神様のメモ帳 ハッピー・ハロウィン

@hikarus225

ハッピー・ハロウィン

 彩夏が探偵事務所にやってきたとき、ちょうど僕とアリスは泣きじゃくる赤ん坊を挟んで大わらわだった。


「ナルミっ、早く! バスタオル! わ、漏れてきた! うううう袖にまで染みて、こら、ぼくのぬいぐるみまで汚したら承知しないぞっ」


「持ち上げて、下拭くから! パソコンがやばい!」


「ぼくの腕力を考えてものを言いたまえよっ一歳児なんて岩と同じだよ!」


「じゃあ僕が――あっキーボード落ちる! おしっこ溜まりに! やばい!」


「こんにちはぁ。わ、なんだか楽しそうだね」


 秋色のカーディガンに白のロングパンツという見事にキャリアウーマンな感じのコーデの彩夏はのんびり言いながら手土産のケーキの箱をオフィス入り口の台に置いた。


「遊んでるんじゃないぞっ?」


「ははあ。晶菜ちゃんがまたアリスのデスクによじ登ってきゃっきゃしてる最中におしっこしちゃったのか」


「そこまで冷静に状況がわかってるなら手伝ってくれたまえよ! あとそのあたりは汚れているから踏まないように!」


 デスクの足下には透明な水溜まりができている。乳児のものだからあまりにおわない、なんて事実はなんの慰めにもならなかった。


 カーディガンを脱いで腕まくりして近づいてきた彩夏は、アリスの手から赤ん坊をさっと抱え上げた。手早く尻を拭いてすぐにおむつを穿かせると、ぴたりと泣き止む。


「アリスはおむつのつけ方がいつも甘いの、だから横漏れしちゃう」


「うう……そんなことを言われても、おむつ交換のあいだ晶菜がずっと蹴ってくるのだよ」


「そこは藤島くんが反対側から面白い顔したり歌ったり気を惹かないと」


「いや、僕もずっとこっちの部屋にいられるわけじゃないから……原稿あるし……」


「二人とも親の自覚が足りないよ?」


「ぼくの子供じゃないぞッ?」「僕の子供じゃないからねッ?」


 アリスと僕の絶叫が重なる。




 ヒロさんが引き取りにきてくれたのはそれから一時間後、夕方の六時だった。


「ほんと助かった、ありがとう。晶菜、元気にしてた?」


 僕は黙ってうなずき、自分の胸元を目で示した。晶菜ちゃんはおくるみの中で難しそうな顔をしながら眠っていた。


「ついさっき眠ったばかりで」と僕は小声で言う。

「このまま『はなまる』まで運びますよ」


 ヒロさんに渡したらその弾みに起きてしまうかもしれない。寝かしつけたばかりの乳児の安らかな睡眠というのはこの世のなによりも脆くて貴重なものなのだ。僕も自分に子供がいるわけではないけれど、ミンさんとヒロさんの子育てを間近で見て、時には手伝わされて、痛感していた。


「ほんとなにからなにまでごめん」とヒロさんは頭を下げる。

「ナルミくんも仕事で忙しいだろうに」


「いや、ちょうど原稿詰まってたとこなので。気分転換になりました」


 嘘ではなかった。午後になってから一行も進まず、アリスのオフィスに預けられている晶菜ちゃんの様子をちょくちょく見にいって締め切りから逃避していたのだ。


「なんか区役所がおれを働いてる夫だと認めてないふしがあって、保育園ぜんぜん見つからなくてさ……来年度はなんとか……」


 働かずに女の庇護欲を刺激するのが自分の仕事だなんていうクズ発言を堂々としていたあのヒロさんが、こんな問題に頭を悩ませるようになるなんてねえ。僕は感慨を噛みしめる。


 ニートだったのは、もう十年以上も前のことなのだ。

 遠い昔のようでもあり、つい昨日のことのようでもあり。


 オフィスを出ようとしたところで、二階のアリスの部屋から彩夏が螺旋階段を走って降りてきた。


「ヒロさんお帰り! あたしも『はなまる』行く。今日は葡萄アイスの日だよね」


 十月の終わりの日は短く、もう街はすっかり暗かった。ビルに囲まれた狭い空にはかすかな夕映えの残りが西から染みているばかりだ。秋物のコートでも肌寒さを遮れなくなっていて、抱いた晶菜ちゃんの小さな体温がありがたかった。


