雨天書架

古博かん

雨天書架

 埼玉県某所、駅から徒歩十分少々のところに現れる蒼然とした書房には、雨の日にだけ忽然と現れる不思議な書架がある。


 本日は晴天なり。


 ふわりと浮かんだ文字列はそう告げ、書架は燦然さんぜんと光り輝いて来訪者の前に堂々たる姿を現した。来訪者は片手に古びたこうもり傘を携えて、呆然と天までそびえるその書架を見上げている。


 さあ、どうぞ。


 ふわり、ふわりと浮かんでは消える文字列は言葉もなく立ちすくんでいる来訪者に向けてそう告げた。整然と並べられた書籍の背面をなぞるように、すすすと一条の矢印が降り注いだ先で、一冊の本がほんわりと光る。


 お早く、お早く。


 来訪者が光る背表紙に触れると、たんたんたんと滑車が回る音がして、人ひとり分の隙間が開いた。わけも分からず急かされて、来訪者は隙間の向こうへ吸い込まれていった。青天井の書架は続々と開きながら細い一本道を作っていく。そそり立つ本の群れに挟まれるように長い長い通路を抜けると、突然視界が開けて海に出た。


(おかしいな。埼玉に海はないのに)


 ざざん、ざざんと打ち寄せる穏やかな白波と、遠くでアーアー鳴いているカモメの群れが連綿と潮風に乗って来訪者の周りをくるり、くるりと旋回する。

 すると片手に握りっぱなしの古びたこうもり傘が憤然とした様子でばさりと翼を広げ、ぶわりと潮風に舞い上がった。こうもり傘はばっさ、ばっさと大きな音を立てて羽ばたきながら、あっという間にカモメの群れを蹴散らした。


 雨雲が接近しています。


 来訪者のスマホが鳴り響く。見渡す限りの晴れた空、雨雲どころか筋雲ひとつ浮かんでいないというのに、スマホは相変わらず雨だ、雨だと喚き続ける。

(マナーモードにするの忘れてた)

 自らの落ち度に気がついて、ぽちりとモードを切り替えようとした矢先、どばーっと滝のような雨水が落ちてきた。あわや濡れ鼠という直前、古びたこうもり傘がばっさと頭上に戻ってきた。


「ああ、助かった」


 つつつと骨組みと縫い目の境目から滴り落ちる雨水が、ぽたんぽたんとスマホ画面を打つ。その度に、スマホ画面は波打って、静かに波紋を広げていく。広がる波紋は次々と波紋を呼び、やがてころり、ころりと鈴を転がすような音を立てた。

 音はそこかしこに響き渡り、何やら楽しそうに風の音を奏で続ける。いつの間にか海は大きな鏡に化けて、来訪者の足元でばりんと砕けた。潮風は青々と匂いを変えた。放射線状に広がったのは森だった。


(やっぱり、埼玉に海は似合わない、似合わない)


 さくさくと下草を踏み分けながら歩くスニーカーから、ぴより、ぴよりと蔦が伸び、ひょろりとした花が咲く。花が咲いたら実がなって、熟れた果実がぱあんと弾けた。


「あいてっ」


 こつりと来訪者の額を打った小さな種には、堂々とした潮騒しおさい文字で「海」と綴られていた。


「海の実に怒られた、怒られた」


 ひっくり返ったこうもり傘に膝裏を救われ、スニーカーが天を仰ぐ。すると今降ったばかりの雨が、ざあっと天に向かって吸い上げられていく。


 雨天です、雨天です。


 世界がひっくり返り、雨は天に向かって降り注ぐ。滝のように流れ落ち、ひっくり返ったこうもり傘ごと来訪者はぐんぐん天に向かって落ちていく。


(どこに行くんだろう)


 両手にスマホと傘の柄を握りながら、ぴしゃん、ぴしゃんと撥ねる水溜りに巨大な鏡が映り込む。海だった鏡が遥か頭上に広がっている。その中に、豆粒よりもまだ小さな自分が微かに映り込んでいる。

 ぶるぶると全身の露を振り払うように傘が柄の先まで震えると、飛び散った水滴がびよん、びよん伸び縮みを繰り返し、程なく目と鼻と口ができた。耳と両手と両足が生えて、くるり、くるりと回り始めた。


「元気か、孫」

「やっぱり、爺ちゃん」


 どこかで見たことある顔だと思えば、二年前に他界した祖父だった。ぴんしゃん動く爺ちゃんが、にっかと歯抜けの笑みを見せる。


「埼玉はいつの間に天国になったの?」

「何をいう、埼玉はいつでも天国じゃろうが」


 しゃっきりと背筋を伸ばした爺ちゃんが、くわっと両目をかっ開いて告げる。釈然としない孫の手元で、ぶぶぶとスマホが振動する。


 ここは雨天、雨天なり。


「爺ちゃん、雨天だって」

「うむ。じゃあ、ここは雨天国じゃ」


 両腕を組んでうんうんと頷く爺ちゃんはそれで満足したようだ。満足した爺ちゃんを見て孫もまた満足することにした。


「爺ちゃん、元気でね」

「おう、孫も達者でな」


 ごごごと空が鳴り、空気が揺れると孫の足元がぐらぐら傾いで斜めにズレた。長い長いスロープを滑っていると途中でくるりと一回転する。ひゅっと息を呑んで目を瞑るっている間も、スロープは何度か空中回転を繰り返した。

