を逸らしてしまうものです。

 例えそれが文字であっても。

 だからこその邪視避けです。


 店の前にあったのぼり旗も恐らくは邪視避けだったのだろう。

 だとしてもその旗を外に置くのは、かなり宗教じみているが。


 どこかに飾ろうか、と考える。

 戸棚に仕舞うのは何となく気が引けた。

 ぐるりと部屋を見渡して、ふいに本棚の方に目が向いた。

 そこにはちょっとした雑貨と本が飾ってある。

「この辺に置いておくか」


 棚の上段辺りに適当に置く。

 こんなものだろう、さて眠ろうか、と。

 考えた時だ。

 戻そうとした指先が棚に飾ってある陶器製の人形の一つに、僅かに当たってしまった。

 まずい、と手を伸ばすが僅かに及ばず、その人形は床に落ちて砕け散ってしまう。


「ああ、やってしまった……」


 眠気のせいか、手先が狂ってしまったのだろう。

 かなり散らばってしまった、チリトリを取りに行かなければならない。


 しかし私の身体は動かない。

 視線が砕けた破片の一つに釘付けになっていた。

 それは小指程の大きさで、黒く、丸く、が付いていた。


 確かこれは、数日前に同僚から貰ったお土産だ。

 どこのお土産かは聞いていない。

 なぜ私にしか渡さないのかも聞いていない。

 しかしこれは当然、普通のお土産ではない。

 中に『隠しカメラ』が仕込まれていた。

 同僚が仕込んだものなのかは分からない。

 しかし私は、間違いなく誰かにいたのだ。

 生活がよく見える、本棚の上部から、ずっと。


 私は声も出ない程に恐怖しながら、棚にある『邪視避け』へと再び目を向けた。


 __邪悪な視線を避ける、そういうお守りです。


 どこか現実離れした状況に呆然とする私の脳内では、マスターのその言葉が、ただ何回も何回も繰り返し再生され続けるのだった。

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