「アリス、ちゃんとヘアケアとスキンケアしてた?」とヒロさんは昔ながらの心配をする。


「ぜーんぜん! でもお肌ぷにっぷにだよね。晶菜ちゃんのと手触り変わらないもん。こちとら三十路に入ってもう角曲がりまくりなのに、あれはずるいよ」


「たしかに彩夏今日はちょっとお肌の調子悪そう。徹夜してた?」


「うわヒロさん鋭い。もうその鋭さ要らないでしょ。今朝が納品だった! もう今回のプロジェクトはみんなして死ぬかと思った。しばらく休暇。アリスといっぱい遊ぶんだ」


「少佐も年相応に徹夜がきつくなってんのかな」


「うちの社長は今でも全然平気! あの人、アリスと同じ種族の妖怪じゃないかって最近ちょっと疑ってるんだけど。年取らなすぎじゃない?」


 そんなことはないよ、と二人の三歩ほど後をついて歩きながら僕は声に出さずに答える。


 みんな年を取ったよ。変わらないものなんてなにひとつない。ヒロさんは真面目なラーメン屋に、そして二児の父に。少佐はゲーム会社の経営者に。彩夏はそこの広報担当に。こんな未来を、あの頃のニートとニート予備軍だった僕らは想像できただろうか?


 ヒロさんが歩く速度をゆるめて僕の隣に並び、娘の寝顔をのぞき込んでくる。


「よく寝てるなあ。晶菜、なんでかアリスのオフィスが気に入ってるみたいなんだよね。あそこに預けた日はずっとご機嫌なんだ」


「広くて好き放題這い回れて、あとぬいぐるみがいっぱいあるからですかね?」


「あー、あの広さはいいよな」


 ヒロさんは背後を振り返った。


 宵闇を背に立ち並ぶオフィスビルの中でも、ひときわ目を惹く一棟だ。施工主であるアリスの意向により、壁面にでかでかとアルファベットが書かれているからだ。五階から二階まで、一文字ずつ。


 あの頃の僕らを彩り、定義し、支え、つなぎとめ、縛り付けていた四文字は、今はビルの名前にだけ残されている。


 一階は探偵事務所、二階はまるごとアリスの居住スペース、三階の一室を僕が間借りしていて、あとは倉庫。四階五階は馬鹿馬鹿しいことにぬいぐるみ専用。手当たり次第に買いまくっているため、竣工当初は無限の広さに思えた二フロア分の空間も徐々に埋まりつつある。


「二人暮らしであんな広さ、さすがに無駄だろ。子供つくらないの?」


「そもそもべつに結婚もしてませんけどっ?」


 僕の必死の返しにヒロさんはけらけら笑った。もう鉄板になっているいじりネタなのでセクハラだと責める気にもなれない。


 角を曲がると、暗い街路のどん詰まりに灯りが見えてくる。まだ宵の口だというのにのれんの内側も外側もすでに客でいっぱいだ。『ラーメンはなまる』は、一度大規模な改修工事をしたけれど、昔とほとんど変わっていない。やっぱりあの場所が僕らの根っこなわけで、移転しないで改修でがんばるよとミンさんに聞かされたときは安堵したものだ。


 アリスも、離れがたかったんだろう。こんな近場に新しい事務所を構えたんだし。


「ヒロお帰り! ナルミも来たの? 今日はほんとにありがとう、助かったよ。おごるから夕食たべてけ」


 ミンさんはあいかわらずのタンクトップに黒い腰エプロンで厨房に立って酔っ払い客をあしらいながら中華鍋を振っていた。ひとつ変わった点があるとすれば、さらしを巻かなくなったというところか。なぜって、まあ、その――


