後編

 多賀谷幸太郎と西園寺菫の日々は、それからとても静かに過ぎていった。

 犬になりなさい。と、最初に言った以外には菫がめちゃくちゃなことを言い出すことは一度もなかった。

 毎日のアルバイトで削られていた睡眠もまともに取れるようになり、幸太郎はそれまでよりもむしろ健康になったくらいだ。

 もともと幸太郎は放課後すぐにアルバイトに向かう生活をしていたから、前よりも少し慌ただしく学校を出るようになったくらいで、同級生からは相変わらずよく働いてるなとしか思われていない。

 時折、菫の帰宅までに間に合うかギリギリのタイミングで息も絶え絶えになりながら「おかえりなさい」と言う日もあったが、それくらいだ。吉田のフォローのおかげもあって、結局これまで一度も遅れることはなかった。

 月曜日が来て、火曜日が来て、水曜日が来て、木曜日が来て、金曜日が来て、土日を挟み、そしてまた月曜日が来て彼女におかえりなさいを告げる。その日々を幸太郎はただ繰り返した。

 何回も何回も「おかえりなさい」と「ただいま帰りました」を二人は繰り返した。

 二人の距離が近付いたわけではない。特別な絆も出来ていない。

 ただ淡々と一日一日を積み重ねた。それは静かに、それは穏やかに、それは優しく二人の間に積み重なっていった。

 それは多分もしかしたら、幸せともいえるような穏やかな日々だった。

 冷静に考える時間が出来たことで、菫と出会う前の、自分が徐々に削られていく日々は異常だったということに幸太郎はやっと気付いた。そこまで疲弊していた自分に笑えてしまったほどだった。

 菫と過ごす日々は、穏やかだった。

 それぞれの一日を過ごし、夕方にお茶をしながらぽつりぽつりとお互いの話をたまに交わす。二人ともそこまで饒舌な方ではないので、会話しているよりも沈黙が漂っている時間の方が多かったが、その静かさは嫌なものではなかった。

 嫌なものではなかった、のだ。嫌なものではなくなったのだ、いつの間にか。

 幸太郎はいつの間にかこの時間が終わる日を、惜しいと思うようになった。


「お兄ちゃん彼女出来た?」

 どさりと、妹の着替えを詰めた鞄が床に落ちた。

 動揺のような何かを隠すように幸太郎は鞄をゆっくり拾い上げ、ベッドの隣にある椅子に座る。

「……出来てませんけど」

「何で敬語」

「いやなんか、なんかなんとなく」

「それで彼女は?」

「いない。どうしてそんなこと急に思ったんだよ」

 妹の美幸は、にやにやと笑いをこらえるようにしている。

 今日は調子がいいようだ。

 淡い色のパジャマからのぞく身体は細く、左手は点滴と繋がっているけれど、顔の血色がいい。表情にも無理をしている様子は見えなかった。

「お兄ちゃん優しくなったから」

「俺はもともと優しいだろうが」

 髪の毛をぐちゃぐちゃにするように頭を撫でると、「やめてよ」と美幸から抗議の声が上がった。

「もう! 髪の毛ぐちゃぐちゃになっちゃったじゃん」

「ごめんごめん」

 子供の頃ねだられて髪の毛を結んでやっていた日のように、幸太郎は美幸の髪の毛を丁寧に手で梳いた。

 中学生になってからはそうされることに気恥ずかしさがあるのか、少しむすっとした表情をしているが、口元が緩んでいるので嫌なわけではないらしい。

「やっぱり前よりも優しいよ」

「そうか?」

「うん。なんか、前は、ちょっとピリピリしてた」

「……ごめんな」

 今なら分かる。学校とアルバイトとお見舞いの毎日に幸太郎は窒息しそうになっていた。当然、妹への態度だってどんどん雑になっていたのだ。

「私のせいでお兄ちゃんの時間を奪ってごめんね」

「違う! ……違う。お前のせいじゃない、誰のせいでもない、俺が、ただ」

「うん、そうだね。誰のせいでもないね。だからお兄ちゃんもごめんなんて言わないで」

 じわりと感情が目元から滲み出そうになった。妹の前では絶対に情けないところを見せたくないという一心でそれを堪える。

 美幸は小さくて、細くて、笑っていた次の日にすら会えなくなるんじゃないかと思うほどに、身体が弱くて。守ってやりたくて、大事にしたくて、でも疎ましく思う日もあって、でも可愛くて、子供で、だから、自分ばかりが守っているのだと思っていた。――それなのに。

