拾ってあげるから、私の犬になりなさい
軒下ツバメ
前編
話が、長い。
じりじりと時間が過ぎていく苛立ちでつい幸太郎は貧乏揺すりをしてしまった。
確か今日はいつもよりも早く帰ってくるはずなのだ、彼女は。
だから幸太郎はいつも以上に迅速に帰宅しなくてはならない。だというのに担任はいつまでもぐだぐだと次の期末こそ平均点がどうのこうのと――。
「それじゃあちゃんと勉強もするように」
担任の最後の「に」の言葉と同時に教室を飛び出した。ここ最近ですっかり慣れた最短ルートで自転車置き場まで走る。
鍵をポケットから取り出して解錠すると、スマホに通知が届いた。確認すると「二十分後に到着」と画面にメッセージが表示されている。
「よっしゃ! 間に合う!」
勢いにまかせたまま自転車をこいだ。
幸太郎の通っている高校から目的地までは、だいたい十五分もあれば到着する。
どうやら今日も無事に間に合ったようだという安堵で、先程までの無駄な焦りが無くなる。
軽快にペダルを踏んでいると、額から汗が流れていった。
梅雨もほぼ終わりだ。これからどんどん暑くなる。
上がり続ける気温のことを思うと、明日も明後日も自転車ダッシュを繰り返す未来にほんの少し憂鬱になった。
(俺、なんでこんなことしてるんだろう……)
勿論、理由があるからこんな疲れることを日々しているわけだが、貴重な高校の青春の一ページを自分は何で埋めようとしているのかと考えると現実逃避の一つくらいしたくなるのだ。
幸太郎が自分の未来について思いを馳せていると、もう見慣れた目的地の近くまで来ていた。
長く続く塀。
塀の隙間からちらちら見える庭園。そして不必要にでかい、門としか表現できないサイズの入り口。
インターホンを押すと名乗らずとも柵が自動で開いていく。自転車を降り、押しながら気持ち早足で、整えられた庭園を横目に玄関に向かった。
いつもの場所に自転車をとめていると、開いた柵の向こうから車が敷地内に入ってくるのが目の端で見えた。
彼女が帰ってきたのだ。
どうやら今日は本当にギリギリだったらしい。幸太郎は急いで玄関前に待機した。
玄関前で止まった車から、ドアが開き、真っ白な半袖のセーラー服を着た少女が降りてくる。
「…………おかえりなさい」
「ただいま帰りました。よく間に合ったわね」
艶やかな黒髪。涼しげで綺麗な顔立ち。素っ気ない声色で彼女は今日もただいまと言った。
「それはもう、犬ですから、走りましたよ。それはもう、ね。なんてったって犬ですからね」
自棄っぱちな幸太郎の発言に、セーラー服の彼女はそれまでの無表情に呆れを滲ませた。
「走ったの? でもあなた自転車通学じゃない」
「自転車のペダルを踏むのは俺の足ですよ」
「屁理屈は可愛くないわよタロ」
「揚げ足とるのも品がないですよ、あんたお嬢様でしょう」
「残念ながらお嬢様という生き物はね、建前と揚げ足とりで出来ているの」
玄関で靴を脱ぎながら彼女が言う。
「最悪です、お嬢様への夢が崩れました。もうちょっとこう、穏やかっていうかおおらかな生き物じゃないんですか?」
彼女のペースに合わせて幸太郎は忠犬のように後ろをついて歩いていった。
「おおらかな子もいるけれど、……というかあなたお嬢様に対して夢なんかもっていたの?」
「俺の日常では本来会わないはずの人種なので」
「……そう?」
遊びのような会話をしながらリビングに入ると、お手伝いさんが出迎えてくれた。一言二言帰宅の挨拶をお手伝いさんと交わすと、幸太郎を振り返り、主人の義務を果たすように彼女は手招く。
「今日のお茶請けはフルーツタルトですって、タロも食べてから帰りなさい」
「……いつもどうも」
幸太郎が毎日放課後自転車を必死にこぐのは、ただ彼女に「おかえりなさい」と言うためだ。
ただ挨拶を一言告げる。それだけのために毎日汗を流している。
彼女は幸太郎の家族ではない。恋人というわけでもなければ友達ですらない。