 僕の胸元でぬくもりがもぞもぞと動いた。母親の声を聞いたからか、晶菜ちゃんが目を醒ましたのだ。ふ、ふゃあ、と頼りない寝起きの泣き声を漏らす。


「あっ、ヒロ、ちょっと代わって! おっぱいやってくる!」


 僕の手から晶菜ちゃんを受け取り、店の裏の自宅に駆け込むミンさん。泣き声がすぐにやむので僕は安心して、勝手口裏のビールケースの席に腰を下ろした。


「ミンさんが忙しくしてるとつい自分もバイトやらなきゃって気分になっちゃうなあ」


 笑いながら彩夏が隣に座る。


「身体が憶えてるんだろうね。他のラーメン屋でもさ、お客が入ってくるとつい『いらっしゃいませ』って言いそうになったりさ」


「彩夏ならいつでも大歓迎で雇うよ」と厨房からヒロさんが言う。

「でも少佐に怒られちゃうかな」


 こうやって女の子を(色っぽい意味ではないにしろ)誘うとき、ヒロさんは一瞬だけ昔の女殺しの表情を見せる。身体が憶えている――のかもしれない。




 僕と彩夏がラーメンを食べ終えてアイスにありついた頃、勝手口前に大きな人影が差した。テツ先輩だった。


 硬い短髪をオールバックになでつけ、ダークスーツを着ていた。


 スーツ! この世に、一宮哲雄ほどスーツが似合わない男もおるまい。腕も足も胸も肩も違和感だらけで、ちょっと力んだだけで筋肉で縫い目がはじけ飛びそうに思える。自分でもわかっているのか、僕の姿を見かけたとたん、「なんだナルミもいるのかよ。あんま見られたくないかっこ見られちまったな」とつぶやいて上着を脱ぎ、ネクタイもいっしょくたにして丸めてそのへんに放り投げた。


「先輩どうしたんですかスーツなんて」


「組の上の方のやつらと飲んでたんだよ。あーほんとクソ不味い酒だった。飲み直しだ」


 この人の仕事は話のネタの宝庫だと思うのだけれど、あまりにも危なすぎて詳しく聞く勇気が出せないでいる。本人は『殴られ屋』を自称していて、裏社会と表社会の継ぎ目あたりで起きる揉め事の処理に奔走している。俺はやくざじゃない、やくざは敵、滅びろ、といつも言っているが、知らない人から見たらテツ先輩も完全にやくざだろう。


「三十過ぎてからなんか酒が即日で抜けないようになってさ」


 そんなことを言いながらも焼酎をかぱかぱ飲む、いつものテツ先輩だった。


「どんだけイキってても身体は正直に劣化してくのな。ナルミも気をつけろよ、明日で三十だろ。昔の調子で飲み食いしてると――」


「明日? ……ああ……そういえば」


「もう、先輩、言っちゃだめだってば! 藤島くんどうせ忘れてるからサプライズしてやろうと思ってたのに!」


 隣で彩夏が頬をふくらませる。


 今日は十月三十日か。

 明日、ハロウィンで――僕の三十歳の誕生日か。なんか毎年忘れるんだよな。ほとんど外界と接触のない仕事をしているせいかもしれないけれど。


 気づけば三十歳。


 人間って、一年に一歳ずつきっちり年老いていくものじゃないんだろうな。ふと立ち止まって振り返って、歩んできた月日を数えて、変わってしまった部分を自覚したとき、それまで積み重ねた分だけ一気に老いるのだ。


「自分の誕生日も忘れるくらい忙しいのか。けっこうなことじゃんか。しめきり厳しいの? カンヅメしてたとか?」


 テツ先輩は餃子を飲み物のように平らげながら訊いてくる。


「カンヅメなんてそんなご身分じゃないですよ。しめきりは、まあ、いっつもひいひい言ってますけど」


 小説家になってから――まだ十年はたっていないか。八年くらい? 我ながら、よく続けてきたものだと思う。


「ナルミが俺らの仲間内でいちばん予想通りの仕事に就いたよな」


 テツ先輩がふとそんなことを言うので僕はびっくりする。


「……そ、そうですか? 小説家になってるぞ、なんて十七歳の僕に言ったら絶対に信じないと思いますけど」


「いや、小説家かどうかはわからんかったけどさ。なんていうか、まともな職じゃないっていうか、よく言えばクリエイティブ、悪く言えばやくざ。かたぎからいちばん遠いだろ」


 実質やくざのテツ先輩には金輪際言われたくなかったが、言わんとしていることはなんとなくわかった。


 労働、という感覚がない。遊んでいる。難易度の高い遊び方をするとお金がもらえる。そういう意識だ。そもそも働きたくないから小説家になったのだ。働いたら負け、の文言をいちばん濃いインクで書き込んであるのは僕のページだったのかもしれない。


「クリエイティブで遊んで暮らしてるっていうなら向井さんもそうじゃないの?」


 彩夏がそう口を挟んでくる。そういやゲームクリエイターだもんな。でもテツ先輩は首を振った。


「少佐は人を雇ってるし、よそからの仕事を受注してんじゃん。もうその時点で純真なニート魂のかけらも残ってねえわけよ」


「ニート業界むずかしいね」


「そうそう。だからけっきょくナルミしか残れなかったんだ」


 え、ちょっと、僕だけ取り残してみんなでまともになったみたいな言い方やめてくれる?


