第9話

9.


それはこの世でもっとも恐ろしい光景でした。

頭だけでくに一つほどの大きさのある黒い竜が、顔をぐいと少年たちに近づけてきたのです。

しかもその竜はとっても年寄りで、しかもじゃあくでした。

シモンは驚きのあまり、口をぽっかり開けて固まってしまいました。

フランも驚きのあまり、口をぽっかり開けて固まってしまいました。

女の子も同様です。


埒が明かないのでベルヒアーは自分から語り始めました。

老いた腰の低い声でです。

『シモン。フラン。あなた方は私を裏切りましたね。指示に背き仕事を投げ出しただけでなく、私の大事な少年を殺しました。私はとても傷ついています。

あなた方は、なぜそのようなことをしたのですか?

いえ私は全てわかっています。でもぜひ、あなた方の口から聞きたいのです』


シモンが勇気を振り絞って尋ねました。

「ベルヒアー。あなたは怒っているのですか」

『いいえ、怒ってはいませんよ。シモン』

「じゃ、じゃあ僕たちを許してくれる?」

『いいえ、許しませんよ。シモン』

「どうして?」

『私はあなた方の裏切りに喜んですらいるのですよ。シモン。

なぜならあなた方を憎むことができるからです。あなた方が手ひどく私を裏切れば裏切るほど、私は強く憎むことができます。憎しみはこの世で最高の娯楽です。全てに飽きた私にさえ、この味だけはいまだ甘美なのです』

ベルヒアーが地獄のように笑いました。

『さあ聞かせてください。どんなくだらない理由で、私の心を傷つけたのか』


フランがなけなしの勇気を振り絞って答えました。

「僕たちは白い魔術師に会いました」

『ええ知っていますよ。あの方の最期もね。フラン』

「僕たちはあの人に優しくしてもらいました」

『ええ知っていますよ。あの方のいつもの手口です。そうやって人を垂らし込むのですよ。フラン』

「あなたが間違っているとわかりました」

『誰であれ正しいことばかりしては生きられないものですよ。フラン』

「僕たちは正しいことをしようと決めました」

『いいえ違います』

ベルヒアーが諭しました。


『あなた方は単にその女の子を、自分たちを慰めるために連れて来たにすぎません。

あなた方に正しい心があったなら、村人に殺し合いを強要したりしなかったでしょう。

十分な猶予は与えたのです。心を入れ替える時間はあったはずです。でもそうはしなかった。なぜならあなた方の心は、もう救いようがないほど心底腐りきっているからです』

「あなたほどじゃない!」二人は叫びました。

『だからなんだと言うんです?

竜はじゃあくなものです。人間は違う。人間は選びます。

ただしい生き方をするか。じゃあくな生き方をするか。

後者を選ぶ人間のあまりの多さは、わずかながらいまだに愉快です。

あなた方もそのうちの二人です』

「でも僕たちは選べなかった。あなたに従うか、殺されるかしかなかった」

シモンが必死で叫びました。

ベルヒアーは口の端を歪めて笑いました。

『何を言っているのです?何のためにききゅうに電話機があると思っていたのです?

なんのために猶予を与えたと?あなた方は嫌ならいつでも退職できたのですよ。

私は辞めていく子を引き留めたり、食べたりしません。

仕事を途中で投げ出すような子は別ですけどね』


なんということでしょう。

全てベルヒアーの言う通りでした。

シモンとフランは返す言葉がありませんでした。


『さあこれであなた方が、びっくりするほど醜い心で私を傷つけたことがわかりました。私は今やあなた方を強く憎んでいます。では復讐を始めましょう。

甘い甘い復讐を』

二人は立ち尽くしました。

ベルヒアーが舌なめずりし、歯がぎらりと光ります。

この世には真っ黒な絶望しかありませんでした。


フランと手をつないでいた女の子がまた泣き出しました。

これまで泣くのをこらえていただけでも立派なものです。

二人は女の子に目を落としました。

そしてこの絶望の世界の中で泣いている自分たちに、白い魔術師がしてくれたことを思い出しました。


「ベルヒアー」

フランが呼びかけました。

『なんですか』

「白い魔術師は言いました。力であなたを倒せるものは、もう誰もいないと」

『そうですよ、フラン。白い魔術師が最後の一人でした』

「なので僕たちはあなたを傷つけてここを切り抜けることはできません」

『その通りです。あなたは賢いですね。フラン』

「ですから僕たちはあなたに優しくします。びっくりするほど醜い心の僕たちに、白い魔術師がしてくれたように」


ベルヒアーはわずかに沈黙しました。

そして笑いました。

少年たちは吹き飛ばされそうになりました。

『あなた方に何ができるというのですか?

まさか私の頭をなでてくれるとでも?』

フランは懐から透明の液体が入った瓶を取り出しました。

「これは変身の薬です。これを飲めばどんな生き物にでも変身できます。

これをあなたにあげます」

『そんなもので、何に変身しろというのです?』

「人間です」

『人間になることに、何の利益があるというのですか?』

「竜はじゃあくなものです。人間は違う。人間は選びます。

あなたは最も醜い心で生きてきた。だから憎むこと以外の全てに飽きてしまったのです。でも白い魔術師は違いました。あの人は全てを楽しんでいました。

あの人のように優しい心を持っていたら、あの人のように生きられるのかもしれません」

『そのような提案は馬鹿げています。竜が人間になるなどと』

「でもあなたは、もう竜であることに飽きている。だから僕たちは、あなたのためにこの薬をあげます。あなたが楽しく生きられるように。幸せに生きられるように。

これが僕たちの精一杯の優しさです」


ベルヒアーはまた少し沈黙しました。

『私に優しくしようとする人間は珍しいです』

竜の動きが止まりました。口は開けたままでした。

フランはシモンに薬を渡しました。

シモンは薬を投げました。ベルヒアーの口に向かってです。

それは暗い喉の奥に吸い込まれました。


ベルヒアーの巨大な姿が墨を溶かすように消えました。

後には一人の人間が立っていました。


その人間は死神でもぞっとするような冷たい声で言いました。

「私は人間になりました。シモン。フラン」

「はい」

「私はいまだじゃあくです」

「はい」

「私は優しさというものを試してみようと思います」

「はい」

「私はこれから総統になります。

首相になります。

総理大臣になります。

大統領になります。

書記長になります。

虐殺をします。

戦争をします。

紛争をします。

浄化をします。

粛清をします。

たくさんの人を死なせます。

有り余るほどの人を死なせます。

数多の人を死なせます。

夥しい数の人を死なせます。

数えきれないほどの人を死なせます。

それでもまだ、人間たちが私に優しくしてくれたなら」

ベルヒアーが子供たちに背を向けました。

「私も誰かに優しくしましょう」

そして去っていきました。

「少しだけです」

ベルヒアーは最後にそう付け足しました。




シモンとフランは森の中でベルヒアーの背を見送りました。

女の子がまた泣き出しました。

フランは女の子を抱き上げて、あやしはじめました。

シモンはききゅうに戻って、腹ごしらえの支度をはじめました。


世界には大きな傷がいくつも残っていました。

シモンとフランも傷だらけです。

でもその傷には白い魔術師が薬を塗ってくれました。

女の子も深い傷を負っていました。

その傷には、シモンとフランが薬を塗らなければなりません。


シモンは温かいスープをこしらえました。

あまり美味しくはありませんでしたが、三人で分け合って食べました。




おしまい

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

竜のベルヒアーと雇われ少年シモンとフランのお話 レモンの食べすぎ @UnlimitedRemon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