1-19.長いトンネルを抜けると

 長姉カリーナと共にお茶を飲んでいたフィリーネは、カリーナが席を立ったのを見届けてから、自分の部屋に戻った。まだ体調が戻らないので起こさないように、よほどの非常事態でもないかぎり夕方までは独りにしておいて、と侍女に告げて。


 フィリーネの体調があまり良くないのは事実で、朝方は下痢気味で渋面を作っていた。どんな夢を見たものやら覚えていないが、布団をはいだ上にパジャマの前を完全に開いて、腹を丸出しの状態だったから、腹を壊すのも当然。どう考えても、誰かの作為によるものではなく、自業自得ではある。そういう事情で、カリーナとお茶を飲んだとはいっても、食べ物も飲み物も全く口を付けない。正確には、食べ物や飲み物に軽くキスしただけで、文字通り口を“付けた”だけだった。


 そんなフィリーネは、腹の調子がやっと治まったところで、行動を開始する。それは、カリーナからの助言に基づくものだ。


 例によって、ユリウス絡みであれやこれや言っていたが、カリーナがフィリーネの耳元に口を寄せて。


――今晩、何かが起きるわ。逃げなさい。一刻も早く。


(何か、ね。兄上たちが、何かをやらかすか。あるいは、兄上たちとつながっている貴族とかが、攻め上がってくるか。どちらにしても、このままここに居たら、間違いなく拘束されるね)


 フィリーネは、決して頭の回転が鈍い娘ではない。ただ、姉のカリーナ、あるいは第三王子のマテアスたちとは、四歳違い。十代でのこの年齢差は大きい。上のきょうだいたちはすでに成人しており、このため公務を分担して行っているが、未成年のフィリーネはまだ携わっていない。このため、王宮内のごく限られた範囲しか移動したことがない。いや、理由を付けて申請すれば、外に出ることも可能だろうが、例の迷子事件以来、王宮の中で事実上の軟禁状態に置かれている。文字通りの、籠の鳥だ。


 このため、外に出ていかに行動するか、そのイメージを浮かべることが、全くできない。もちろん、彼女とて直系の王女、非常用の脱出方法などは知っている。しかし、その方法を行使することはできても、その先でどうするかがわからない。すなわち、無手で戦場に出るに等しいといえる。


 それに加えて、カリーナやマテアスと異なり、武術や魔術の才が全くない。これは、成長や年齢というものではなく、生来の能力によるものであり、努力によってある程度の底上げができたとしても、あまり期待できないレベルだ。このため彼女は、この分野での鍛錬を早々に諦め、基礎体力の向上と維持だけに絞っており、それは妥当な選択ではあったが、それはとりもなおさず、自分の身を自分で守ることができないことを意味していた。


 当然のことながら、身を守るために手助けをしてくれる人が必要になるが、自分の周りには、数人の侍女がいるのみ。生活能力はともかく、護衛としての能力については、何もわからない。平常時では忠実でも、異常時にもその姿勢を守るとは限らない。また、平常時の行動だけでは、少なくとも裏切らないという一点において信用に足るか否かは、なかなか判別できない。


(姉上からは、いざという時に頼れる者を見つけておいて何かったら頼りなさい、と言われた。マテアス兄上からは、いざという時に敵に回る者を見極めて何かあったらそいつらに近寄るな、と言われた。わかってはいたつもりだけど、こういう時には、なかなか)


 注意深くも人を信用するカリーナと、人を信用できないマテアスの違いはあっても、処世訓としてはどちらも正しく、また両立しうるものだ。しかし、十三歳の引きこもり少女に、そんなスキルを求めるのは、どだい無理な話である。


 それでも。


(動かなければ、死ぬ確率はそこそこ、楽観的に見ても幽閉の生涯。動けば、死ぬ確率は高いけど、逃げおおせて生き延びられる可能性も高い。それなら、動くしかない)


 彼女が知っている脱出経路は三つあるが、そのうち一つは、王族なら誰でも知っているものだ。もし兄たちが行動を起こしているなら、すでにそちらは封鎖されているか、待ち構えられているか、いずれにせよ逃げられないように対策が取られていると思っておくべきだろう。


 残る二つは、王宮内にある役所の倉庫へ通じるルートと、王宮外の繁華街近くへ通じるルートだが、前者は誰に会うかもわからないので、必然的に王宮外が目的地になる。それに、まだ幼かったとはいえ、繁華街なら、一回だけでも行ったことがあるので、その点で安心感がある。


 とにかく、時間が惜しい。急いで隠し扉の中に入り、すぐに鍵を掛ける。非常用物資を詰め込んでいたバッグを担ぎ上げ、階段を下りた先、正面の壁に向かって手をかざす。


「我、王の子なり。精霊よ、王室を守り給え、王国を安んじ給え。エクマレネネサゴヴィキッテレーシグナン」


 最後に唱えたキーワードと、あらかじめ登録してあるフィリーネの魔紋の二つを感知した壁が、すっと消える。生体認証とパスワード認証を組み合わせた通路で、これは、一度設定すると、対象者以外の何人たりとも解除できない仕組みだ。