 そこに背後から声がかけられた。


「なるみ! 来てたの! スプラトゥーンやろ」


 振り向くと、すらりとした輪郭の小さな人影が立っている。目もくらむほどに可憐な顔立ちの少年だ。透流、という名前までもがきらきらしいこの子はミンさんとヒロさんの間の第一子だ。今年たしか小学生になったんだったか。


「あと、なるみがこないだくれた本ぜんぜん面白くなかった。なるみが書いたの?」


「……うん、まあ、少年向けっていっても中高生からかな……」


 天使、という月並みな表現しか思い浮かばない美少年だけれど、口を開けばこうして無遠慮でがさつな言葉がざくざく出てくる。ちょっと安心してしまう。これで物言いに気遣いがあふれていたりしたら将来的に父親をはるかに越えるジゴロに育ってしまうだろう。このまま普通の子供らしくまっすぐ真人間に成長してほしい。




 アリスも八時くらいになって姿を現した。


「なんだ、テツもいたのかい? 酒臭くてかなわないね。マスター! ぼくは中で食べさせてもらうよ、代わりに晶菜の相手をするからいいだろう?」


 厨房のミンさんにそう言って、返事も待たずに厨房奥の住居部分に勝手にあがりこんでいくアリス。彩夏もアイスの皿と酒瓶を持ってついていく。


「アイスだけ食べるよ、ラーメンは要らない。あとドクターペッパー」


「うちはラーメン屋だ!」


 おなじみのやりとりが勝手口の向こうから聞こえ、僕とテツ先輩は顔を見合わせて苦笑した。


 そういえば、と僕は考える。僕が三十歳になるってことはアリスは二十七か二十八なのだ。はじめて逢った頃のミンさんとだいたい同じくらいだ。

 ありえない。今でもせいぜいハイティーンだ。ほんと、人間とは違う種族かもしれないな。同じ惑星で逢えた奇蹟……。



       *



 翌日の朝、探偵事務所に珍客があった。


 僕は自室でPCの画面に向かっていても一行も進まず、本を読んだりゲームをしたりネットを巡回したりしてしまうので、一階の応接スペースでソファに寝転がって天井をにらんでいた。いくつもの事件の依頼が持ち込まれてきた場所なので、トリックやネタを思いつけるような気がするのだ。気がするだけだが。


 来客を告げるチャイムが鳴った。


「トリック・オア・トリートです!」


 そう言いながらエントランスに入ってきたのは、空色のコートを着た幼い少女だった。まだ小学校を卒業したばかりくらいだろうか、真っ白なホットパンツから伸びる黒タイツの脚が不安になるほどほっそりしている。そのままディズニー映画の世界に飛び込んでも主役として大活躍できそうな、どこか現実離れした可憐さの持ち主だった。


「こちら、ニート探偵事務所ですよね。トリック・オア・トリートです!」


 少女は繰り返した。僕は思わず事務所の中を見回してしまう。

 商店街かどこかでそういうイベントやってるのかな? 子供が練り歩いてそれぞれの店でお菓子をもらう、とかそんな感じの。


「……いや、あの、ごめん、うちはそういうイベントには参加してなくて」


「イベントではありません。自主的なトリック・オア・トリートです」


「はあ」


「藤島鳴海先生ですよね?」


 僕はぎょっとした。僕のこと知ってるの?


「……そうですけど」


「それではわたしのお兄ちゃんですね。お兄ちゃん、お逢いできてうれしいです。著作、いくつか拝読しています。わたしには少し早すぎたようで面白さが理解できませんでしたのでもう少しおとなになってからまた読みます」


「それはどうも、って、あの、いや、ええと?」


 混乱してきた。お兄ちゃん、ってなんだ?


