メビウスの表裏

稲荷竜

【短編】メビウスの表裏


 骨の焼けるにおいは鼻の奥にこびりつくようだった。


 煙を見ている。人の成分の詰まった煙。曇って寒くて薄暗い今日、煙はすぐに空の一部になって消えてしまった。


 ━━すごい。人は死んだら空に溶けるんだ。


 煙を見ていた。煙はいつの間にか空になっていた。空は黒い雲がふさいでいて、そのうち雨が降り始めていた。


 制服姿で取り残された私は「おーい」と呼ばれて自分がまだ地上にいたことに気付いた。

 空にいるようなふわふわした気持ち。

 なぜ私のローファーはまだアスファルトを踏み締めているのか、我慢できないぐらい違和感があった。


 違和感を解消しよう。


 軽い思いつきみたいなこの気持ちは、家に帰って着替えても、夕食を食べてお風呂に入っても、眠って朝起きても、ずっとずっと『そうすべきだ』という確信を伴って心の根っこにこびりついていた。


 だから私が飛び降りたのは空に昇るためだ。


 十代。高校生。自殺。直前に友人が死んだ。

 なにも知らない人たちが妄想するための材料をばらまくことになったのは少しだけ気になった。でもそれは私が砕けてちらばったカケラだ。壊れた私には回収できるはずもない。


 そうして私は砕けて消えた。


 はず、なのに━━


 今の私は去年の冬にいる。


 私の足は違和感もなく、しっかり地面を踏みしめていた。



 乱高下を繰り返す気温の中に私と彼女は立っていて、たいてい寒さの被害は私ばっかりがこうむっている。


 なにせ外で待ち合わせてもあいつは全然来やしない。遅刻常習犯。反省の空手形。謝罪は空虚で反省は皆無。

 それでも私が許してしまうのはもう習慣みたいなもので、心のこもってない「ごめんね」をいっぱい聞いていると、その声が哀れすぎて「まあいいか」という気持ちになる。


 人と人に相性があるならあいつはきっと私特効。許せない。私はいつでもあいつに弱くて、弱々しいのがとても楽しい。

 許しを乞われて怒ったフリして、それきりあとにはまったく引かない。

 いや、反省ぐらいはしてよ、だなんて。もう言う意味もないし今さら言わない。


 あいつは雑で鈍感で、その場のノリでしか話さない。

 約束なんてする意味がない。だって言葉では縛れないから。


 軽いんだ、すごく。信用できない。

 でも、付き合いは長い。だって、


「どうしたの?」


 そんなふうにどうしようもなく気付くから。

 致命的な部分まで評価を下げるくせに、致命の一歩手前でこうやって踏みとどまる。


 こんなタイミングで『どうしたの』なんて聞かれたら、私はもう「なんでもない」しか言えない。


 ちっともなんでもなくなんかない、『なんでもない』のせいで、私たちの関係は続いている。


 続いていた。


 もう少し寒くなる、その時まで。


 彼女が人生を踏み外す、その時まで。



 けっきょく私は『その日』が来るまで、自分が過去の地面を踏みしめていることを受け入れられなかった。


 現実と夢の区別がつかなかった。


 というか。


 これが現実だったから、どうするんだっていう。


 だって現実は強固なのを知っている。現実の大地が私自身を叩きつけた程度じゃぜんぜん壊れないぐらいにひどく硬いのを体感してる。これは硬い硬いレールに沿って運航する車両で、そこに人が割り込んだぐらいじゃあ、運航ルートなんか変わらない。


 だから、あいつは死ぬ。


 ……でも、『前』と同じようにあいつが電車にはねられて死んで、私がその葬式に出て、ふわふわと煙の溶けた空を見て、それからやっぱり『自分が生きていること』にどうしようもない違和感があって、我慢しきれずに飛んで、落ちて、のぼりきれなくて。


 そしてまた、あいつが死ぬ前の大地を踏んでいて。


 ようやくわかった。気付くのが遅かった。


 私たちの人生はきっと、違うルートに行ける。


 だってそうでしょう? 私がこんなに何度も過去の地面の上に立つのは、まるで『そうしなさい』って誰かに言われているみたい。そうじゃなきゃ、なんの悪趣味だ。

 変えられない半年を繰り返して何度も頭を地面に打ち付けて、のぼるために落ちてるのにのぼりきれなくて、私はいつも過去の地面を踏み続ける。


 なにかができなきゃ嘘でしょう?


 なにかを成さなきゃダメでしょう?


