樹木の人

鯵坂もっちょ

樹木の人

 私もこのお屋敷に勤めて長いけど、いや、長いって言っても十五年くらいだけど、その箱を見るのは初めてだった。

 その木箱は地下倉庫の奥の奥に、隠すようにひっそりと安置されていた。

 この地下倉庫はいつだって不安になる。ひんやりした空気。ルミニ草の心もとない光がゆっくりと鼓動している。

 私の身長からだと見えない場所にあったのだ。このあいだ肥料の箱をどかしたときに見えるようになったらしい。

 何の変哲もない箱なのに、そこだけ空気が違うというか。特別なものが入ってるんだろうな、という直感があった。


 ◆


「本当に? よかった、なくしてしまったと思っていたの。ありがとう、クラピア」

 屋敷に戻って箱のことを報告すると、御主人はその雪のような肌を少し紅潮させて目を輝かせた。

 生い茂った植物たちの隙間から御主人が顔をのぞかせている。

 このお屋敷はどこもかしこも植物であふれている。足の踏み場しか無いほどに。

 薬草から毒消し草、輸血草から毒草まで、基本的な医療に使える植物はほとんどがそろっていた。

「私もびっくりしましたよお。倉庫にはいつも入ってるのに今日まで気づかなかったなんて」

「きっと奥深くにしまいすぎたのね。大事なものだったから」

「やっぱり大事なものだったんですか」

「ええ。わたしがここに引っ越してきたときだったから、え〜と」

「もう三十年くらいですねえ」

 あら。ありがとう。私の助け舟にそんな微笑みを返してくれる。シルクのような髪が窓から差し込む陽光を薄緑色に反射する。

 御主人、もといファーミア・ファセリアの過去について私が知っていることはそんなにない。

 世間知らずのお嬢様。私の第一印象はそうだった。御主人は植物のこと以外はほとんどなんにも知らないと言っていい。ここへの引っ越しも、ご両親がその手続きのすべてを一手に引き受けたとの話だ。

 そして少しもその生活スタイルを変えていない。つまり、この家中に散らばる薬草や魔法草を育てては、たまに来る業者にそれを売って生計を立てている。

 買い物は私が出るので御主人はごくたまにしか外に出ない。珍しい花の行商が来るとかそういうときだけで、たぶんここ三年くらいは一歩も門より外には出ていなかった。私もたまには連れ出さないとな、と思ってはいるけど、なかなかその口実が見つからない。

 原因として外に出ないから、というのは大いにあるだろうけど、その世間知らず加減も第一印象のときから少しも変化していなかった。私が子供ではないと御主人が気付いたのは最近になってからだ。十五年経っても身長が伸びていないことでようやく気付いたらしい。

 たしかにハーフリングは他人種からは子供に見えるのはわかっているが、それにしても、十五年って。

 見た目もまったく変わらない。私の目からは三十歳くらいにしか見えないけど、本人によると今年で百十二歳だという。エルフのそれが私達でいう何歳くらいに当たるのかはよくわからない。私が出会ったことのあるエルフは御主人ただ一人だったからだ。その点では、私も人のことを世間知らずだとなじる資格はない。