二人の関係性は、人に説明するのも理解してもらうのも少し難しい。
彼女が帰宅したら幸太郎がおかえりなさいと言って、お手伝いさんが毎日用意してくれるおやつを食べる。そんな毎日を繰り返している。
一見すれば仲の良い友人同士のようだが、それ以外では会うこともない二人だ。学校も違えば共通の知り合いもいない。そして二人が並ぶと、とてもちぐはぐに見えるのだ。一緒にいる姿は、違和感しかない。
誰が見ても相当に奇妙な組み合わせに見えるだろう。そして会って何をしているかを聞けば謎はますます深まるだけであろう。当事者でなければ幸太郎も同じことを思うはずだ。
だが、これが二人の在り方なのだ。仕方ないのだ。彼女がそう望んだのだから。
幸太郎にとっては不服な面が多いがそれも仕方ない。彼に決定権など無いのだから仕方ない。
多賀谷幸太郎は、拾われたのだから。
二人の出会いは、二ヶ月程前のことになる。
五月。ゴールデンウィーク明け。春というには暑い日に、西園寺菫は人間を拾った。
その日、家の敷地から公道に出ようとした瞬間に菫の乗っていた車が急停車した。
驚かせてしまったことを一言謝ると「お待ち下さい」と言って運転手が外に何かを確認しに向かった。
窓を開けて菫も外の様子を伺うと、運転手が腰をかがめているのが見えた。どうやら地面に何かが落ちているらしい。
運転手が何度も声をかけている所を見ると落ちているのは生き物のようだ。こうも動かないなら猫だろうかと思い、菫も車から降りて見に行くことにした。
テコでも動かない意思の強い猫はどのような見た目だろうと期待しながら近付いていく。だが、運転手の吉田が根気強く呼び掛けるそれは全くもって菫の予想外の存在だった。
地面に落ちていたのは、学ランを着た、高校生らしき男の子だったのだ。
「行き倒れって本当に存在するのね」
「人が簡単に行き倒れていたら困りますよお嬢様」
率直な感想を咄嗟に吉田が否定する。菫も所詮は箱入りのお嬢様なので、簡単に認識がズレかねないのだ。
「けれど吉田さん、それではこの人は行き倒れではないの?」
「………………転んで気絶した人ですかね」
無理があるなと分かっていながらも吉田は言い切った。
「それを行き倒れというのではないですか?」
「お嬢様ここは比較的安全な日本ですよ、行き倒れなんか本当にめったにないはずなんです。行き倒れる要素がそもそも満たされることがあまりないんですよ。行き倒れに遭遇するなんて宝くじが当たるよりも珍しい確率です」
「宝くじが当たる確率ですか」
「比喩ですので気になさらないで下さい」
真剣に菫が確率について考えそうだったので吉田は即座に話を打ち切る。
「早くこの子を起こして学校へ向かいましょう。お嬢様が遅刻してしまいます」
先程までは声をかけて起こそうとしていた吉田だっが、らちが明かないとみて、うつ伏せで倒れる彼の肩を叩きはじめた。しかしそれでも彼は目を覚まさない。
「君。起きて。一体どこの子ですか。学校は? どうしてこんなところにいるの。起きな……さい…………」
あまりにも目を覚まさない彼を心配に思ったのか、吉田は急に男の子の脈を確認しだした。ほっとした様子をみると生きてはいるようだ。
生存確認をすると再び吉田は奮闘したが、彼は身動ぎ一つしない。
あまりの熟睡ぶりにさすがに吉田も苛立ち水でもかけてやろうかと思うが、腕時計を確認するとそんな時間すらもう残っていないようだった。このままでは本当に菫が遅刻してしまう。
「仕方ないから警察にでも頼んで保護してもらいましょう」
車が通れるように、吉田は男の子を柵の内側に入れるため両腕を持って引きずった。顔が大惨事にならないように向きだけ仰向けにしてやったのだから、たんこぶができてようが痣ができてようが文句は受け付けない。
男子高校生を抱えるのはさすがに重いし疲れるし、そもそもこんないつまでも起きない奴を丁寧に運んでやろうなんて更々思わない吉田だ。