「美幸、お前、大きくなったなあ」

「お父さんみたいなこと言わないでよ、お兄ちゃん」

「中学生だもんな、そうだよな」

「お兄ちゃん、だから……」

 美幸が自分の目元を見ていることに気付いて、幸太郎は椅子から立ち上がって背中を向けた。

「ちょっと、あれだ、あれ、俺トイレ行ってくるわ」

「じゃあ戻ってくるとき売店行って飲み物買ってきてよ」

 涙がおさまるまで戻らなくていいための、遅くなっても構わない遠回しの理由をくれる。なんて察しのいい妹だろう。

 病室から出ると情けないと思いながら鼻をすすった幸太郎だが、不思議と胸は軽かった。


 プリントをぼんやりと眺める。が、内容はちっとも頭に入ってこない。

 高校二年生の夏。

 本来なら受験も就職も関係ない最後の夏休みを誰もが喜ぶものだ。そういう空気がホームルーム前の教室には漂っている。

(付き合いたいとか、そういうんじゃないんだよな……)

 菫に対する自分の感情を幸太郎はもて余していた。友達でもない、付き合いたいわけでもない、嫌いではない知り合い。飼い主と犬。というには、あまりにも自由すぎる関係性。

 嫌いではない。けれど好きかと問われれば分からないと答えるしかない。奇妙な関係性で繋がりながらも、どこまでも知り合い以上の関係性ではない。

 菫が何を考えているのかも、いまだに分からないままだ。

 聞こうとした日は何度もあった。けれど尋ねられないまま毎回終わった。多分、聞けば、終わってしまうのだろうと漠然とした予感があった。

(だけどどうせ、今日が最後だ)

 聞いてしまおう。全部。菫と会うことはきっと今後もうないのだから。

 菫のことは嫌いではないから、ほんの少し惜しいと思うが、そもそも出会うはずのない二人だったのだ。戻るだけだと思えばそこまで嘆くほどのことではない。

「幸太郎! 幸太郎は夏休みもバイトばっかか?」

 後ろの席の松本に背中を叩かれ振り返ると、夏休みが楽しみで仕方ないという笑顔が幸太郎に向けられた。

「あー、まあ、多分」

 菫との約束は今日までだ。アルバイトはもう辞めてはいたのだが、夏休みくらい短期で何かやってもいいだろう。

「皆で花火行こうって話してんだけどさ、一日くらい遊ばね?」

「……そうだな」

「まじ!? おい幸太郎来るって!」

 「まじで?」「珍しいじゃん」「え、俺も行こ」「幸太郎来んの?」「俺たこ焼き食いたい」「俺はお好み焼きがいい」とわらわらとクラスメイトが幸太郎の机周りに集まってきた。

