8 夏光 ~ 切口上

 大地の化けっぷりに負けて悔しかったわけでもあるまいが、古狸は森に帰った後も、村からの道や峠への道を、ふんふんと嗅ぎ回っていた。九尾の狐がどこかに潜んでいるのではないかと疑っていたのである。

 しかし梅雨つゆに入ると、しつこい古狸もさすがに音を上げ、

「あの妖狐ではないな。俺の鼻でも嗅ぎつけられぬ」

 狸は犬の仲間らしく鼻がいい。その狸に匂わないのなら、やはり狐の仕業ではないのだろう。


「ただ、おかしなことがあるのだよ」

 しとしとと雨がけぶる中、古狸は湖の岸で、ふきの葉を傘にしながら言った。

茅原かやはらから峠までの道を嗅いでおると、なにか健児と繭子らしい匂いがする。この長雨でも匂いは消えぬ。実は、今ここでも匂っておる。まあ、そんな気がするくらいの、わずかな匂いなのだがな」

「生きていた頃の匂いが、残っておるのではないか?」

「いや、それが、村の中ではちっとも匂わぬのだ。二人が通った分校でも匂わぬ。間尺に合わぬ話であろう」

「ふむ……確かにそれは道理に合わぬな」

 お互い首をひねっているところへ、森の方角から、なにやら泥を跳ね上げて走る音が聞こえてきた。

「なんと、またもや誰かが駆けてきたぞ」

 古狸は、ころりと石地蔵に化けた。

 簑笠みのかさを着けた一組の男女が、森から走り出た。

 よほど急いでいるらしく、蕗の葉を傘にした珍妙な石地蔵には目もくれず、俺たちの前を通りすぎてゆく。

 二十歳はたちほどの若い男が、少し年嵩としかさの女に言った。

「これはありがたい! 姉さん、雨が上がったよ。これなら楽に峠を越えられる」

 女も顔を輝かせてうなずき、男に寄り添って駆け続ける。

 抜けるような夏空の下、青々とした草原の道を峠に向かって一散に駆けてゆく二人を見送りながら、俺はもう、さほど驚いていなかった。湖が道に変わるなら、梅雨空が青空に変わっても不思議はない。そして青空の下を走るなら、葦原よりも夏草の草原がふさわしい。

「狸よ、あの二人は誰だ?」

 元の姿に戻った古狸も、さほど驚いておらぬていで、

「およしと与作――お芳はきこりの吾作の女房で、与作は吾作の弟だ」

「不倫の道行きかよ。俺は不義者は好かぬぞ」

一概いちがいに言うでない。吾作のお袋は、嫁いびりしか能のない鬼のような姑よ。吾作もお袋べったりで、いっしょになって嫁のお芳をいじめておる。弟の与作は、そんな不憫ふびん義姉あねのお芳を、いつも憐れんでおったのだ」

「与作はひとり身か?」

「おう。兄と違って優しい男だが、なぜか嫁取りも婿むこ入りも望んでおらぬ。それもお芳がいたからであろう。『かわいそうだたあ、ほれたってことよ』――流行りの文士に言わせれば、そんなところさ」

「なるほど。ならば、手に手を取って逃げるのも道理」

 俺は得心して言った。

「そして、この山の道筋が化ける道理もわかった」

「ほう?」

「人は理不尽から逃げるのが道理、ならば理不尽から逃がしてやるのも道理。つまり健児と繭子の道理ではないか」

「――それだ!」

 古狸は、ぽん、と手を打ち、

「おぬし、いつか言っておったな。『俺やおぬしが生きておるのがこの世なら、俺やおぬしが死んだとたんに、同じこの世があの世になるだけ』と」

「おう、言ったぞ」

「ならば、もう健児と繭子には、村から続くこの山の小道――あの日、ままならぬ村のしがらみを捨てて二人たどったこの道だけが、おぬしの言う『あの世』――今となっては『この世』なのであろうよ」