「……吉田さん人を引きずるのはどうなんでしょう」
「大丈夫です。男子高校生なんてちょっと手荒に扱っても問題ないです。こいつ頑丈そうですし、尚更問題ないですよお嬢様。そんなことより、米山さんに彼の事情を説明しておきますね」
米山とは西園寺家で働いているお手伝いさんの名前だ。吉田はスマホを取り出し、米山に電話をかけようとした。だが、それを何か考え込んでいた菫が制止する。
「吉田さん、お願いがあるのですが」
彼が目を覚ますと、見慣れない天井がそこにあった。
「は……?」
部屋を見渡しても見覚えのない空間だった。シンプルだが見るからに高級そうな家具が置かれている広々とした一室だ。
なるほど、夢だな。と結論づけて幸太郎はもう一眠りすることにした。
「おはようございます。もう夕方ですが」
しかし目を閉じかけたところで、部屋のドアが閉まる音と共に声をかけられた。
「…………誰?」
ぱっちりと目を開き起き上がって声のした方に視線を向けると、四十代くらいの女性が呆れた様子で幸太郎に近付いてくる。
「あなた本当にただの寝不足だったんですね。一応診てもらいはしましたが、あんまりにも起きないからやはり何かの病気ではないかと思っていました」
「はあ……、え? 診てもらったってどういうことですか? 病気? あ、医者にですか? いや俺が? どうして?」
ぽかんとした調子の幸太郎を見て、すでに呆れていた女性は彼に聞こえるように溜め息をついた後、説明をはじめた。
今日の朝、彼がこの家の前に行き倒れていたこと。目を覚まさないので仕方なく、この家の客間で寝かせていたこと。学ランでどこの高校の生徒かは分かったが、念のため学生証の確認はしたこと。あまりにも目を覚まさないので医者に診てもらったこと。
そしてこの家のお嬢様が先程帰宅したことを女性は教えてくれた。
「なんか、物凄くご迷惑をかけたようですいません……お嬢様?」
「はい、お嬢様です」
「あの……え? じゃあ、あなたは? その子のお母さん、ですか?」
母親が娘のことをお嬢様とは言わないだろうに、混乱した幸太郎はすぐ考えれば分かることをつい聞いてしまった。
「私は西園寺家の家政婦をしております、米山と申します」
家政婦って何だっけ。ということを寝起きの頭で幸太郎は必死に考えた。家政婦というのは、要するに仕事として家事を代わりにしてくれる人なわけで、サスペンスドラマでうっかり事件を目撃してしまう人だったりするわけで、それじゃあ俺はもしかして今事件に巻き込まれていたりするわけだろうか。
そんなしょうもないことが頭のなかをぐるぐるとめぐる。
まだ寝ぼけているせいで思考がどうにもまとまらないようだ。
「問題ないようでしたら、起きてこちらに。案内しますので着いてきて下さい」
「…………分かりました」
わけがわからないながらもベッドの脇に置いてあった自分の鞄を掴み、幸太郎は米山の後を追った。
客間だと米山が言っていた部屋もそうではあったのだが、目に入る端々の物の何もかもから高級そうな気配がする。
飾られている絵画。細やかな模様の入った扉。一目だけでは無地に見えるがよく見ると薄く柄になっている壁紙。そして幸太郎が履いているふかふかのスリッパ。どれもこれまで幸太郎が生きてきた中で遭遇してこなかった類いの高価な品物に見える。
もしかしてさっき米山が言っていたお嬢様というのは本当にお嬢様のことで、自分はこれから話でしか聞いたことの無いお嬢様という人種に会うのだろうか。迷惑をかけたのは申し訳ないと思いながらも幸太郎は少し浮き足だってしまった。お嬢様なんて日常ではお目にかからない存在なので、芸能人と会うような感覚になっていたのだ。
「失礼します。目を覚まされましたのでお連れしました」
米山に連れられ向かったリビングのソファには、セーラー服を着た女の子が座っていた。
「おはようございます。お身体はもう大丈夫ですか?」
