油断して歩くと非日常にぶつかる
浅瀬
第1話
緊張で震えも止まらないまま、ペットボトルの蓋を開けようとしたのがよくなかった。
「あ」
手からすべり落ちた蓋は転がって、2、3歩先にある排水口に落ちてしまう。
ああもう。いつもこれだ。
クソと毒づきそうになって、カフェ・オ・レを口に含んだ。飲み下す。苦くて甘い味が舌にへばりつく。
そもそもこれも、カフェ・オ・レなんかではなく隣の無糖コーヒーを買おうとしたはずなのだ。
甘い味に理由もなく苛立ちがつのった。
しかしもう、蓋を落としてしまった以上、飲みきるかこのままゴミ箱に捨てるしかない。
「うっ……」
俺はまたクソと言いそうになって、飲みたくもないカフェ・オ・レをあおる。
悪い言葉を吐きなさんな、悪いものがついてくるから……というのが亡くなった祖母の口癖だった。
手が早くて、俺が反抗するたび問答無用でげんこつと往復ビンタをくらわせるような人だった。
悔し泣きしながら、ばばあ、と放った俺の襟首をつかんで、祖母が言ったのだ。
「悪い言葉を吐きなさんな」
じゃあ暴力はいいのかよぉ、と泣きじゃくる俺には「真の暴力ってのはこんなもんじゃないよ」と遠い目をして言っていた。
祖母の夫だった人物はどこかの組の人間だったと、近所の人が噂話をしているのを聞いたことがあったが、俺は別にどうでもよかった。祖母には育ててもらって感謝している。根に持っているとしたら、俺の両親については「語ると口が腐る、言わすな」とかたくなに教えてくれなかったことくらいだ。
カフェ・オ・レは飲みきれそうにない。
ペットボトルを握ったまま歩き出し、歩道脇に並ぶ、自治会の名前が書かれた植木鉢の花たちを、ぼうっと眺めていた。
花にカフェ・オ・レやったら枯れるかな……
そんなことを思っていると、花壇と花壇の間に生える街路樹に、誰かがもたれて座り込んでいる。
土曜の朝に転がっている酔っ払いのような体勢だ。俺はそのまま通り過ぎようとして、革ジャンの男が脇腹を押さえていて、その辺りがぐっしょり真っ赤に濡れているのに気がついてしまった。
血じゃん。
……え。血じゃん。
目が離せなくなったところへ、男が顔を上げてこっちを見たものだから、ばっちり視線が合ってしまった。
け、と反射的に俺はつぶやいていた。
「警察呼びます?……」
いや警察じゃなくて救急車だ。
しかしそんなことじゃなく、俺は後じさった。声をかけてしまったことを後悔した。
男が呻き、這いずりながらこっちに近寄ってくる。
「ちょ、動かない方がっ……血が、血が、出すぎちゃうんでっ」
「うっ……ううっ……」
がっちり、と足首を掴まれ、俺は内心で絶叫していた。
男がジャケットの懐から黒光りする拳銃をつかむのが見えた。
何なのだ。俺っていつも何なのだ。
どうしていつも「こんなはずじゃなかった」展開になってしまうのだ。
悪い言葉を吐きなさんな、と頭の中で祖母が言う。
吐いてないよ、ばあちゃん。
俺いつも悪い言葉は吐かないように飲み込むように、頑張ってるんだ。
だから言わなかったけどストレス性胃炎持ちなんだよ。ばあちゃん。
守ってよ。俺、殺されちゃうのかなあ?……
「たの……む。荒岸を……」
覚悟して目を瞑っていた俺に、男が力を振り絞ってなにかを言っていた。
「え、な……何ですか?」
「荒岸を……まもって……やって、くれ……」
痛みのせいか昂っているからなのか、俺を見上げる男の両目は涙で潤んできらきらしていた。前歯が折られていて痛々しい。
「たの……む」
男が俺に拳銃を差し出す。次に金色のふわふわの毛玉を取り出して、男を介抱しようとした俺の手に握らせる。
ハムスターだった。
俺の手のにおいをかぐように鼻でくんくんしている。
まぎれもないハムスターだ。
俺は唖然とする。
大きく呻き、ダンゴムシのように身を丸める男に、俺はどうしていいか分からなかった。
とにかく救急車を呼ばなきゃ……!
ポケットの中のスマホを出して、119を押す。
「守るって……言え……、でないと……死ねねぇ……っ」
「まも、守るから、さっさと病院行ってくださいよ……!」
どう言えばよかったのか分からない。
もうそう言うしかなかったのだ。その時の俺は。
男が丸くなったまま顔だけで俺を見上げ、潤んだ凄みのある目でにっかりと笑った。
俺はスマホの向こうの無機質な声音に、テンパりながら男の容体と場所の目印を言っていく。このハムスターがここら辺界隈の組で動く、凄腕スパイなのだということは、知るよしもなかったのである。
荒岸公(あらぎし こう)
伝説のスパイハムスターと、これが俺との出会いであり騒動の幕開けだった。
油断して歩くと非日常にぶつかる 浅瀬 @umiwominiiku
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