ミニミニスパイ大分解

吟野慶隆

ミニミニスパイ大分解

 空中を浮遊している遠藤(えんどう)讖太郎(しんたろう)は、ゆっくりと体を下降させ、床に、すたっ、と着地した。喉に装着しているマイクを、上から軽く押さえて、「E11研究室への潜入に成功した」と言う。「これから、例の机に向かう」

「わかったわ」同じチームのメンバーである向後(こうご)駸華(しんか)の声が、右耳に挿し込んでいるイヤフォンから聞こえてきた。「気をつけてちょうだい」

 讖太郎は、現在、仙鳥富士(せんとりふじ)化学工業の研究所にいた。ここのE11研究室から、とあるメモリーカードを盗み出せ。それが、今回、彼の属している諜報組織、揩挫系(かいざけい)の司令部から与えられた指令だった。

 讖太郎は、頭の中に、アイザック・ファイル──今回の作戦について、事前にチームのメンバーが行った、各種の調査の結果を纏めた資料──の二十二ページを思い浮かべた。そこには、この部屋の中において、メモリーカードの保管されている、具体的な場所が記載されていた。

 アイザック・ファイルによると、研究室の南西あたりに、長方形をした机が据えられており、その上には、小さな書類棚が載せられている。その最下段に位置している抽斗の中に、目当てのメモリーカードが入れられている、とのことだった。

 讖太郎は、その机に向かって、部屋の床を、ととととと、と小走りに移動していった。辺りには、讖太郎から見て、丸太のように太い、シャープペンシルの芯や、自動車のように大きい、丸められたティッシュ、といった障害物が転がっており、容易な道のりではなかった。

 といっても、研究室が巨人用である、というわけではない。讖太郎の肉体が、とても小さくなっているのだ。それは、今、彼の全身を包んでいる服、「オイラー・スーツ」の備えている機能によるものだった。オイラー・スーツは、真っ黒なウェットスーツ、というような見た目をしていた。

 オイラー・スーツは、揩挫系の道具部門が、最新科学の粋を集めて開発した服だ。装着者の肉体を拡縮する機能や、装着者にかかる重力を制御し、空中を浮遊する機能、装着者の腕力・脚力を通常の数十倍に増大させる機能、装着者の呼吸器を強化し、息を長時間にわたって止めていられるようにする機能などが搭載されている。

 数分が経過したところで、讖太郎は、目当ての机の下に到着した。重力制御機能を起動させ、空中を浮遊し始める。そのまま、上昇していった。

 そのスピードは、とても遅く、彼は、少しばかり、いらつきを覚えた。道具部門によると、服に搭載されている超小型コンピューターの性能の都合により、高速移動ができない、とのことだった。

 現在、所員たちは、みな、昼休みのため、出払っており、E11研究室の内部には、讖太郎しかいない。しかし、なんらかの事情により、誰かが、休憩時間中であるにもかからわず、戻ってくる、という可能性は、じゅうぶんにある。そのため、早いところ、メモリーカードを入手して、部屋から脱出してしまいたかった。オイラー・スーツには、他人から認識されないようになる、というような機能は、搭載されていないのだ。姿を見られれば、間違いなく大騒ぎになる。

 数分後、讖太郎は、机の上に、すたっ、と着地した。辺りを、きょろきょろ、と見回す。

 一瞬、途轍もない絶望に襲われた。メモリーカードが入れてあるという書類棚が、どこにも見当たらなかったのだ。一本の試験管がセットされている験管立てが一台、彼の現在位置の近くに置かれているだけだ。

(……落ち着け、やれるだけのことをやるんだ……)

 讖太郎は、そう心の中で呟きながら、机の周囲に、ばっばっ、と視線を遣った。例の書類棚は、少なくとも、アイザック・ファイルが作成された時点では、絶対に、この机の上に存在していた。どこか別の場所に移動させられたのか。それとも、まさか、廃棄されてしまったのか。

「あった!」

 讖太郎は、思わず、大声を上げた。彼が今いる机から数メートル離れたあたりに、キャビネットが据えられている。その上に、目当ての棚が置かれていたのだ。

「遠藤くん」唐突に、駸華の声が、イヤフォンから聞こえてきた。「所員が二人、E11研究室に戻ろうとしているわ。到着まで、あと、三十秒もないわよ」

 彼女は、この施設のセキュリティシステムをクラッキングしており、防犯カメラの映像を傍受しているのだ。この部屋には、カメラの類いは設置されていないが、代わりに、チームのメンバーの手によって、あちこちに盗聴器が仕掛けられている。

「何だって……!」讖太郎は、ぐっ、と奥歯を強く噛み締めた。

 彼は、さっさっ、と辺りを見回した。しかし、机の上には、隠れられそうな物影は、なかった。試験管立ては、細長い金属棒で構成されており、針金細工のような見た目をしていた。これでは、とても身を潜ませられない。

 では、机から下りるか。いや。重力制御機能を使っての空中浮遊は、とてもスピードが遅い。移動している間に、発見されてしまう。その機能を用いずに飛び下りれば、一瞬で床に到達するが、たちまちのうちに全身を強打し、死亡してしまうだろう。

 ではでは、飛び下りて、地面に衝突する直前に、その機能をオンにする、というのは。いやいや。その機能は、装着者が静止している状態でなければ起動させられない、という仕組みになっている。

「く……!」

 讖太郎は、再度、机の上を、ばばっ、と見回した。そこで、試験管立てにセットされている、一本の試験管が、目に入った。

 それの口には、キャップが付けられていて、中には、真っ黒な色をした液体が入っていた。側面には、ラベルが貼られており、そこには「MROmega02」と書かれていた。

 讖太郎は、アイザック・ファイルの三十三ページ、「E11研究室にて管理されている試料の一覧」表を頭に思い浮かべた。たしか、この名前で管理されている物質は、水とほぼ変わらない性質であり、体に浴びたところで、負傷したり、体調不良に陥ったりすることは、ないはずだ。オイラー・スーツや、耳に挿しているイヤフォンは、高い防水性を有している。