「あ、はい。おはようございます。大丈夫です」
艶やかな長い黒髪。整った綺麗な顔。品のある所作。絵に描いたような理想のお嬢様がそこにいた。
西園寺菫と申します。と名乗ると、彼女は対面に置かれているソファを右手で指した。
「立ち話もなんですし、お座り下さい」
「ありがとうございます。あ、俺。……僕? いや、私か? ええと、とにかく、多賀谷幸太郎です。なんか迷惑かけたみたいですみません」
ソファに座ると、米山がお茶を用意してくれたのでお礼を伝える。せっかくなので口をつけ一息ついていると、菫が幸太郎の顔をまじまじと眺めてきた。
「随分寝不足だったようですね」
不躾な視線に少し驚いたが、どうやら心配してくれていたようだ。
「あー、まあ、そうですね。バイトしてるんで」
「寝不足で行き倒れる程にアルバイトをしているのですか?」
「今ちょっと忙しいんですよ。でも今だけです」
この子は一生バイトなんかとは縁がないんだろうな、と彼女が悪いわけでもないのに複雑な気持ちになった。しなくてもいいなら幸太郎だってバイトなんてせずに遊びたい。
「アルバイトはいつまで続けるのですか?」
「いつまでって、辞める予定はないですよ」
きっと彼女は学生がよくやる小遣い稼ぎのバイトだと思っているのだろう。けれど幸太郎の場合はそうではない。寝不足になろうと疲労に負けそうになっても、どうしても幸太郎はバイトを辞めるわけにはいかないのだ。
「親御さんだって心配されているのではないですか?」
「西園寺さんがもし倒れたりしたら相当心配されるでしょうけど、俺のところはこれくらいじゃ心配なんてしませんよ」
心配は、まあ知ったらするだろうがバレなければ問題はない。幸太郎が愛想笑いをしていると菫が「そのようですね」と言った。……そのようですね?
「この資料によりますと家族構成は父と妹との三人家族。父親は遠洋漁業の漁師で長期間家を空けるようですね」
「ちょっと、いやちょっと、待って」
「妹さんはあまり身体が丈夫でないようですが、お父様が家にいない間はあなたと二人ということですよね。お父様からそれだけあなたが信頼されているということなのでしょう」
「いや、去年までは、ばあちゃんがいたから……じゃなくて本当に待てよ資料って何だ」
二回瞬きすると菫はことりと首を傾けた。
「資料は資料です」
「あんたが手に持ってる紙に俺の家族構成が書かれてるのは分かったよ。どうしてそんなものを持ってるかって話を聞いてるんだよ」
「米山さんに手配して頂いたからですね」
どこかから「手配させて頂きました」と、米山の声が聞こえた。
「手配って……どこに?」
「興信所ですね、迅速に対応して頂いたようで何よりです」
何よりじゃねえ! と叫びたい気持ちを幸太郎は必死に押さえた。
「分かった。興信所なのは分かった。分かりたくねえけど分かった。でもな、俺が聞きたいのは理由なんだよ理由。何故俺の家族構成を調べたのかを教えてくれよ」
「身元の分からないものを招き入れるのは危険なので、そうさせて頂きました。近隣の高校の制服を着ていましたので不審者ではないだろうとは思ったのですが、憶測で楽観視して何か起きてからでは遅いので」
「お手間とらせてすみませんでした」
理由が百パーセント自分の落ち度だと気付き、深々と素早く幸太郎は頭を下げた。
「頭をあげて下さい。それでアルバイトについてですが」
「こだわりますね……俺のバイト」
「あなたがアルバイトする理由は妹さんですか?」
「……まあ、それもあります」
「それも、とは?」
曖昧な返答では菫は引き下がってくれないと分かり、幸太郎は腹をくくる。大きく溜め息を一つ吐くと正直に話し出した。
「妹ですよ。理由」
「つい先程は、それも、とおっしゃっていましたが」
「嘘ですよ、見栄ですよ、本当のことを言いたくなかっただけ」
「不必要な嘘をつくんですね」