 この先には地下通路が設けられており、特に分岐点などはないので、中に入れば、簡単に進んでいけるはずと思っていた。


 のだが。


「真っ暗だし、床は湿っぽくて滑りやすいし、空気はほこりっぽいし……あまり速くは進めそうにないのね」


 当てが外れたとばかりに、フィリーネはため息をつく。それでも、ここはひとまず安全地帯ではある。


 万一の場合の脱出用にと、靴を履き替え、カリーナからもらったお下がりの庶民用の服を着てみるが。


「きつい……」


 姿見用の鏡などあるはずもないから、どのように見えるかはわからない。そうではなく、体型的に無理があるようだ。胸とか。


 この服をもらったのはかれこれ一年以上前の話、体はその間成長しているから、きつい部分が出てきても仕方ないとはいえる。もっとも、この服はカリーナがそれまでに着ていた服であり、つまり、実質三歳分の年齢差を轢いてもフィリーネの方が大きいということになる。胸とか。


 非常用物資のチェックをしていなかった自分のせいではあるが、だからといって、着られなくなりましたから新しい服をください、というわけにもいかないだろう。それでなくても、姉のカリーナは体のあちこちがあまり育っていないことを気にしている節があるし。胸とか。


「……うん、まあ、姉上にはこの点は黙っておくとして」


 窮屈な思いをしながらも、ゆっくりと歩き出す。


 照明などという気の利いたものはないし、バッグに入っているロウソクは温存したいから、壁に手を当ててそろそろと進む。


 足元は、石畳敷きのはずなのに、ぬるぬるしている。地下水が染み出ているだけでなく、ところどころにコケみたいなものが生えているようだ。こんな暗闇の中でも植物って生えるのかしら、いえそもそもこれって植物なのかな、などという、どうでもいいことを考える。そんなことでも考えないと、やっていけない。ある程度の緊張感は必要だが、退屈だし、しかし先のことを考えれば少しでも進みたいし。何より、ここから一刻も早く出たい。


 何度かの休みを挟みつつ、すでに時間の感覚も完全に失われたまま進んで行くと、通路がうねうねとしたS字状のカーブを描くようになり、そして、突き当たりになった。


「やっと、出口なのね。さて、この先が、どうなっているのか」


 入ったときと同じように、パスワードを唱えながら手をかざすと、グリグリと音を立てて、石壁が横にスライドする。


 漏れ出てきた光に吐いた安堵の息は、すぐに飲み込まれることになった。


 なぜなら、その目の前には、第三王子フェリクス・デットマー・フォン・ヴィルツェンが、武装した屈強な男たちと共に立っていたから。


「……あん? どうして、ここに……ふん、隠し通路、か」


「あ、ああ……」


 蛇に睨まれた蛙。フィリーネは、金縛りにあったように動けなくなる。


 それと対照的に、一瞬だけ驚いた顔を見せたフェリクスは、すぐに冷たい表情に転じて。


「なるほどな。王宮から逃げてきたわけか。……務めを放棄して。……陛下の命を受けて、不届き者を鎮圧するべく動いている、俺とは違って」


 真っ赤な嘘である。彼の行動はもちろん独断によるもので、国王の裁可など経ているはずがない。しかし、その是非を問う者など、この場には誰も居るはずがない。まして、その白黒が明らかにされたところで、それはこの場に居るフェリクス第三王子には、何の影響も及ぼさない。


「ふむ。ここへ唐突に現れた者は、本来ならば王族にしか使用できない通路をたどり、王宮から脱出してきた。それも、このような不穏な情勢下で。……こういった不届き者に対して安易な情けを掛けることは、陛下の意にそぐうものではない。この者の身柄を拘束した上で、いかようにでも扱え。ただし、日が完全に出るまでには、確実に処分せよ。以上」


 目の前の少女がフィリーネであることを百も承知の上で、その名を一切出すことなく、部下たちに“扱い”と“処分”を任せる。


 しばらくの間、少女の悲鳴が断続的に聞こえるものの、それを意識することもない。ただ、無視してもそれほど影響がないだろう障壁が、わざわざ壊されるために手元にきてくれた、というだけのことだった。


 そして、それまでバラバラだった配下が、“王家の敵”を懲らしめたという一点で、団結したというだけでも、フェリクスには、十分に満足のいくものだった。自分たちが虐げている相手が、実際に王家の敵であるかどうかなど関係なく、ただただ、堂々と断罪できる対象であり、他にも同様の者がいる、という目標を設定できたという点で。


 少女の悲鳴はすすり泣きになり、そして弱々しい息づかいへと変わっていったが、それに同情する者は、この場には誰もいなかった。そして、その息も、ほどなくして、完全に聞こえなくなった。

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カリーナに近い有力王族の二番目もあっさり退場です。

次回は、2022年2月4日(月)更新の予定です。

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みそっかす☆かるてっと! ~失せ物探しの旅に出た半端者四人組は邪悪な意思の影を踏む~ 前浜いずみ @MaehamaIzumi

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