 きゅきゅきゅと靴底が音を立て、来訪者はころり、ころりと前転しながら滑り落ちた。

 来訪者の世界はぐらん、ぐらん回っている。


「おえー……」


 よたよたしながらもたれかかった書架の間に挟まって、しばらくじっとしていると、ぽわんぽわんと柔らかな金属音がする。耳元で鳴っているかと思えば、遥か遠くでこだます音が寄ったり離れたりする。


 さあ、お早く、お早く。


 背後で摩天楼の如し書架が後退りを始め、来訪者は背中からころりん、ころりん転がってお尻が当たるたびに、ほわわんと光る通路を進む。


 思い出を拝借。


 制帽のつばをちょいと持ち上げた駅長さんが礼儀正しく白手袋に包まれた手を差し出した。来訪者がスマホ画面を差し出せば、駅長さんはちょっきんと改札鋏かいさつばさみで画面を挟む。小さな穴を開けられて、憮然としながら顔を上げると目の前にはモノクロームなフィルムが、とととと、とととと、と音を立てながら伸びていく。

 幼少期から始まって今この瞬間まで、脈々と続く思い出が蒸気を上げて走り出す。慌てて来訪者が追い掛ける背後で、制帽を整えた駅長さんがピンと背筋を伸ばして指差し確認を続けていた。

 ポーッと甲高い汽笛の音を響かせる思い出とともに古びたこうもり傘が漫然とついて行く。来訪者は息せき切って追いかけるのだが、フィルムは付かず離れず飛んでいく。


 次はー、黒歴史ー、黒歴史ー。


 鼻にかかった抑揚でアナウンスされた予告に、来訪者は両目をひん剥いて悲鳴を上げた。


「それは、やめてー。まじで、やめてー!」


 ぎゃーぎゃー騒ぎながらフィルムを追いかける。最後尾がぴろぴろ風にたなびいて掴めそうで掴めない。その間もフィルムから溢れ出てくる、初めてのおねしょ、盛大に振られた初恋、宇宙規模で厨二をこじらせた思春期、第一希望に滑った受験、落ちこぼれまくった就職活動等々が風になびく。

 今までに出したことのない人生の猛ダッシュで追いかける黒歴史の端っこをようやく捕まえた時、失敗ばかりで謝り倒す社会人生活と尻に叱れる結婚生活が飛び出していった。


「ああ——……」


 握ったフィルムには何も写っていない。がっくりと肩を落としてから顔を上げた来訪者の目の前には、またも延々と続く書架の道が開けていた。


 ご来場ありがとうございました——!


 背中越しの間延びしたアナウンスには純然たるビジネス臭がする。来訪者は漠然とした羞恥を覚えて耳まで赤く染めながら、そそくさとその場を離れていく。


「一体全体、何だってこんなこと……」


 ギャラリースペースを抜けながら握りしめたスマホに視線を落とすと、相変わらず画面には改札鋏で開けられた穴がぽっかりと残っている。


「……」


 これ、修理保証に該当するかな……という自分でも至極残念な気持ちになる現実的な思考と今し方経験した判然としない出来事が内混ぜになって来訪者の口から小さな悪態となって飛び出した。

 慌てて口を閉じて手のひらで抑えるが、飛び出していった悪態は、にょろりとした尻尾だけを右へ左へ煽りながら、ひゅっと書架の隙間に潜り込むとそのまま溶けて消えていった。

 刹那、ざわざわとした人の気配と空気が揺れる音がする。周囲を見回せば、楽しそうな来訪者の姿がそこかしこに散らばっている。


(夢を、見たのかな——?)


 軽く目を擦りながら小首を傾げながら、来訪者は片手に古びたこうもり傘と穴の開いたスマホを持って書房を後にする。雨上がりの晴れ渡った空には視界の端から端を繋ぐように大きな虹が浮かんでいた。


「おや、書籍が一冊増えてますね」

「本当だ。今日もまた雨天書架が開いたようですね」


 首からIDカードを下げたスタッフが、少々くたびれた見慣れない装丁の書籍を手に取って、ぱらぱらと慣れた様子で斜め読みを始める。


「これは、これは……」

「貴重な寄贈書だ。もっと丁寧に扱いなさい」


 そうですね、と肩をすくめたスタッフは、増えた書籍を一旦バックヤードに持ち込んで、蔵書登録を済ませたのち改めて寄贈書コーナーへ並べるべく、スタッフオンリーの扉の向こうへ姿を消した。


 またのご来場を心よりお待ちしております。


 ふんわりと浮かんでは消える光の文字が万全の体制で次の来訪者を待っている。

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