 うむ、と俺はうなずいた。

 古狸は、背後の森の雨空を見返り、

「しかし空まで変えられるなら、あちらも晴にすればよかろうに」

「まあ、そこも道理があるのだろうさ」

 そのとき森の奥から、しわがれた老婆の怒鳴どなり声が響いてきた。

「逃がすでないぞ、吾作よ! あれほどいじめ甲斐がいのある嫁は、またとないぞ!」

「おうよ、お袋! くそ、与作の奴、弟の分際で兄の俺を出し抜きおって、絶対逃がさぬぞ!」

 そんな根性悪げな罵声が聞こえるあたりで、いきなり森の空に暗雲が渦を巻く。

 村の溜め池をぶちまけたほどの大雨が、そこだけまとめて轟々と降り注ぐ。

「ひええええ! 助けておくれ、吾作よ! 溺れる、溺れる! ごぼごぼごぼ――」

「いかん! お袋が山津波に流されてゆく! こ、これはたまらぬ。俺も流される。ごぼごぼごぼごぼ――――」


 やがて誰の声も聞こえなくなった頃、森はいつもの梅雨空に戻っていた。

「……なるほど、いろいろ道理があるのだな」

「……あるのだよ」

 夏空の峠を見返ると、お芳と与作は、もう草原の彼方に去っていた。

 あの二人が峠を越えたとき、この原はまた長雨の湖に戻るのかもしれぬ。

 峠の先は、ぬかるんだ暗い山道が続くのかもしれぬ。

 しかし今の陽射しなら、それまでに笠が乾く。簑も乾く。

 ならばきっと無事に山を下り、ふもとから汽車に乗って、二人、どこにでも行けよう。

 蒼天に湧き上がる入道雲を眺めながら、古狸は言った。

「いつかは俺も、大地や空に化けてみたいものだ」

「化けるのはかまわぬが、天気は俺に任せてくれよ」

 俺は夏の陽射ひざしに目を細め、

「これでは龍の仕事がなくなってしまう」


        ◎


 それから幾星霜いくせいそう――。

 人の世が大正から昭和とやらに代替わりするうちにも、山の小道は何度か姿を変えた。

 しかし、そのうち海の彼方からどでかい機械仕掛けの鳥たちが飛来し、山の彼方の街々を片端から焼き払いはじめると、村から逃げる人々の姿も、ほとんど見かけなくなった。

 やがて街々の焼け跡に、見違えるような高い建物が際限なく広がるにつれて、機械仕掛けの鉄のくるまが、石灰で固めた街道を風のごとく駆け回るようになり、妙に先の尖った汽車などは、もはや停車場で停まりたくとも停まれないほどの勢いで、新しい隧道トンネルを駆け抜けてゆく。だから村人たちも、いよいよ自分の足で逃げる苦労がなくなった。

 そして今、あのひなびた村は、鄙びているところがかえって珍重され、村から人が逃げるどころか、わざわざ街から逃げてきて村に住み着く者が増えている。

 それでも山の小道に伝わる古い噂が、まるきり消えたわけではない。

 その証拠に、村の役場や街の広告屋が、昭和の末までは『縁結びの道』、平成以降は『ラブラブ・トレッキング・ロード』と銘打って、ふやけた笑顔の都会者を盛んに呼びこんでいる。「好きな人といっしょに、村から峠まで歩き通せば、きっと結ばれて幸せになれます」――そんな看板も、山道のあちこちで見かける。


 ちなみにあの古狸は、あれからしばらくの間、大地や空に化けようとしきりにでんぐりがえっていたが、どう修行しても汽車より大物には化けられず、令和の今では、週末になると都会風の若い衆に化けて街の洋風音楽隊に紛れこみ、洋風連太鼓を叩いている。「ドラムのグルーヴがハンパない」と、街の演舞場あたりで評判らしいが、俺にはなんのことやら、ちっともわからない。昔から腹鼓はらつづみけていた狸のこと、やはり楽隊向きなのだろう。

 俺はあいかわらず、ただの龍である。

 日々好きなだけ湖を泳ぎ、山の空に遊んでいる。

 当節は頑是がんぜない子供さえ俺の姿にまったく気づかないから、なんの遠慮もいらない。

 ただ近頃、俺の縄張りを荒らす南洋渡りの無法者が増えて、際限なく雨雲を呼ぼうとするので、それを蹴散らすのになかなか忙しい。


 そして氷像となった健児と繭子は、今も俺の宝珠ほうじゅといっしょに、湖の氷室ひむろできらきら光っている。

 氷室の入り口は、俺と古狸が交代で守っている。

 神社の狛犬こまいぬのように、並んで守ることもある。

 だから湖で舟遊びをするのはいいが、海人あまのように深く潜ってはいけない。



                    〈了〉

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山の小道 バニラダヌキ @vanilladanuki

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