 誰か、『そうだね』って言ってよ。

 誰か、私の背中を押してよ。



 あいつはなんで、死ぬんだろう。


 テキトーなやつだった。ずぼらなやつだった。

 いつでもヘラヘラしてて、待ち合わせにはいつも遅刻して、そのくせなんだか許されて、みんなから人気があって。


 だのになぜか、いつも私と一緒にいた、あいつ。


 たぶんあいつにとって私は大勢の中の一人だった。

 でも、私にとってあいつは、たった一人の………………


 救いたい理由はきっと、それだけで充分なんだ。


 私は孤独に戦い始める。


 味方がいるとは思わないし、作ろうとも、思えなかった。


 教室の真ん中。あいつとみんなの居場所。

 教室の一番後ろの端っこ。私と掃除用具入れの居場所。


 ホウキみたいな髪をして机の上に突っ伏してる私。

 なにかに気付いて人の輪を抜けて、私に近付いてくるあいつ。


 ……あいつはなんで、死ぬんだろう。

 私じゃなくて、あいつがなんで。



 死因。列車事故。


 全然理由がわからない。たまたま同じ時間にホームで会って、他愛無いことを話して、それからあいつは思い出したように線路に踏み出した。

 目の前でそんなものを見せられるこっちの気持ちはたぶん考えてない。あいつにはあいつなりの理由があったけれど、それはたぶん、理由と言えるほど明確でもない。

 いつだってそう。最後までそう。あいつの行動はどこかテキトーで、理由なんか考えるだけばかみたい。


 だから『なんで飛び降りたのか』だなんて考えない。

 そんなもの、本人にしか理由がわからないものだから。勝手に理解したつもりになって、勝手に共感されて、勝手にわかりやすいストーリーを妄想されるなんてバカみたい。命を使う理由なんか、その命の持ち主だけがわかっていればいい。部外者が勝手にあれこれ考えるのは不愉快だし、私はあいつに不愉快に思われたくなんかない。


 だから肩をつかむぐらいのことだけが、私にできる唯一のこと。


 線路に半歩踏み出すあいつ。

 肩をつかんで止める私。

 一瞬の間。

 快速電車が目の前を通過する。

 

 地下鉄のホームを風が吹き抜けて、あいつと私は奇妙な顔で見つめ合った。


「危ないよ」


 と私は言う。当たり前みたいに。


「そうだね」


 と、あいつは言う。当たり前のように。


 これでたどるべきルートは変わった。

 あいつは死なない。そういう世界になった。


 そう思っていたのに、そうじゃなかった。


 翌日、また別な原因で、あいつが死んだ。

 現実はあまりにも硬くて、私の体はぐしゃぐしゃに砕けた。



 なにが楽しいの? なにを考えてるの? どうしてなの?

 あいつは死んだ。こっちの油断を突くように死んだ。私が止めるとちょっとおどろいたようにフリーズしてから首をかしげて「おかしいな」だなんてつぶやいて、それからなんでもない顔をして、翌日にはまた死んだ。

 そのたび砕ける私の気持ちなんか考えたこともないんだろう。きっとあいつにはあいつなりの哲学だか考えだかがあって、それは他人に共有も共感もされなくたっていい、あいつだけの物語なんだろう。


 でも。

 なんで!


 私は一生懸命にやってるのに! 止めたくて、止めたくて、止めたくて、なんどもなんどもバラバラに砕けながら、あいつの死ぬ現実が来ないように、全身の力をくたくたくになるまで絞り尽くして、現実っていう硬い硬いレールのルート変更をああでもないこうでもないってやっているのに! どうして! どうして! どうして!


 いやだとか苦しいとかじゃない。無力感と絶望感はきっとこうやって私の足から力を奪って、すぐに膝を地面につかせようとしてくるんだ。ついた膝の痛みで『ほら、現実はこんなにも硬くて、非力なお前なんかがどんなに力を込めたってこゆるぎもしないんだぞ』って頭をおさえつけようとしてくるんだ。


 負けてやるもんか。


 どれほど足から力が抜けても、私はレールを変える力をゆるめない。

 現実が私の頭をおさえつけようとするなら、自分から頭を打ち付けて強固な地面を砕いてやる。


 だから私は繰り返す。

 永遠にも思える時間を繰り返す。


 生まれて初めての無敵時間。私はきっと、あいつを死なせないためならなんだってできる。いくらでも力がわいてきて、どんなにつらくても耐え切れる。笑いだってこぼれてくる。涙なんかぜんぜんこぼれない。


 だから、私を折れるのは。


「ねぇ」


 地下鉄のホーム。あいつの肩をつかむ私。

 唐突にかけられたのは快速電車の通過の音にかき消されそうな、わずかな━━


「なんで、私が死ぬのを止めようとするの?」


 私が死なせたくなかった、あいつの、非難がましい声。



 繰り返していたのが自分だけだと思っていた。

 誰かを死なせたくないって歯を食いしばっていたのは自分だけだと思っていた。


 だってそうでしょう。私の時間はぐるぐると回っていて、それは私が死ぬたびにスタート地点に戻る。

 こんなの、神様に選ばれたと思ったっていいでしょう?