「それではお兄ちゃん、トリック・オア・トリートです!」


 少女は手を差し出してくる。まったく意味がわからなかったし、お菓子なんて用意していない。いたずらしていいよ? 好きにすれば? と返すのもかわいそうだ。


 ふと思いつき、エントランスの棚に並べてあった僕の著作(少しでも宣伝になれば、とアリスに頼んで置かせてもらっているのだ)の一冊を抜き出し、カバー折り返しにサインを入れて渡した。少女は受け取って複雑そうな顔になる。そりゃそうか。もらっても困るか。


「これがお兄ちゃんのトリートですか。んん、55点というところでしょうか」


 なんで採点されなきゃいけないんだ……?


「鈍い人だとは聞いていましたが、その通りですね。でもゆるしてあげます。それでは良いハロウィンとお誕生日をお過ごしください」


 少女はそう言い残して事務所を出ていった。

 なんだありゃあ……?


 階段を下りてくる足音が背後で聞こえた。振り向くと、ガウンを着たアリスだった。


「なんだい、今の娘は」


「いやもうさっぱり」


 今し方のやりとりをアリスに話すと、探偵は小首をかしげ、「なるほどね」とだけつぶやいた。これまたなにやら胸がもやもやする反応だった。


「知っている娘じゃないのかい」


「知らないよ。今日はじめて逢ったよ。……なんか、見憶えがあるような……気はするんだけど、でもあれだけ綺麗な子を忘れるわけないだろうし……」


 と、アリスがつかつか歩み寄ってきて背伸びし、僕の頬をむぎゅうっとつねった。


「いたたたたた」


「まったくきみは! かわいい子と見ればそうやってっ!」


「なっ、なんだよ、綺麗な子だったのはほんとだからしかたないだろ!」


 怒るポイントがわからん。


「あ、ひょっとしてアリスもトリック・オア・トリートだった? これトリックされてるってことなの? でもあげられるものも――ドクペはどうせ通販だし……」


「そんなことだれが言ったんだいっ」




 謎の少女の目撃情報は次々と寄せられた。まずは電柱。


「うちの店にいきなりやってきて。ゲームバーですようちは。子供向けのハロウィンなんてやってねえし。そもそもまだ店開けてねえし」


 今の彼は、四代目の支援を受けて起業し、ビルの一フロアを贅沢に使ったダーツ・ビリヤードなどを楽しめる広いバーを経営しているのである。あの電柱が! 経営者! かなりうまくいっているのだから世の中なにが起きるかわからない。


 昼飯は昔と変わらず『はなまる』で摂ることが多く、その後ついでにうちの事務所にも立ち寄ることが多く、今日は例の少女の話題が出たのだ。


「僕は自作にサインして渡したら55点とか言われたけど」


「兄貴のごチョウチョになんだその低い点数は! ゆるせねえ!」


「蝶々ならもっと点数もらえたかもね……」ご高著ね。


「俺はとりあえずジンジャエール出してやったら60点でした。兄貴より高くてすんません」


 そんなことで謝られてもこっちが困る。


 続いては岩男からの電話。


『なんか組事務所にちっこい女の子が来て。鶏皮と鶏とっていうから昼飯の残りの焼き鳥丼くれてやったら35点とか言われたんスけどなんですかあの女はっ? 藤島鳴海先生の方がまだましだったとか言ってましたけど』


「よく0点つけられずに済んだね……」


 岩男は、四代目の後継者――という感じでもないのだけれど、任侠団体としての平坂組を多忙の四代目にかわってまとめる役どころにおさまっており、今ではなかなかに人望が厚い。でもその人望も子供には通じなかったようだ。


 それからも、四代目傘下のメンズエステだの古着屋だのディスカウントストアだのから次々に連絡がある。空色のコートを着た少女が訪ねてきてトリック・オア・トリートし、辛辣な点数をつけ、すぐに帰っていく。雀荘に至ってはノーレートながら東風戦一回打って大トップをとって店員の腕前を採点して帰っていったという。


 ほんとに何者なんだ。


 夕方、四代目本人がついに事務所にやってきた。


「あっちこっちでハロウィンイベントだから忙しくて足下に気が回せなかったんだが」


 疲労をにじませた表情で応接スペースのソファに身を沈め、四代目はつぶやく。


「変な女がうろついてる話だ。聞いてるか? うちのグループの店にばっかり顔を出しているらしいんだが」


「あ、はい。聞いてます」


 おそらく四代目が朝からずっと忙しくてつかまらないせいで、みんな僕に相談してきたのだろう。平坂組の手伝いをしていたのは遠い昔のことなのだけれど、組員たちからは今でも組の相談役みたいに思われているふしがあるのだ。