 御主人が薬草にかざした手をとめて言う。

「地下倉庫よね。見に行きましょう」

「いやいやいやいや大丈夫ですよお! 私がここまで持ってきますから」

「いいの。たまには動いておかないと私が樹になってしまうわ」

 もしかしてエルフってそういうものなのかな、と半分くらい思ったけど、どうやら冗談みたいだった。


 天井の低い地下倉庫に、御主人は身をかがめて入ってきた。ルミニ草が御主人の魔力を受けてさっきよりも数段明るく光っている。

 実際にその箱を前にすると、やはり他の荷物たちとはあきらかに異なった経緯でそこにいる、という雰囲気があった。

 鍵はかかっていなかったようで、御主人が箱の上部を持ち上げるとあっさりと開いた。

「あ……」

 御主人の口から吐息が漏れた。それはすぐに目に入るところにあった。

「手紙……」

 それはほかの細々したものの一番上に置いてあって、まるで「箱の蓋を閉める直前まで読んでいた」ような位置だと思った。

「……戻りましょう」

 手紙を手にした御主人が言う。手紙だけを持って、ということだ。

 今すぐにでも、読みたいのだ。


 ◆


 はたしてそれは恋文だった。そして同時に別れを告げる手紙でもあった。

「むかしね。むかーしむかし。私が魔法学校を卒業するくらいの頃ね。仲良くしてくれていた男の人がいたの。本当に、好きとか、ほら、ね。そういう感じではなかったと思っていたし、気軽に話せる後輩だと私は思っていたのだけど、こんなに情熱的なお手紙を頂いちゃって……」

 そして意識するようになったということか。私の知らない御主人の過去の一面。

「でもだめなの。いろいろと避けられない事情があって、この手紙をもらってすぐ後、別の方と結婚されてしまったの」

「え、別の方と」

「そう。そうなの。最後の一筆だったのよ。私は結婚します。でも、あなたのことを愛しています、だなんて……」

 なんて勝手な男だ、と思ったが、そう言いつつも相手のことを悪し様には言えないところを見ると、やはり御主人の方もそういう気持ちがあったのかもしれない。

「相手の方っていうのは?」

「同じエルフの方だったわ。私とは正反対の人だった。とても勇敢で、リーダーシップがあって、みんなを引っ張っていく力があった」

 エルフだったのは意外だった。魔法学校に在籍するエルフで男性は珍しいのではなかったか。それにしても、万事控えめな御主人とは真逆の人だ。

「たしかに正反対ですねえ」

 言ってすぐにまずいと気づいた。

「いや、いやいや、別に御主人が臆病でとかリーダーシップなくてとかそういう意味じゃないですからね!」

「ふふふ、いいのよ。私のことは私が一番よくわかってるから」

「でもたしかに、まったく違うタイプの人って感じですねえ」

「でしょう。私もあの方のようであったら、今ごろもっと別の人生を送っていたかしらね」

 その人が情熱的な手紙を送ったように、私ももっと気持ちをオープンにすることができたら……。ということか。

 最後の言葉に、私は少し心を痛めていた。御主人は今の生活に満足していて幸せだと思っている。そう思っていたからだ。私の前でもそれに近いことを口にしていたことがある。

 そんな御主人が自分の歩んできた道を後悔するような発言をしたのは、ここ十五年で初めてのことだった。少なくとも私の前では。

 御主人はその人のことをどう思ってるんだろうか。いくつもの疑問が浮かんだが、さすがに直接聞くことはためらわれた。だからこういう聞き方になった。

「その手紙の人、いまどこでどうしているんでしょうね」

「オルキスさんのこと?」

「オルキスさんっていうんですか。その手紙の送り主の人」

「そう。でもわからないわ。この手紙のあと、一度も連絡をとっていないの」

「会おうと思えばいつでも会えるんじゃないですか?」

「それもわからない。もう何十年も会っていないもの」

 エルフの人生における「何十年」がハーフリングの何年にあたるのかわからないが、少なくともハーフリングやヒューマンのような短命種の数十年に比べれば短いものなのではないか。