「奢らねえよ!」

「自分の食い物は自分で買うに決まってんだろ」

 お好み焼きがいいと言っていた細山が、腕を組んで誇らしげにしている。どうやらそういう主義らしい。

「え? じゃあ何でお前ら集まってきたの?」

「幸太郎が行くって言うから」

「な、え、なに、お前ら……気持ちわる」

 幸太郎は出来るだけ周りのクラスメイトから距離を取ろうとした。

「おい気持ち悪いはやめろ」

「すまん。いやでも俺それはちょっと男より女子から言われたかった……」

「幸太郎中学の時は彼女いたじゃん」

「一週間で振られたやつな」

 中学も一緒だった松本が、幸太郎よりも先に答えて笑っている。

「こいつなんだかんだ女子に優しいからそこそこモテるんだよな。妹のおかげ?」

「妹がいる人生なのを両親に感謝しろ。俺だって妹欲しかった。そしてモテたかった」

「そんないいもんじゃねえよ妹も。人間扱いされない兄がここにいる」

「来世にでも期待しとけ」

 話は脱線しまくっているが、誰も気にしていない。脱力した幸太郎は机に突っ伏した。

「いや本当になんなんだよ、いつもはそんな……」

「こう見えてもさあ、気を遣ってたのよ俺ら」

 後ろの席で頬杖をつきながら、松本が珍しく真面目な顔をする。

「幸太郎、すぐ帰るのは変わんないけど最近は余裕ありそうだし。じゃあ一日くらい遊べんじゃん? って。せっかくの高二の夏休みだろ? 一緒に遊べるなら遊びたいじゃん」

 そう言って、にかりと笑った松本は控えめに言っても良い男で、自分の格好悪さに幸太郎は気付いてしまった。

 相談相手がどこにもいないとか、自分ばかりが妹を守ってると思ったりとか、友達に自分の事情は隠せてると思い込んでたりとか、自分はなんて傲慢で恥ずかしい奴だろう。

 格好悪い。格好悪いなあ俺。

「お? 泣くか?」

「泣くのか? 泣いちゃうのか?」

「写真撮ってやるよ」

「記念記念」

 撮るなと言って松本のスマホを奪うと、どいつもこいつも馬鹿みたいに笑って、幸太郎も久しぶりに腹が痛くなるまで笑った。


 ホームルームが終わるといつも通り迅速に自転車置き場まで向かう。これで最後かと思うと少し感慨深くなった。

 あの日、菫と会った日。倒れる前に幸太郎が思っていたのは、眠いと疲れた。これだけだった。

 学校バイト学校バイトの繰り返しに重ねて、その日は登校中に自転車がパンクした。もう自分の人生はこれから先ずっと不幸なんじゃないかと、下を向きながらずるずると歩いていたのだ。――それがまさか。

(人生ってわかんねえもんだな)

 妹は笑ってるし、友達と遊びにも行く、幸太郎は今自分のことを不幸だなんて思えない。

 それを幸太郎にくれたのは、どう考えても菫で、だからこれから先少しずつでも菫にお金を返していこうと思っている。

 今すぐは無理だけれど、高校を卒業して、就職して、大人になってからでも返していこうと。そうしないと菫と対等になる日は来ない。

 幸太郎は今日で菫との関係を、おしまいにする気はもうないのだ。

 やべえ奴だと思った変なお嬢様だったが、幸太郎にとっては恩人だ。

 感謝しているし、菫の隣は、まあ、そこそこ居心地も良い。だから彼女もそう望んでくれるなら、たまに会うくらいはしたいと思う。

「おかえりなさい」

「ただいま帰りました」

 じりじりと太陽に照らされながらも菫は涼やかに帰宅した。

「今日はレモンタルトだそうですよ」

「さっぱりしてよさそうね」

 幸太郎の菫に対する敬語もここ三ヶ月の間にすっかり板についた。逆に菫はいつの間にか敬語を使わずに話せるようになっていた。

 基本的に彼女は誰に対しても敬語で話すのだが、最初の頃に幸太郎から敬語で話すのは飼い主としておかしいと言われてから変えたのだ。

「米山さん、ありがとう。今日は席を外してもらえるかしら」

「かしこまりました」

「吉田さんも覗くのは止めて下さいね」

 棚で死角になっていた場所から吉田がしぶしぶ姿を現す。

「かしこまりましたお嬢様。おいタロ、お嬢様に変なことするなよ」

「するわけねえだろ」

 口を開けば言い合いをよくしている二人だが、ある意味とても仲が良いともいえる。

 最初の頃とは違って気安さからくる憎まれ口だ。これも三ヶ月の間に変わったことの一つ。

「顔色、良くなったわね」

「……顔色?」

「初めて会った日のタロは、これはもしかして死んでいるのかしらってくらいに顔色が悪いし、目の隈が本当にひどかったのよ」

 菫はあんなにも疲れ果てた同世代を見るのは始めてだった。彼女の通っている高校はエスカレーター式の女学院で、基本的に実家が裕福な生徒が多い。校則でアルバイトも禁止されているし、そもそもアルバイトをしようと考える生徒がほぼいない。