「あれだ……!」

 そう呟くと、讖太郎は、ととととと、と試験管立てめがけて全力疾走した。到着すると、それを構成している金属棒をよじ登って、セットされている試験管の口に向かう。

 しばらくして、目的地に辿り着いた。彼は、嵌め込まれているキャップを、ぱかっ、と開けると、中に入り、内側から、ぱちっ、と閉めた。内壁に四肢を突っ張り、それらを慎重に操って、体を下へと移動させていく。

 いっそのこと、手足を引っ込め、体を自由落下させて、液体に飛び込んだほうがいいだろうか。一瞬、そんな考えが頭を過ぎったが、すぐに却下した。それをすると、飛沫が生じ、内壁を汚すかもしれない。ひいては、部屋に戻ってきた所員が、試験管を目にした場合、不審に思うかもしれない。そのような可能性は、除去すべきだ。

 数秒後、讖太郎は、液面のすぐ上に到達した。最初に、爪先をくぐらせるなどして、本当にこの液を体に浴びても大丈夫かどうか、確かめたかったが、そうしている時間も惜しかった。いっさいストップすることなく、ずぶずぶ、と体を沈めていく。さいわいにも、痛みや苦しみの類いは、まったく感じなかった。

 彼は、手足を動かしながら、「今から、身を隠す!」と駸華に対して言った。「その間、事情により、おれから通信することは、できなくなる!」

 その一秒後、讖太郎は、頭頂部まで液中に潜らせ終えた。その〇・五秒後、イヤフォンから、駸華の、「今、所員たちが、部屋に入っていったわよ。通信の件、了解したわ」という声が聞こえてきた。

(ふう……間一髪だったな……)

 讖太郎は、思わず、安堵の息を吐きそうになって、慌てて引っ込めた。気泡を目撃されるわけにはいかない。

 それから、彼は、液中に潜り続けた。オイラー・スーツのおかげで、十数分が経過しても、まったく息苦しくなかった。

「所員たちの会話によると、彼らは、なんとかいう機械をスタートさせるために、部屋に戻ってきたそうよ」イヤフォンから、駸華の声が聞こえてきた。「なんでも、その機械が動作を完了させるまで、とても長い時間がかかるんだとか。もともとは、それの動作を開始させてから、昼休みに入るつもりだったんだけれど、うっかり、忘れてしまっていたんだって。で、途中で思い出して、慌てて帰ってきた、というわけ。

 所員たちは、『早く機械をスタートさせて、昼休みに戻りたい』ってぼやいているわ。そうなったら、E11研究室は、再び無人になるから、それまでの辛抱よ。彼らが退室したら、また、連絡するから」

 そう聴いて、讖太郎は、少しばかり安堵を覚えた。任務失敗、という事態は避けられそうだ。

 讖太郎は、その後も液中に潜り続けた。途中、彼のいる試験管が、おそらくは所員の手によって動かされた時は、ひどく焦った。しかし、最終的には、試験管は、場所を移されただけで終わった。彼の存在も、ばれずに済んだ。

 それから、さらに十数分が経過した。いくら、オイラー・スーツのおかげで、長時間にわたって呼吸を止めていられるようになっている、とはいえ、さすがに苦しくなってきた。

(このままじゃ、意識を失ってしまう……こうなったら、いちかばちか、一瞬だけ顔を外に出して、息継ぎしてやる!)

 讖太郎は、そう心の中で叫ぶと、手足を内壁に突っ張り、体を上に動かし始めた。音や飛沫を立てないように注意しながら、顔を外に出す。すう、はあ、すう、はあ、と静かに呼吸した。

 いつの間にやら、試験管の外部は、薄暗くなっていた。(……?!)彼は、頭全体を液面から出すと、きょろきょろ、と辺りを見回した。

 どうやら、試験管は、何らかの箱の中に入れられているようだった。天井には、小さな窓が取りつけられていて、そこから外の様子が窺えた。男性所員が一人、箱の外面に対して、何らかの操作を行っている。窓の位置や角度から予想するに、彼に姿を見られることは、ないだろう。

(ここは、いったい、どこなんだ……?)

 讖太郎は、再度、きょろきょろ、と辺りを見回した。箱は、底が浅く、その中央部は、擂鉢状に窪んでおり、その斜面には、いくつかの穴が開いていた。彼の潜んでいる試験管は、そのうちの一つに挿入されていた。その真反対に位置する穴にも、試験管が一本、セットされていた。両者の中間には、地面に、「CORIOLIS44」と印字されていた。

(「CORIOLIS44」……どこかで見たことがあるぞ。ええと……)彼は、数秒間、考えを巡らしてから、(そうだ、思い出した!)と心の中で叫んだ。(アイザック・ファイルの五十五ページ、「E11研究室にある機械の一覧」表に記載されていた、遠心機の名前だ!)

 遠心機とは、液体に対して、強い遠心力をかけることにより、それを分離させるマシンだ。使用者は、装置の内部に設けられているシリンダーに、分離したい液体を入れた試験管をセットする。その後、機械をスタートさせると、そのシリンダーが、超高速で回転し始めるのだ。アイザック・ファイルによれば、CORIOLISのシリンダーは、最高で、一秒間に三十万回転するそうだ。

 そこまで考えたところで、讖太郎は、非常に嫌な予感を覚えた。次の瞬間、箱の外から、機械の音声が、かすかに聞こえてきた。

「それでは、回転を開始します」


   〈了〉

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