言葉を飲み込むために奥歯を噛みしめた。怒鳴りそうになったからだ。本来なら幸太郎は家庭の事情を誰にも話したりはしない。これまでも、そしてきっとこれからも学校の友達に話す気は一切ない。
余計な心配をかけたくないという気持ちが一割、自分のためが九割。友達に同情はされたくない。対等でいたいのだ。惨めにはなりたくない。それを不必要な嘘だなんて言葉で片付けられたくはなかった。
「俺は……西園寺さんと違って、吹けば飛ぶような無力な庶民なので、弱味になりそうなことをぺらぺら他人に喋れないんですよ」
「そうですか」
「……それだけ?」
「はい」
お嬢様の考えはどうやら自分には分かりそうもない。そもそも価値観が決定的に違うのだろうと、幸太郎は割りきることにした。
「今も入院してるんですよ妹。入院したり退院したりの繰り返しで、親父も頑張って働いてくれてるけど、医療費も入院費も馬鹿にならない。お金はあるに越したことはないんだ」
「けれど、それであなたが身体を壊しては意味がないのではありませんか?」
「は?」
「あなたが居なくなってしまったら妹さんは一人になってしまいますよ。その可能性を考えたことはおありですか?」
話の雲行きが変わった。まさか幸太郎のアルバイト問題からここまで踏み込んだ話を菫がするとは思わない。
「いやでもだって、一度倒れたくらいで大袈裟だろ。だって俺まだ高校生だし」
「何歳だって倒れる時は倒れるし、死ぬ時には死にますよ」
淡々とした声色だった。それはただ事実を告げる声だった。
「そう、だとして、それがなんかあんたに関係あるのか? ないだろう。今日初めて会った他人だもんな。それとも俺の記憶にはないけど実は親戚だったりするのか? そんなわけないよな。家の前で倒れてたのは俺が悪かったよ。ぐっすり寝かせてくれて感謝してるよ。寝心地の良いふかふかのベッドをありがとうございました。……だけどさ、だからといってそこまで言われる筋合いはないよな」
突き放すように捲し立てた。どうせ幸太郎と菫が会うことは二度とない。恩人に砂をかけるようなことをしたくはなかったが、言われっぱなしでは気がすまなかったのだ。
「そうですね。今は、私とあなたは他人ですね」
反応の不可解さに幸太郎が黙ると、菫は一度目を泳がせた。しかし何かを決めたように、しっかりと幸太郎を見据え発言した。
「私があなたを拾ってあげるから、私の犬になりなさい」
幸太郎は咄嗟に助けを求めるように右を向いた。窓から整えられた庭園が見えただけで誰もいなかった。
左に顔を向けると、部屋の奥に米山を見つけた。目が合うと彼女は菫の言葉に同意するように無言でこくりと頷いた。助けてはもらえないらしい。仕方なく幸太郎は菫に視線を戻した。
「…………………………は?」
「聞こえなかったのならもう一度言いますが拾ってあげるから私の犬になりなさいと言いました」
お嬢様は、やべえ奴だった。と、幸太郎は思った。
「…………意味分かんねえ。なんかの例え?」
「そのままの意味ですよ」
「そのままの意味ならやばいだろ」
「そうですか?」
「だいたい拾ってあげるってなんだよ。倒れていたのを助けたって意味なら、あんたもう今の時点で俺を拾ってることになるんじゃないのか?」
菫は少し驚いたような顔をしながら幸太郎をじっと見つめた。
「なに?」
「いえ……以外と頭の回転が速いなと思いまして」
「それって遠回しに馬鹿だと思ってたって言ってんのか!?」
怒りのままに幸太郎が立ち上がるとソファが鈍い音をたてた。
睨み付ける幸太郎などお構いなしに菫は穏やかに紅茶を口にする。あまりの反応に幸太郎は今度こそ怒鳴りそうになったが、静かにティーカップをソーサーに置いた彼女の方が先に口を開いた。
「拾ってあげる。とは、資金的援助をしましょうという意味です」
「はあ?」
「妹さんの入院費や治療費を私が手配しましょうと言っています」
「…………どうして」
「人生で一度くらい犬を飼ってみたかったんですけど。私、言葉の通じない生き物は苦手なんです」