「放っておいたらこのままここで死んでしまうのではないかと思ったの」

「もしかしてそれが俺を拾った理由ですか?」

「……さあ、どうでしょうね」

 優雅な仕草で菫はレモンタルトを一口サイズにし、口に入れた。

「理由くらい教えてくれてもいいんじゃないですか」

「美味しいわね、このレモンタルト。タロも話していないで食べるといいわ」

 どうやら会話をする気はないらしい。けれど幸太郎だって簡単に引き下がるつもりもない。

「妹。明日、退院します」

「それは良かった」

「父親。来週帰ってきます」

「それも良かった。これからのことよく話し合うといいわ」

 他人事だ。いや他人事なのだが、入院費を工面しているとは思えないくらいにあっさりとしている。

「俺は感謝してますよ。お嬢様のおかげで助かった」

「あなたあの日は私のこと頭おかしいって言っていたわね」

「それは、まあ、俺も混乱していたというか、だって困惑するでしょう。いきなり犬になりなさいとか言われたら」

「そうね」

「人生で一番の衝撃発言でしたからね、あれ」

「そう。それなら良かった」

 返答の何かが少し引っかかった気がしたが、幸太郎は説得を続けた。

「お嬢様に肩代わりしてもらった入院費、今は無理ですけど、いつかは返したいと思ってます」

「………………そんなことしなくていいわ」

「返します」

「いりません」

「返したいんです」

「別のことに使いなさい」

「返させて下さい」

「タロいい加減にして」

 ぴしゃりと菫は強く拒絶した。

「俺は、……これからだってお嬢様とたまに話すくらいはしたいんですよ。でもそうするには負い目がある。だってやっぱり釣り合ってない。俺ばっか貰ってばかりだ」

「……え?」

「だってそうでしょう。俺がお嬢様に返せたことなんて、ただ玄関で待っておかえりなさいって言っただけですよ。それと一年分の入院費なんてちっとも釣り合ってない」

「そうではなくて……これからって……」

 菫がこれほどまでに動揺しているのを幸太郎は初めて見た。

「タロ、あなた、まさか明日からも私と会う気だったの……?」

「いやこれまでみたく毎日ではないですけど、たまにならって思ったんですが……お嬢様まさか今日で、俺とは、はい、さようなら。だとか考えてただなんて言わないですよね?」

 凝視する幸太郎から菫は目をそらした、その動作が全てを説明している。

「ひっでえ! 三ヶ月とはいえ週五で会ってた相手をそんな簡単に切り捨てますか?」

「切り捨てたわけではないわよ」

「じゃあ、何でですか」

 レモンタルトをもう一口。そして紅茶を流し込んでから彼女はやっと幸太郎に目を向けた。

「だってタロ本当は不本意だったでしょう」

「何が」

「犬になるなんて嫌だったでしょう」

「それは、……まあ、そうでしたけど」

「不本意なことを押し付けてきた女となんて、もう会いたくないって思うのが当たり前ではない?」

 当たり前の顔をして菫が言うので、幸太郎はだんだん腹が立ってきた。

 最初は、確かにそうだった。菫は意味の分からないことを言うし、吉田は幸太郎の後頭部を容赦なく叩くし、金持ちの道楽に付き合わされて最悪だと思っていた。けれどそれは最初の話だ。

 菫は幸太郎に何かを強要するようなことはその後一度もなかった。吉田だっていつも間に合うように到着時間を連絡したりフォローしてくれていた。米山の用意してくれるお茶もお菓子もいつも美味しかった。