 事務所の防犯カメラの映像を四代目に見せる。


「知らねえガキだな。うちのシマだけ回ってるってんならただのいたずらじゃない可能性もあるからほっとけないんだが」


「なんか見憶えある気がするんですけど……」


「見憶え?」


 四代目はモニタに顔を近づけて眉根を寄せた。


「おまえのファンとかじゃないのか。サイン会で逢ってたり」


「こんな小さい女の子向けの小説なんて書いてないですしサイン会なんて一度もやったことないですよ」

 そんな売れてるご身分ではないのだ。


「ふうん……」


 四代目は腕組みしてしばらく考え込み、やがてぼそりと言う。


「言われてみれば俺も――なんか見たことがあるような――でも思い出せねえ。有名人か? 子役とかキッズモデル?」


「そっち方面は僕ぜんぜん知らないので、ちがうんじゃないかと」


 そこでアリスが応接スペースに姿を現した。なぜか出かけるかっこうをしている。


「やあ四代目。忙しかったみたいだね。お膝元のトラブルにこんな時間にまで気づかないなんてきみらしくない」


「稼ぎ時なんだ。それよりアリス、おまえはなにか知ってるのか」


「当たり前だろう。ぼくはニート探偵、オフィスにいながらに全世界を検索する全知無能の存在だよ」


「能書きはいい。ていうかまだやってたのか、それ」


「あの子がだれなのかも知っている。気づかないきみたちにむしろ驚いているよ」


「知ってんのっ?」

 僕は素っ頓狂な声をあげた。


「次にどこに現れるのかもだいたい見当がつくよ。四代目、きみが行ってやらなきゃ片がつかない。面白そうだからぼくもいっしょに行く」


 今やけっこう出歩くようになった我が探偵である。


「……で、どこに行くんだ」


 ため息交じりに四代目が訊ねる。


「そろそろ暗くなってきたからね」とアリスはガラスドアの外に目をやる。

「四代目はたしかホテルもひとつやっていたよね?」




 シティホテルのフロントでマネージャーを相手にトリック・オア・トリートしている空色のコートの背中を見つけた。四代目が大股で近づいていく。


 マネージャーがこちらに気づき、安堵と申し訳なさの半分ずつ混じった表情を浮かべる。

 女の子も気配を察してこちらを向いた。


「お兄ちゃん!」


 彼女は小さくそう声をあげる。


 四代目は足を止めて動かなくなってしまった。


 このとき、たぶん気づいたのだ。防犯カメラの粗い映像ではわからなかったけれど、面と向かったら一瞬で理解したのだ。彼女がだれなのか。


 鈍い僕は、ホテルの入り口に立ち尽くし、四代目の黒いコートの背中と女の子の顔とをばかみたいに何度も見比べていた。アリスがいらだたしげに僕の背中をロビー内に押し込む。


「よかった。四代目はきみほど鈍くはなかったようだ。ここで気づかないようじゃ失望していたところだよ」とアリスはつぶやく。


 女の子は、恥ずかしげに顔を赤らめ、目を伏せてしまう。


 しばらくだれからも言葉がなく、ホテルマネージャーが露骨に弱り果てた顔をしていたので、僕はおそるおそるアリスに耳打ちした。


「えっと。……どういうこと? だれなの、この子」


 アリスは例によってあきれた顔をする。


「だから、きみの妹だよ」


「は? 僕に妹なんて」


「きみの義理の妹。義兄弟だろう、きみたちは」


 僕の鼻先をつっついたその指を、アリスは四代目の背中に向ける。雷に打たれたように僕は思い出し、理解する。どうりで、知らない子なのに見憶えがあるわけだ。


 アリスが四代目を押しのけて女の子に近づいた。


「はじめまして、雛村四代目。ぼくは紫苑寺有子、そこで口を半開きにして間抜けに突っ立っているきみの義兄の雇い主だ。ところで、四代目が本物と偽物で二人もいてまぎらわしいから、名前を教えてくれないかい」