あまりにも理解し難い言動に足の力が抜けた幸太郎は、ソファに座り込んで頭を抱えた。
「金持ちの考えることまじで理解出来ねえ……」
「そうですか?」
「服とか鞄とか買うみたいに気軽に言ってるけど、入院費も治療費も安いもんじゃないって分かって言ってるのか?」
「子供の頃から私がお正月に頂くお年玉の額だけでもお教えしましょうか?」
「聞きたくない。話すな」
人生の格差に頭が痛くなってきた。
何か、神様とか、運命とか、形の分からない何かを呪ってしまいたい気持ちだ。
ふざけるなと一蹴してしまえば話は終わる。変な奴にからかわれたのだと、早く立ち去って忘れてしまえばいい。
金持ちからの施しなんて最悪だ。人を何だと思ってる。
どうせ、気まぐれだ。
そんなものに振り回されてたまるか。
貧乏だと哀れまれるなんて最悪だ。惨めだ。
可哀想だなんて絶対に思われたくない。
ふざけるな。
誰のせいだよ。
誰かのせいに、したい。ムカつく。心の底から腹が立つ。ふげけるなと一言口にすればいい。それで菫との縁は切れる。――だけど。だけど、だけど、だけど。
限界だった。
病院からの請求書の金額を見るたびに血の気が引いた。
妹のせいだと恨みそうになった時、自己嫌悪で死にたくなった。
祖父もいない。祖母もいない。母親は大昔にどこかに行った。父親はいるが、ここにはいない。相談相手がどこにもいない。苦しい。ずっと一人だけ酸素が薄い世界に生きているようだった。
今、菫からの提案をのめばそれから解放される。
心臓の奥底でぶちりとプライドを踏みつける音が幸太郎には聞こえた。
「犬に、なるって、具体的にはどうすればいいんだ」
「………………どうしましょう?」
「どうしましょうって、あんたが言い出したんだろ!? あんたやっぱ頭おかしいんじゃっ……」
痛い。
後頭部を誰かに思い切り叩かれた。話している最中だったので舌も噛んだ。とても痛い。
「吉田さん暴力は、」
「大丈夫ですお嬢様。男子高校生なんて頑丈に出来ていますので。力いっぱい後頭部を叩かれたくらいじゃ何ともなりません」
いつの間にか運転手の吉田が幸太郎の背後に立っていた。とてもにこやかに笑っている。
「誰だよこの胡散臭い男」
「お前を丁重に道路から西園寺家の敷地まで運んでやった恩人だよ」
「引きずっていましたが丁重ですか?」
「丁重に引きずってやった恩人だよ」
「引きず……あ! 腕とか足とか痛いのあんたのせいかよ! 倒れたときにでもぶつけたんだと思ってたのに」
袖を巻くって確認すると青痣が出来ていた。自分のせいだと思っていた痛みが他人のせいだと思ったら、余計に痛いような気がしてくる。
「おっさんのせいで痣になってんだけど」
「うるせえ黙ってお嬢様の話を聞け。あと俺はまだ三十代だからおっさんじゃねえ」
「そのお嬢様がどうしましょうって言い出したからこんなことになってんだろ」
吉田は幸太郎の抗議をあっさり無視して菫に笑顔を向けた。
「お嬢様どうされますか?」
「そうね、それでは……。それでは、私が帰ったら「おかえり」とでも、言ってもらおうかしら」
「なんだそれ」
「飼い主の帰りを待つってとても犬らしいと思いません?」
「そうかよ。……じゃあそれ以外には? それだけってのも変だろ。いやそもそも変なのはこの状況全てだけどな」
菫は顎に手を当てながら真剣に考え込んでいたが、どうやら何も思い付かないらしい。
「申し訳ないけれどそれ以外は特に希望がないですね。もしも多賀谷さんにもし希望があればおっしゃって下さい」
「どうなってんだよ本当」
「なんかないのか駄犬」
「駄犬呼ばわりは止めろおっさん」
「俺はおっさんじゃねえ」
幸太郎の顔面は吉田に力強く鷲掴みされた。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い」
「吉田さん暴力は、」