 だから始まりだけを見て、二度と会いたくないと幸太郎が思うはずはないのだ。それなのに、菫はそれを全て無視するようなことを言う。

 二人がこれまで過ごしてきた時間を、悪くはないと思っていたのは自分だけだったのかと虚しさも覚えた。

「俺は、会いたいですけどね。さっきも言いましたけど、俺はこれからもお嬢様に会いたいと思ってます」

「無理しなくてもいいのよ。それにちゃんと妹さんの治療費は一年分ちゃんと私に請求されるわ」

「そうじゃない」

「タロ、どうしたの?」

「あんたは、少しもそうは思ってくれなかったんですかね」

「分からないわ。……私、タロの言いたいことがちっとも分からない」

 本当に困っているような菫に、幸太郎はもう何と言えばいいのか分からなくなってきた。

「ならせめて教えて下さい。だっておかしいじゃないですか。俺がこの三ヶ月見てきた西園寺菫は、初対面の相手に犬になれなんてめちゃくちゃなことを言う人間じゃない」

 幸太郎がこれまで見てきた西園寺菫は、生粋のお嬢様で、表情は少し薄いが情はある人間だ。我儘なんて一度も聞いたことはないし、むしろ吉田の幸太郎への仕打ちはいつも止めに入る。常識人のはずなのだ。あの一言だけが異質だった。

「もう会わないっていうなら、せめてそれくらい教えろよ」

 うなだれるようにそうこぼした幸太郎を見て、それでも躊躇はしていたが彼女はやっと重い口を開いた。

「あなたなら、泣いてくれそうだと思ったの」

「…………は?」

「いつかどこかで私が死んだって知ったら、あなたなら泣いてくれそうだと思ったの」

 想像もしていない理由だった。

「私のために泣いてくれる人を探していたの」

「あんたのために泣く人間はもういるだろう」

「……どうでしょうね」

 冷めた目をした後、菫は薄く微笑んだ。

「タロは、私が死んだら泣いてくれるでしょ」

「……どうだろうな」

「泣くわよ。泣くわ。泣いてくれる、私には分かる」

「そんなのその時にならないと分かんねえよ。……それでそれがどうして犬になれに繋がるんですか」

「だって私いつ死ぬか分からないもの。健康だしずっと先のことになるかもしれない。けれど犬になれなんて言った頭のおかしい女のことは、中々忘れられないでしょう?」

 菫が冗談ではなくずっと本心で話していることに気付き、幸太郎は愕然とした。

「馬鹿だろ」

「期末テストは学年一位よ」

「そういう馬鹿じゃねえよ、馬鹿」

「私は馬鹿ではありません」

「馬鹿じゃなかったらズレてんだよ。馬鹿だろ、なんでそんなことで、」

「私にとってはそんなことではないからよ」

 リビングの時計の針の音が聞こえる。それほどの沈黙が二人の間に流れた。

「……タロと会うのも今日限りになることですし、振り回したお詫びに少し話しましょうか」

「話?」

「だって、納得しないとタロ明日からもここに来てしまいそうなんだもの。それに、私はあなたのことを知っているけど、あなたは私のことを知らないからフェアじゃないかなとさっき思ったの」

「そうかよ」

 顔に出さないようにはしていたが、菫の今日限りという言葉に幸太郎は傷付いていた。


 西園寺菫の人生の話をしよう。

 子供の頃から西園寺菫はいつでも一人だった。これは物理的に一人ぼっちだったという意味ではない。西園寺家はお手伝いさんを雇っているし、それ以外にも使用人がいるので家に人はいた。

 だから正しく言うのなら心理的な意味で、西園寺菫はいつでも一人だった。

 祖父も祖母も母親も父親も彼女にはいる。でも、いるだけだ。

 朝、目を覚ませば両親はすでに出社している。

 夜、菫が眠るまでに両親は帰ってこない。

 物心つく頃からずっとそんな調子だった。

 挨拶もしない、食事も別、休日もたまにしかいない。いたとしても会話がない。会話したとしても、成績か進路の話ばかりだ。

 祖父母が住んでいるのは別邸で、頻繁に会うこともなかった。それに菫の祖父母は世の一般的な祖父母とは違って、孫を溺愛するタイプの人達ではなかった。

 だから西園寺菫は家族の愛を知らない。無償の愛など、この世にはないと思っていた。

 友達もいなかった。出来なかった。

 西園寺家は、華族の流れをくむ家柄で昭和初期に事業を始め成功した歴史のある家系だ。無駄に箔のある家に産まれると、それだけでレッテルが貼られる。

 明確な格差の前では、純粋な友達は菫に出来なかった。

 もしも菫がもう少し子供らしく言葉や態度の裏を読めず、単純であればそれは出来たのかもしれない。けれど立場がそれを許さなかった、菫はなるべくして今の菫になったのだ。

 西園寺菫が小学三年生の秋、曾祖父が亡くなった。お通夜も葬式も両親と参列した。菫は身内の式はそれが初めてだった。広い会場にひしめく喪服の人々。はばかりながらも囁かれる声。

