エンゼルトランペットには毒がある

スズタリョウ

第1話

 その花の美しい名前と怖ろしい性質を知ったのは四つだったか五つだったか、いずれにせよたしか小学校に上がるより少し前だった。車を使った外出では大抵いつも通る国道沿い、大輪の花が乱れ咲いているのを気に留めて、母に尋ねたときだった。


「あれなに?」

「ああ、あれはね、エンゼルトランペット」

「エンゼルトランペット?」

「そう、ラッパみたいでしょ」

「おっきいね」

「そうね」

「きれいだね」

「そうね」


 でも毒があるのよ。母がそう教えてくれたのだった。どく、というものをまだよく解していなかったわたしは、信号待ちの車の中でその垂れ下がった柔らかそうな花弁を見つめ、あの花びらを食べたら死んでしまうのかな、それとも蜜を吸ったら死んでしまうのかな、葉に触れただけで死んでしまったらどうしよう、なんてことを思ったのだった。


 以来、あの花に出会うたび思い出す。エンゼルトランペットには毒がある。



 仕事帰り、慣れた帰路を歩くわたしの頭には取り留めのないことばかりが浮かんでは消えていた。仕事でらしくもないミスをしたこと、もう二十一時を回っていること、月が綺麗なこと、夕飯のこと、家でわたしの帰りを待っているはずの彼のこと。


 大学時代から付き合って八年目になる彼は、付き合い始めて五年、わたしがそろそろ結婚を意識し出した二十六歳の夏、それまで勤めていた保険会社を突然辞めた。次の職を真面目に探していたのも最初の一年ほどで、とりあえずのつなぎと言って始めた派遣のバイトは、そのまま彼の主な労働になった。

 それでもわたしは彼との関係を続けているし、帰る場所は変わらず二人暮らしのアパートだし、ただ毎月の家賃だとか水道光熱費だとか食費だとか、そういった生活の諸々が一人暮らしの頃よりもなんだか憂鬱に感じられるのだった。


 もう夜の眠りに入ろうとしている商店街の端では、小さな花屋の店主がシャッターを下ろそうとしていた。なんとなくその店先に視線を遣ったわたしは目を見張った。あの花だ。鉢植えの株は小さく花もようやく二つ咲いているだけだが、間違いない。


「あの」


 わたしは吸い寄せられるように花屋に近づくと、店主に声をかけていた。


「おう、お疲れさん」

「あの、これ」

「ああこれ、気になった?」

「はい、あの、これって鉢植えでも育つんですか」

「まあね、でもやっぱりしっかり咲かすんなら地植えしてやったほうがいいけどな」

「でも一応、とりあえず鉢のままでも、たとえばベランダでも、置いておけますか」

「うん、そんなに難しい花じゃないよ」

「じゃあこれ、あの、いただきたいです」

「あいよ、まいどあり」


 代金を払い、持ち帰りやすいよう袋に入れてもらう間、わたしはその花を見つめ続けていた。いつも見かけるのはどこかの家の庭からブロック塀の外にはみ出しているような、花も葉もふんだんにぶら下げているようなものばかりで、まさかこんな鉢植えで、しかも花屋で売られているなんて思ってもみなかった。


「はい、おまちどう」

「ありがとうございます」

「そうだこれ、ちょっと気をつけにゃならんのは知ってるかい」

「はい」


 知っている。エンゼルトランペットには毒がある。


 少し早くなった足取りで商店街を抜ける間ずっと、わたしは頭の中で何度もそのことを繰り返していた。

 アパートのドアの前で呼吸を整え、いつものように鍵を開けた。


「ただいま」

「おかえり」


 すぐに返ってきた聞き慣れた声にいくらかほっとする。

 ソファーに寝転びテレビを見ていた彼は、わたしが手にした鉢植えに目を留めた。


「それなに?」

「ああ、これはね、エンゼルトランペット」

「ふーん」


 またすぐにテレビへと視線を戻した彼の後ろを通り過ぎ、ベランダのガラス戸に手を掛ける。


「ベランダに置くの?」

「そう、きれいでしょ、これ」


 天使のラッパ。

 そう呟いて、わたしは微かに目を細めた。

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エンゼルトランペットには毒がある スズタリョウ @suzutaryo

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