 私は次に発するべき言葉を探していた。だから御主人の発言には少なからず驚いた。

「会いに……行ってみましょうか」

「えっ! 本当ですか!」

 自分にも驚いた。それを聞いて「嬉しい」という感情が湧き上がったことで初めて、私も御主人にそうしてほしかったのだと気付いたのだ。

「あてがないわけじゃないと思うの。学校に行けばある程度のことは教えてくれるんじゃないかしら」

 つまりはあてがないということか。世間知らずの御主人のことを思うと、このままではその「オルキスさん」の影も形もつかめないまま、途方に暮れる羽目になるだろう。

「私もお供しますよ」

「あら、本当に? 助かるわ。そうしてくれたら良いなと思っていたの」

「曲がりなりにも御主人の世話係ですからね。当然ですよお」

 しかし、エルフとハーフリングのふたり旅だ。相当人目を引くだろうことは覚悟しなければならない。

「楽なお出かけではないと思います」

「覚悟の上よ」

 私は微笑んだ。まったくもって勇敢だし、私を引っ張ってくれているじゃないか。

「でもなんで急に会おうなんて?」

「たいした理由はないわ。本当にたまには外に出ておこうと思っただけ。樹になってしまわないうちに、ね」

 後で調べてわかった。「樹になる」というのは単に「老いて皮膚が固くなること」を指すエルフの慣用句だった。


  ◆


 ここまで来たことを後悔していた。私たち二人はその場から動けなくなっていた。身を隠していたというのもあるが、単純に、立ちすくんでしまっていたのだ。

 町外れの小さな家。白樺の林に覆われて昼でも暗い場所だが、その家には二人の人間がいた。外から見えてしまっていた。

 ひとりはエルフの女性だった。見た目は御主人と同じくらい。意思の強そうな目と、颯爽とした動きは、御主人の語った「勇敢で、リーダーシップがあって、みんなを引っ張る力があって」という特徴に当てはまっていそうに思えた。

 もうひとりは。

 もうひとりは、老人だった。

 その皺だらけの顔は、まさに樹木のように見えた。ロッキングチェアーに身を預け、静かに揺れている。

 私にはあの老人がそうであるのかわからなかったが、御主人の反応からするとそういうことなのだろう。

 オルキスさんは「樹になって」いた。

 私の勘違いだったのだ。相手の方っていうのは? 同じエルフの方だったわ──。

「相手の人」は、その結婚相手の人のことを指していた。オルキスさんのことではなく。

 彼はエルフではなかった。エルフよりずっと寿命の短い、ヒューマンだった。

 御主人の語るところによれば、今年で百八歳。ヒューマンとしては、ずいぶん長く生きたほうだろう。

 しかしあの様子では、もう目も耳も機能しなくなっていてもおかしくない。ご主人のことだって忘れてしまっているかもしれない。

 御主人は知っていたのだろうか。ヒューマンの寿命がこんなにも短いということを。

 おそらく知らなかったのだ。ハーフリングのことをただの子供だと思っているような人だ。普段誰とも合わないのに、ヒューマンがどれだけ生きるかという知識を得られる機会があるはずがなかった。

「ごめんなさい……本当に」

 私がそう言うと、御主人は少し微笑みながら首を横に振った。少し困ったような顔だった。

 こんな表情を見るのは初めてだった。胸が締め付けられた。

 そのまま二人ともしばらく動くことができなかったが、おもむろにご主人が言った。

「……帰りましょうか」

「えっ!」

 思わず大声を出してしまった。家の方を窺ったが幸い二人には気づかれなかったようだ。

「……いいんですか、会わなくて」

「ええ。いいの。いいのよ」

 ここまで来たのに。と思ったが何も言い返せなかった。御主人の意志が固いことが伝わってきたからだ。

 自分と同じくらいの年のオルキスさんに会えると想像していたのかもしれないし、自分の世間知らずさを呪ってしまっているのかもしれない。

 あるいは、オルキスさんが自分のことを忘れてしまっている可能性に思い当たったのかもしれない。それはいかにも耐え難いだろうことは想像に難くなかった。

 さまざまな可能性がよぎったが、どれも直接聞くにはためらわれるものばかりだ。

 あるいは、と思った。

 実は御主人はヒューマンの寿命についても知っていて、二人で暮らす姿を見て、そこに自分の居場所はない、と悟ったのかもしれない。

 だとしたら、それでよかったのだろう。御主人の居場所は、あの植物だらけのお屋敷なのだと思う。そしてそこには私もいる。

「私、御主人といられて幸せです」

「ありがとうね。クラピア。私も同じよ」

 声が震えていた。私も同じだった。

 御主人の方を見ると向こうもこちらを向くところだった。二人とも同じ表情をしているのを確認すると、私たちは顔を見合わせて笑った。


 <了>

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