 なんにも特別な才能がなかったんだもの。休日なんかあいつが呼ばなきゃ出歩かないし、服なんか灰色のゆったりしたものしか着ないし。背も低いし。靴なんか踵のすり減ったスニーカーしか持ってなかったし。

 全部、全部全部、あいつのせいで変わってしまったんだから。

 そのあいつを生かすのが自分に『なにか』が課した英雄的使命だって思い込んだっていいでしょう? そのぐらいのヒロイックシンドローム、私にだって許されたっていいでしょう?


 なのに、


「私の努力を無駄にしないで。いいんだよ。私は死ぬんだ。私が死ぬから、いいんだ。私が死ぬから、あなたが生きるんだよ」


 私は、主人公じゃなかった。


 あいつの方こそが、『無辜の被害者を救うヒロイン』だった。


 それどころか、私は━━


「あなたが死ぬたび、やり直した。そうしてあなたの生きる道を見つけた。どうか、やり直さないで。これ以上、私の願いを阻まないで」


 主人公の努力を邪魔する、かたき役だった。


 全部理解した。だから笑った。きっと、理解が原因だと思う。それしか思いつけないだけ。

 だって私は笑っている。気が弱くていつもうつむいていて、クラスの端っこでホウキみたいな髪を広げて突っ伏している私が! こんな人の多い駅のホームで、人目もはばからずに笑っている。

 だからきっと、理解したのが理由なんだと思う。

 だって私は、ただ笑うのにも理由が必要なぐらいの、表情を変えるというたったそれだけのことでさえも、照れてしまってまともにできないぐらいの、『端っこ』なんだから。


「どうして私を助けるの?」


 あいつは言った。

 私は、まったく同じ言葉を返した。


 だってあいつが私を助ける理由なんか一つも思いつかないから。

 私があいつを助ける理由は、いっぱい思いつくけど。


「わからないの?」


 あいつは言った。

 わからないよ、と私は答えた。


「あなたと同じだよ」


 あいつは言った。

 そんなわけないよ、と私は答えた。


「そっか」


 あいつは言った。

 ちょっと寂しそうに笑うもので、私は気になってあいつに問いかけた。


 ねぇ、私は、間違ってたのかな。

 誰かに背中を押してもらいたかった。誰かに『そうだね』って肯定してほしかった。

 私は私の決断に自信がない。私の行動に正当性とか大義がほしい。だって、私は迷いなくなにかを成せるほど強くないから。だから、絶対的に正しいことしかできない。私の中に確信があることにしか力を使えない。


 あいつを生かすことは、私にとって、絶対に正しいことだった。

 誰に背中を押されなくても、そう思えた。


 それは、あいつが人の中心で、人気者で、朗らかで、なんだか許せてしまう……


 そうじゃない。


 きっと、私があいつのことを、好きだから━━


 ……その想いは正しくないから、言葉にするほどの力を使えないけれど。


 あいつも私も黙ったままで、電車を一本見送った。


 あいつも私も見つめ合ったままで、電車をもう一本、見送った。


「半年あったら、なにができるかな」


 あいつは唐突に言った。

 それは私たちのどちらかが半年以内に死なないといけないから、なのだろうと思った。


 ああ。そっか。

 どちらかが生き残るためには、どちらかが死ななければいけないという、どうしようもないレールの上にいて。

 私たちはどちらも、『だから、自分が死んでもあなたを生かしたい』っていうふうに、強く強く相手に訴える言葉を 言えないんだ。


 あなたのことが好きだから、なんて。

 それはきっと正しくないから。こんな私があいつに言うなんて、きっと、絶対、間違っているから。だから私は、言葉を絞り出すほどの力を出せない。


 あいつもたぶん、あいつなりの理由で、私になんにも言えないんだ。


 だから私たちは、このループを繰り返して、永遠に青春でもしてやろうかななんて、思ったのかも、しれない。


 ……少なくとも、私は。

 この終わらない、どちらかが死んで、最終的にどっちもバラバラに砕けて、それで繰り返され続ける時間は、どちらかが欠けた未来より、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、楽しいと、思う。


「遅刻確定だね。せっかくだからどっか行こうか」


 あいつは言う。

 私は無遅刻無欠席というところに、ちょっとだけ誇りがあった。というか、それ以外に、誇れることが、なんにもなかった。


 なんにもない私は、あいつを生かしたい理由を叫べない。


 だから、ため息をついて、「いいよ」とだけ言った。


「私は、あなたと遊んでる時間が一番楽しいんだよ」


 あいつは微笑んで言った。

 たぶんいつもの軽口だと思った。


 あいつと私は二本遅れの電車に乗り込む。


 地下鉄は進んでいく。

 どこまで行くかは決めていない。でも、どこまでだっていい。


 時間はたっぷりあるし━━


 きっと、終点に着けば、あとは勝手に始まりに戻るのだろう。

 私たちのように、永遠に反復を続けるのだろう。

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メビウスの表裏 稲荷竜 @Ryu_Inari

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