「しつけですお嬢様。あまりにも駄犬ですので」
「吉田さん駄犬というのはちょっと」
「駄犬としか言いようがないので……ああ、お嬢様そうですよ。呼び方でも決めたらどうですか?」
名案だとでも言いたげに吉田は幸太郎の頭をべしべしと叩く。
「呼び方ですか?」
「そうですよ。なんか犬っぽい名前で呼ぶのが良いと思いますよ」
反論すればまた顔面を掴まれると思った幸太郎は、心の中で「握力ゴリラかよ」と悪態をつきながらも黙って話の成り行きを待った。
「犬っぽい名前……。多賀谷幸太郎。多賀谷幸太郎。多賀谷幸太郎」
「なんで顔赤くしてんだよ駄犬」
「いや、なんか、名前連呼されるの恥ずくね?」
「思春期かよ……」
「高校生は思春期だよ、おっさ………………吉田、さん」
舌打ちをしながら吉田は幸太郎の顔に向けた手を下ろした。菫は二人のやり取りの間も名前を何度も繰り返している。
「多賀谷幸太郎。多賀谷幸太郎。……決まりました。私はあなたをタロと呼ばせて頂きます」
「お嬢様さすがです。ぴったりな名前ですね。犬っぽいしアホっぽい」
「吉田さんそれは全国のタロと名付けられた犬に失礼ではないでしょうか」
俺には失礼じゃないのか。という言葉を幸太郎は必死に喉元でとどめた。
「おーけー、分かった。タロな」
「よろしくお願い致します」
「お嬢様に敬語使えタロ」
「………………分かり、まし、た! ……俺はあんたのこと何て呼べばいいんだ? ですか? ……スミレ?」
「お嬢様とお呼びするに決まってんだろうが馬鹿犬」
すぱーんと幸太郎の後頭部から良い音がした。
「ばしばし叩くなよ! 本当に馬鹿になったらどうすんだよ!」
「吉田さん暴力は、」
「申し訳ございませんお嬢様」
幸太郎の人権はこの場においては守られないらしい。というのが頭をよぎったが即座に、いや俺そもそも今日から犬だった……と一人虚しくなる幸太郎だ。
「そういえばペットは三ヶ月間本来の飼い主が現れなかったら、拾った側がそのまま飼ってもいいそうです。タロの飼い主、もとい保護者の方はいつお帰りになられるのですか?」
「親父? 確か七月末までには戻るって言ってたけど」
「そう……それでは一学期の終わりまでを期限にしましょう」
「期限って、何の期限だ」
「タロが私の我儘に振り回される期限です」
まさか菫からの申し出がたった三ヶ月弱の出来事になるとは思っていなかったので、幸太郎は呆気にとられた。
「俺、てっきりあんたが飽きるまでずっとなんだと思ってた……」
「そこまで人でなしではありません」
人生で一番の覚悟で決意したことが、渡されてみれば軽いもので拍子抜けだ。心なしか肩も軽く感じる。
「私は妹さんの入院費や治療費を一年分お支払します。自動的に私に請求されるよう手配しますので、多賀谷さんは何もなさらずとも大丈夫です。あなたは三ヶ月タロとして放課後こちらにいらして下さい。ああ、休日は用がない限り外出しませんので結構です」
「それ、……釣り合ってないよな」
「釣り合ってない、とは?」
「俺に都合が良すぎないか、だって、一年分って、なのに三ヶ月って、それは、いくらなんでもさ、ああ、いや、俺は、俺からすれば、ありがたいけどさ、でも、でもあんたはそれで本当にいいのか?」
菫はぽそりと何かを口にしたが、小さすぎて幸太郎には聞き取れなかった。
「なんだ? 言いたいことがあるなら言えよ。やっぱ三ヶ月じゃなくて一年にするとかか?」
「……いえ、期限は変えません」
「あんたがそれでいいなら、いいけどさ。……いや、でも」
「それでは条件を付けましょう。あなたが一度でも私が帰宅するまでに間に合わなかったら、犬失格ということで費用の援助も何もかも全て終わり。というのはどうでしょうか」
「いいじゃん。やってやるよ」
こうして多賀谷幸太郎は西園寺菫の犬になった。
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