7 山怪
古狸は、その日、いったん村に戻った。
狸と違って教員という仕事は、いきなりどろんと消えるわけにはいかないらしい。生徒たちのために春の卒業式まで仕事を続け、ちゃんと後釜の教員を手配した後で、都会に戻るために山を越える途中、山道に迷って行方知れずになる――そんな段取りである。
数年前に山道に迷って魚の餌になってしまった先代の教員も、そこまで勤め上げれば本望であろう。
そして山桜の花が散る頃、ようやく山に戻ってきた古狸は、
「のう、龍よ。おぬし近頃、村人に何か悪さをしたか?」
「だしぬけになんだ。俺は人など相手にせぬ。だいたい、冬におぬしが暴れたおかげで、あれからは誰一人この湖に近寄らぬぞ」
「そうよなあ。湖の龍が健児と繭子を生け
「人聞きの悪い話だよ。まあ、龍として恐れられるのはかまわぬが、どのみち俺は何もしておらぬ。俺が寝ている間に通ったとしても、俺の知ったことではない」
「といって、この山で人を化かす狐狸は、今のところ俺だけのはず」
「だから何があったのだ」
「おう。――この春先、雪が融けた頃の話よ」
古狸は、土産に持ってきた一束の干し大根を、俺と一緒に食いながら話しはじめた。
「奥の村の山持ちの話は、前にもしたろう。繭子が無理に嫁がされそうになった相手の男だ」
「おう、聞いたぞ」
「繭子がいなくなったので、
「ずいぶん根性の曲がった奴だな」
「おう。根性も悪いし顔も悪い。口の臭い
「そんな者ら、俺は見ても食ってもおらぬ」
「そこだよ」
「どこだよ」
「蝦蟇たちは、ここまでたどりつけなかったのだ。なんでも道に迷ってなかなか原を抜けられず、ようやく森に入ったと思ったら、またどこをどう迷ったものやら、皆、北の沢に転げ落ちた。なんとか這い上がって、生きて戻ったようだがな」
「迷うも何も、村からここまで、ずっと一本道ではないか。だいたい北の沢に出る道など見たこともないぞ」
「おう。だから俺は、てっきりおぬしの
「逃げた二人はどうなった?」
「そのまま逃げおおせた。半月ほどたった頃、親どもに手紙が届いたとよ。松本あたりから出したらしいが、今頃はもっと遠くに逃げておろう。たぶん東京だな。あそこなら、
「ならいいが……」
「そう。ならいいんだが、となると追っ手の蝦蟇たちを化かしたのは、どこの誰であろう。俺が留守にしている間に、九尾の狐でも遊びに来たか」
「いや、あの
「と、なると……」
お互い首をひねっているところへ、なにやら慌ただしい足音が、森の奥から近づいてきた。
微かに男たちの怒声も響く。
「待て!」
「逃がさんぞ!」
その声の主たちより先に、風呂敷包みを背負った二人の女が、森から駆けだしてきた。
とっさのことゆえ、俺は湖に隠れる暇がない。狸も岩陰に隠れる暇がなく、その場ででんぐりがえって石地蔵に化けた。
母と娘ほど歳の離れた二人の女は、村の百姓らしい粗末な身なりで、手に手を取ってこちらに駆けてくる。若い娘は俺に気づくほど子供ではなく、また二人とも追っ手に気を取られて、石地蔵や大根の束は目に入っておらぬようだ。
古狸の石地蔵がつぶやいた。
「
「誰だ?」
「俺の生徒だった娘と、その母親だよ」
「なんで親子で逃げておる」
「もしや――」
狸が言いかけたところで、俺たちの前を親子が通りすぎた。
そのまま走ったのでは湖に落ちてしまう――二人の背を目で追って振り返った俺たちは、揃って驚愕した。
「おう?」
「ぬぬ?」
今まで湖だったところが、そっくり
母と娘は逃げるのに夢中で異変に気づかぬらしく、芦原を貫いている一筋の道を、見慣れた東の山に向かって一散に遠ざかってゆく。おそらく森を抜けたときも、あの二人には湖が見えていなかったのであろう。
「……龍よ、湖はどこに消えたのだ」
「……知るものか」
するうち森の方角から、さっきの怒声がまた響いた。
見れば男が三人ばかり、どたばたと駆けてくる。一人は百姓の身なりだが、あとの二人は洋服姿である。
古狸の石地蔵が、得心したように行った。
「やはりか――事情が読めたぞ」
「俺の
「その話ではない。お清とお袋が逃げた理由よ。追っているのはお清の親父と、街の
「女衒?」
「人買いのことだ。貧しい家の娘を買って、街の女郎屋に売りつける
「人とはずいぶん
「おうよ。狸や龍では真似できぬ」
父親と女衒たちは俺たちの前を過ぎ、女たちを追って謎の芦原へ――と思いきや、
「おう?」
「ぬぬ?」
男たちは芦原でも湖でもなく、小暗い森の道に駆けこんでゆく。
面食らった俺が元の森を振り返ると、そこに広がっているのは森ではなく、なぜか村に続く
古狸の地蔵もいっしょに面食らい、
「……今度は東と西が裏返っておるぞ」
「俺の住処は……」
「ええい、迷っておっても埒が明かん!」
古狸の石地蔵はくるりとでんぐりがえり、いつぞやの
俺も後を追って宙に昇る。
空から大地を見下ろして、古狸の大鷲は感嘆した。
「ほほう――」
村に続く茅原や森の広がりそのものは、なぜかいつもと変わっていない。男たちは森を東に抜けたはずなのに、また西から飛びこんでしまったらしい。しかも道筋が無茶苦茶である。いつもよりずいぶん奇妙に曲がりくねっているばかりでなく、三人の男が駆けている道の先などは、俺たちが見ている間にも、なお、うねうねとうねってゆく。
「――これはおもしろい」
「面白がってる場合かよ」
「いいではないか。あれなら、お清たちに追いつこうにも絶対に追いつけぬ。――おう、道の先が、北の沢に繋がったぞ。――よし、三人とも沢に転げ落ちた!」
「……皆、溺れておるな」
「お清の親父は
「……皆、浮いてこぬな」
「千曲川まで流れてしまえばよい」
「……そうだな」
揃って土左衛門になったなら、浮いてこないほうが確かにありがたい。
それよりも逃げた母娘が気になって、俺が森の東に目をやると、なぜかさっき見た芦原ではなく、いつもの湖が広がっている。
「俺の住処は戻っておるが……」
しかし改めて目を凝らせば、細長い芦原が中州のように湖の東西を横切り、その芦原を貫く細道を、あの母娘が峠に向かってせっせと駆けている。
「……なんと、俺の住処が真っ二つに」
「いいではないか。噂に聞く丹後の名勝、
「おぬしがよくとも俺は――おや?」
女たちが東の岸にたどりついたとたん、中州のような芦原は、西の方からしだいに湖水に飲みこまれ、するすると消えてゆく。
「よし、元に戻った!」
「これは残念」
ふと気づけば森の道も、村に続く茅原の道も、いつもの緩やかな一本道に戻っているのであった。
「……のう、狸よ」
「……おう」
「化けるのは狸と狐だけかと思っていたら、なんと、大地も化けることがあるのだなあ」
「このような大技、俺ではとてもかなわぬ……」
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