 その夜、四代目の経営するスポーツバーひとつを借り切って開かれたハロウィンパーティは、とんでもない大騒ぎになった。平坂組の構成員が総出で押しかけてきたのだ。


「壮さんに妹さんがいるってマジすか!」


「雛村家が東京と大阪に割れて仁義なき戦いになるとか聞きました!」


「あっちの四代目がおんみずからナシつけにきたってことスか!」


「俺ら壮さんのために鉄砲玉になる覚悟できてます!」


 普段なら四代目が手ずからぶん殴ってアホ組員たちを黙らせるのだけれど、今日はテツ先輩が代わりにデコピンを食らわせる。四代目はいちばん奥のボックス席で、二十歳も下の妹と並んで座って、なにかぼそぼそ喋っている。


 こうして横に並んでいるところを見ると、似ている。冷ややかで、奥に鋭さと熱を秘めた魅力的な危険の香りが、ほんとうによく似ている。


 雛村智佳子、と彼女は名乗った。


 四代目の両親――雛村三代目の玄一郎と、その妻の理佳子が東京にやってきたのは、もう十数年前のことだ。あのとき、理佳子さんは身ごもっていた。


 四代目の妹。


 ぐれて家出して東京に行ってしまった長男にかわって後継者に据える、みたいなことを玄一郎さんは言っていたっけ。あの言葉を真に受けるなら、今こうして兄の隣にちょこんと座ってオレンジジュースを飲んでいるかわいらしい少女が、雛村家の真の四代目ということになる。まあ、玄一郎さんのあれは半分以上冗談だと思うけど。