 曾祖父の葬式では、涙を流す人は一人もいなかった。

 その時は、まだ、分かっていなかった。それがどれほど乾燥した葬儀であったのか。けれど成長するにつれ、心に引っ掛かりを覚えるようになった。

 その刺はいつしか菫の内側で成長して、中学生になり高校生になった今では明確なものとして存在している。

 ――あれだけは、嫌だ。と。

 誰かに自分のために心から泣いてほしい。一人でいい。たった一人が泣いてくれるだけで、菫は。

 子供の頃から一人で過ごしていた菫は、家族と会わなくても友達がいなくても淋しいと思うことはなかった。それまでの菫の人生に淋しいは存在していなかった。けれど曾祖父の葬式をきっかけに次第に生まれた。

 淋しいを知ってしまった。

 自分の隣を見ればいつだって誰もいない。自分から望むこともなかったのだから当たり前だ。曾祖父と同じだ、菫にも、きっといない。

 嫌だと強烈に思った。せめて、せめてと思う。せめて一人。一人でいい。一人だけでいい。せめて。せめて。一人。だって、だって、最後に誰も泣いてくれない人生の何て惨めなことだろう。

 菫は、淋しい人間になりたくなかった。


「そこで見つけたのがあなた」

「…………うん」

 幸太郎は、ただ静かに菫の話を聞いていた。

「家の前に倒れていた日のことじゃないわよ」

「え?」

「まあ、あなたが知ってるわけないわ。一方的に私が見かけただけだもの」

 それは、去年の冬の話。

「横断歩道から飛び出した子供を助けたことは覚えている?」

「子供……あ、ああ、そういえば」

「私、あの時対抗車線の車にいたのよ」

 その日、横断歩道を渡った後に、子供が急に走って反対側に戻ろうとした。どうやら何か落とし物をしたようで、それ目がけて真っ直ぐに走っていったのだ。タイミングの悪いことに子供が走り出したと同時に信号は赤に変わっていた。

「あれは、まあ、間に合って良かったよ。あの子も膝擦りむいたくらいだったし」

「あなた泣きながら怒っていたわ」

 たまたま隣を歩いていただけだったのだが、急に方向転換して走り出した子供に驚いて目で追うと、赤信号に突っ込んでいったのだ。幸太郎は咄嗟に追いかけ歩道側に子供を引き寄せた。

「見てたのかよ!」

「だから見かけたって最初から言ってるでしょう」

「……あの日は、美幸が、ちょっと体調よくなくて、病院に行った帰り道で、それで、もし助けられてなかったら、腕の中の、この、ちっさい子死んでたかもって思ったら、その」

「子供が泣く暇もないくらいあなたが泣いてたわね」

 子供が無事なのを見てほっとしたのもつかの間、幸太郎はボロボロと大粒の涙を溢しながら「気をつけろ」「怪我はないか」「信号はちゃんと見て渡れ」「本当に危なかったんだぞ」と子供に説教を始めたのだ。