 と、四代目が僕に目配せしてきた。隣の席のアリスが僕の脇腹を肘でつっつくので、僕は雛村兄妹のいるボックス席に足を向けた。


「家出してきたそうだ」


 あきれかえったため息まじりに四代目は言った。隣で智佳子ちゃんはしゅんとなっている。


「それで、さすがに中学生じゃひとりで泊まれるとこもなくて、俺がいそうな場所をハロウィンのふりしてあっちこっち回ってたんだと」


 それから四代目は妹に向き直る。


「あのな、回りくどいことしてんじゃねえ。俺の経営してるとこ全部調べてあるくらいなら、俺に直接電話よこしゃあよかっただろうが」


 もっともな言い分だったが、相手は中学生の女の子なのだ。

 しかも、生まれてこの方一度も逢ったことがない兄を頼ってきたのである。


「……追い返されたらどうしようって、怖かったんです」


 智佳子ちゃんはオレンジジュースのストローの先を見つめて震える声でつぶやく。


「それで、お兄ちゃんに関係ありそうなところ回って……様子見て……もしかしたらお兄ちゃんに話が伝わって、迎えに来てくれたらいいな、って……」


 実際その通りになったわけだ。

 彼女が求める100点の『トリート』は、実の兄の出迎えだった。


「追い返すわけねえだろうが! なにがあったのか知らねえが、どうせあのクソ親父が家継がせるだの任侠になれだの時代錯誤なこと言い出したんだろう」


 黙り込んだところを見ると、だいたいその通りらしかった。


「いつまででも東京にいりゃいいんだ。あのクソ親父だって後ろ暗いところがいくらでもあるから警察にもそうそう駆け込めないだろう。なんかあったら俺が話をつける」


「お兄ちゃんのところにいつまででも泊まっていいんですか」


 四代目の顔が歪む。


「なんで俺のところなんだ。ガキの面倒なんざ見てるひまはない。だれか世話するやつをつけてやるから――」


「じゃあこっちのお義兄ちゃんのところに泊まって」


「ふざけんな」と四代目は声を荒らげる。

「なに考えてんだ。だいたい鳴海もアリスっていうべつのガキのお守りで忙しいんだよ」


 いやべつにそれ僕の仕事じゃありませんけど? 向こうのテーブルから「なんだかぼくの悪口が聞こえたぞっ」という抗議の声も飛んでくる。


 四代目は舌打ちし、天井を仰ぎ、頭の後ろでソファの背もたれを何度もごつごつ打ち、それから嫌そうな顔で言った。


「……わかったよ。俺の部屋に泊まれ」


 智佳子ちゃんの顔がぱあっと明るくなった。


「相手は一切できねえからな? 昼も夜もほとんど部屋にいねえからな」


「じゃあご飯つくって待ってます」


「だからそういうの要らねえっつってんだよ。帰るかどうかわからな――」


 智佳子ちゃんが涙ぐんだので四代目はあわてて言いつくろった。


「わかったよ。帰れる日は連絡する。他は余計なことすんなよ」


 雛村壮一郎をここまで手玉に取る女ははじめて見た。


「じゃあこの面倒な話はおしまいだ。祝い事に水さして悪かったな。後は楽しくやれ」


「祝い事? ……あ――」


 僕のつぶやきを、何十発というクラッカーの音が掻き消した。飛び交うリボンが視界を埋め尽くし、火薬のにおいと煙が充満する。


「藤島くん三十路おめでとーっ!」


 いつの間に来ていたのか彩夏の声がする。


「兄貴おめでとうございぁす!」

「おめでとうございぁす!」

「みそじって味噌みたいな爺のことっスよね!」

「さすが兄貴しょっぺえし発酵してるし!」


 黒Tシャツたちの声が四方八方から飛んでくる。


「ハッピーハロウィーン!」

「トリック・オア・トリート!」


 昔から思ってたんだけどハロウィンてハッピーな催し物じゃなくない? ……とは、口には出さず、僕はアリスの隣の席に戻り、彩夏が注いでくれたシャンパンを一口飲んだ。苦みと甘みとかすかな痛みが喉を通り抜けて熱に変わっていく。


 ミンさんヒロさんの夫婦はやや遅れて到着。ばかでかいクーラーボックスに入った特製パンプキンアイスに店じゅうから歓声があがる。最初に賞味する光栄にあずかったのは、この奇妙なハロウィンのはじまりとなった智佳子ちゃん。跳び上がって喜んでいる隣で、四代目の顔も心なしかゆるんでいるように見える。


 さんざん酒が回ってきた頃、少佐が現れた。


「なんだなんだこの惨状は! 自分の料理とアイスは残っているんだろうな?」


「少佐遅かったじゃん。もうローストビーフとサーモンは全滅だよ」


 全滅させたのは主に自分なくせに他人事みたいにテツ先輩が言う。


「ハロウィンイベントでどでかい不具合が出て今の今まで修正に後始末にかかりっきりだったんですよ! もうスマホゲーには二度と手を出しません!」


「あれ、彩夏は今日一日オフだったみたいだけど」


「あたしはそのプロジェクト無関係ですからー。うちは真っ白けっけのホワイト企業なので、どんな緊急事態でも休暇中の社員を便利遣いしたりしないんですー」


「その白さ、社長が血を吐いて支えてるってことを忘れるなよ! 代わりに自分は今日なにもかも忘れるくらい飲むからな」


 少佐は上着とマフラーをむしり取って壁際に投げつけ、バーカウンターに突撃した。




 四代目が智佳子ちゃんを連れて帰ってしまうとみんなの飲み方や騒ぎ方はさらにひどくなる。アリスは下戸で、僕も酒はたしなむ程度なので、どろどろの渦潮に沈んでいきそうな中で船上にぽつんと二人だけ取り残された気分。


 悪くない気分だけれど。


 ドクターペッパーを満たしたグラスを傾けながら、アリスがつぶやく。


「そろそろ帰るかい。あまり居残っていると酔っ払いの世話をさせられそうだ」


「んー。まあ、この一杯飲み終わったらね」


「早く風呂に入りたいよ。いきなり寒くなったからね」


 変わってしまうものが、たくさんある。


 アリスはちゃんと寒さを感じるようになった。

 風呂が大好きになった。

 そして(もちろん)ひとりで風呂に入れるようになった。


 変わらないものも、たくさんある。あいかわらず僕らは、すぐそばにいて、身を寄せ合って、なんとか日々を過ごしている。これまでも。これからも。


 三十歳、と僕はつぶやく。


「……次の十年間もよろしく」


 なんの気なしに言ってみた。アリスは苦い顔になる。


「なんだいそれは。十年で切る意味がなにかあるのかい」


「いや、べつに。なんとなく。じゃあ、ええと、百年間よろしく」


「……それじゃ一生涯みたいじゃないか」


「うん。そういう意味で言ったけど」


 アリスは顔をそむけた。耳が赤く染まっていた。僕の手の甲にぎゅうっとアリスの爪が立てられ、ストゥールの下でアリスの脚がばたばた振られて何度も僕のふくらはぎを蹴った。

 モスコミュールの最後の一口を含みながら、僕は考えをあらためる。ハロウィンはハッピーでいい。これまでも、これからも。

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神様のメモ帳 ハッピー・ハロウィン @hikarus225

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