 菫は車の窓を開けてその様子を見ていたが、子供の無事を確認した吉田によってすぐに車は動き出してしまった。

「ああ、まあ、まあそうですね」

「だから、この人、いいかもなって思ったの」

 知り合いではなさそうだった。縁もゆかりもない子供のために、本気で泣いて怒る彼。

 衝撃だった。

 これまでの菫の人生にはいない人間だった。

「私のために泣いてくれるなら、この人が良いって思ったの」

 菫が出会っていないだけで幸太郎のような人は他にもいることは分かっていた。でも、彼が良いと思ったのだ。

 この人にいつか私のために泣いてほしいと。

「家の前であなたが倒れてるのを見た時は本当に驚いた」

「偶然だよな?」

「偶然に決まっているでしょう。私あなたの名前も知らなかったもの」

「それで、俺にいつか泣いてもらうためにこんなこと始めたのか」

「……ええ」

 もうこんなチャンスが来ることはないと思った。菫の人生はとっくに決まっていて、その中で出会う相手もだいたい予想がつくのだ。

「馬鹿だろ」

「私は馬鹿ではありません」

「馬鹿だよ馬鹿すげえ馬鹿だ」

「ですから、私は……」

 この時の、菫の気持ちは、きっと他の誰にも分からない。

「あの、ええと、泣くのがちょっと早いわ」

「そうかよ」

「私、あの、お葬式の時にでも泣いてくれれば、それだけで良かったのよ」

「うるせえ馬鹿」

 一人でいいから誰かに泣いてほしいなんて、そんな些細な願いを幸太郎は考えたこともなかった。だってそんなの願わなくたって、叶う。

 菫に一人だと思わせた周りの人間にもムカつくけば、一人だと思い込んでいる菫にもムカつく。

 けれど、何より、菫が淋しいを分かっていないことが無性に悲しくて仕方なかった。

 葬式がどうのじゃない。今、生きているお前が、淋しいのだろうと、どうすればこの頑固な女に伝わるのだろう。

「菫」

「……はい」

「吉田さんとか、米山さんとか、年齢の問題は、まあ置いといて。もしもお前が死んだら泣く人間はいただろう」

「そうかもしれないわね。……確かに吉田さんも米山さんも私によくしてくれる。でも、所詮は勤め先の娘というだけよ」

 菫の返答を聞いても幸太郎は驚かなかった。どうせそう思っているんだろうなと予想していたのだ。

「だからあんたは俺のこと手放そうとしてるの?」

「そう、なのかしらね……」

「分かってねえんだ。いつも理性的なお嬢様のくせに珍しいな」

「だって、いつまでもあなたの時間を奪うのは悪いし、これだけインパクトのあることをすれば、これからも忘れられなさそうだし、あなたはきっとそれでも泣いてくれそうだし」

「菫は多分勘違いしてると思うけど、俺、そこまで優しい人間じゃねえよ」

 ここ最近涙もろくなってしまっていたが、もともと幸太郎はそんなに泣き虫というわけではないのだ。

「でも今あなた」

「俺は菫が思っているより菫のことが好きだよ」

 ぽかんと菫が何を言われたのか分からないように固まっている。

「ちょっと知り合いくらいの相手のために泣くほど、俺はお人好しじゃない」

 幸太郎は立ち上がると彼女の座るソファの隣にしゃがみこんだ。

 俯く菫の顔を下から覗きこむと、彼女は迷子の子供のような顔をしている。

「明日からは他人です、みたいなこと言うな。淋しいだろう」

「でも、だけど、それだと」

 菫は最初から三ヶ月で終わらせることを前提に全てを始めた。幸太郎とはもう二度と会わないと思っていたから人生で初めて我儘を言えたのだ。

「ならいっそ最初からやり直せばいいだろう」

 もうこれしかないだろうと幸太郎は菫に手を差し出した。何を言っても彼女が納得しないのだから仕方ない。

「はじめまして、多賀谷幸太郎です」

 幸太郎が差し出した手を、おそるおそる菫が取っま。

「………………はじめまして、西園寺菫です」

 幸太郎は息を吸い込んだ、言葉に力が宿るように。

「西園寺菫さん、俺と友達になって下さい」

 じわりと喜びが滲んだように彼女の表情が笑顔に変わった。それは、幸太郎が初めて見た菫の心からの笑顔だった。

「はい」

 彼女のその笑顔を見て、幸太郎は友達と言ってしまったことをほんの少し間違えたかなと思った。けれど彼が自分の発言を大いに後悔するのは、今はまだ先の話。

 これは、拾われた男の子と拾った女の子がただ友達になるために遠い回り道をする話だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

拾ってあげるから、私の犬になりなさい 軒下ツバメ @nokishitatsubame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