スルーザフロントグラス

藍元丸五

第1話

  清水五丁目。

 信号機の横のプレートにそう書いてある。

 交差点の名前なのだろう。

 ナビがわりにダッシュボードに取り付けてあるスマホの地図でも同じ名前が出ている。

 赤信号だからこうして確認できる。

 まあ、普段だったら別段気にも止めないんだけど……。

 まただ……。さっきからずっと……。

 シャッター音がしている。

 助手席を見ると甥っ子のリュウトがフロントガラス越しにスマホを向けている。そしてシャッター音。

 何を撮っているのか……。気になると言えばすごく気になる。

 前回もここを通ったはずなのに、その時は大して何もしなかったように思うのだが……。

 ちょっと自信がない。あの時はリュウトと初めて二人きりのお出かけだったし、運転する車が初めての外車で借り物だったし、色々とテンパっていたからな。

 もしかしたら前回もここに興味はあったのかもしれない。

 ここか…。

 ここ…?

 またぐるっと見回して見る。

 どこなんだ、ここ。

 さっきの道路標識で東大和市に入ったというのはわかっているから、ここも東大和市ではあるのだろうけど、たぶんそういう意味ではない意味がここにはあるんだろう……。

 ここはなんなんだ?

 別段普通の交差点なのだが。

 新青梅街道の片側二車線の道を瑞穂から東村山を抜けて走って来た。いくつも似たような交差点を通り過ぎて来た。赤信号で止まってもきた。今みたいに左車線の先頭で止まったこともままある。

 じゃあ、ここは、ここには……、

 フロントガラス越しに目の前には横断歩道が見える。夏前なのに、梅雨の時期のはずなのに、日差しが容赦なく照り付けている。白い感じだ。見えてないのに陽炎が立っているような雰囲気を感じる。歩く人は少ないけど、もう夏真っ盛りな恰好だ。だからけっこう暑そうだ。クーラーの効いた車内で思う。

 そう、これは日常的な風景だ。

 だから、まあ、被写体が横断歩道ってわけではないよな。たぶん。

 リュウトは地面の方にはスマホを向けていない。まあな、そうそう横断歩道に興味があるヤツなんかいないだろう。なら斜め向こうのマックだろうか? それともすぐ向かいの山田うどんか? カカシのマークは昔からほのぼのしててオレはなんとなく好きだけど、美味いし。

 でもさっきマックも山田うどんも通り過ぎたけど何も反応していなかったような……。

 ここは何かのフォトスポットなのか?

 こんな普通の交差点が?

 ここよりももっと前にいいフォトスポット的な場所はいっぱいあったと思う。特に横田基地の脇の道路を走った時なんかタイミングよく滑走路を飛行機が走っていて飛び上がる寸前だった。

 この車の助手席からならいい写真が撮れただろうに。

 この白いBMWは四十年も前の車だから当然のように左ハンドルだ。

 助手席に乗っていればまるで運転しているような気分になる(かもしれない)。

 しかしだ。運転気分を味合うなんてことが、この場所で写真を撮る理由には絶対にならないだろう。もう一時間ばかりは乗っているし、その間は何もアクションらしいアクションはなかったからな。

 この交差点が普通すぎてなんの理由も見つからない。

 まあ、本人に直接聞いてみるのが一番簡単なんだけど。

 これが少しばかり勇気がいる。

 この二人だけのドライブも今日で二回目だけど、リュウトとはあまり話ができてはいない。

 なんとなく壁を感じるというか、そんな固いものじゃないけど、リュウトの周りをベールが覆っている感じで、そこには容易に入り込めない感じがする。

 前回からなんとなくそんな雰囲気は感じとったはいた。でも別段それに対して何も感じなかった。人それぞれの生き方だからな。良い悪いを言うつもりはないし、それこそ別段悪いとも思ってない。それにこのくらいの年頃は誰だってこうなんじゃないだろうかとは思っている。

 ただ……、

 今日は……、

 今日からは、少し趣旨を変えたい気分だ。

 なんとなく……、なんとなくで、それは言葉に言い表せないものなのだが……、

 この甥っ子とは話をしなきゃいけないのではないかと漠然とは思っている。血の繋がりがそういう気分にさせているんだろうか? あんまりガラじゃないのに。

 まあ、そういう意味ではこれはチャンスなのかもしれない。あんまり躊躇してても赤信号は終わってしまう。

 軽く、かるーく聞いてみよう。

「何か、面白いものでもあるのか?」

「うん…」

 頷くとリュウトは白くて繊細な指と仕草でフロントガラスの先を指差した。そこはやはり交差点以外の何ものでもない。

「もしかしてこの交差点?」

「うん」

 ますますわからん。

 ごくごく普通の交差点に見える。

 走ってきた新青梅街道は四車線の広い道路だけど交差している道は普通の二車線だ。5叉路とかみたいな複雑な交差点でもない。

 正直よくわからない。最近の中学生がわからないのか、それともリュウトがそうなのか。ま、どっちみちオレがオジサンということにはかわりがないということか。

「おいちゃんが運転する軽自動車が向こうから走ってきてここをこっちに曲がっていったんだよ」

 リュウトは東京方面から来ている反対車線を指差して、その指を動かして左の道路に入っていく軌跡を描いた。向こうから走ってきた車が右折したわけか。

 そんなことをしているリュウトはなんだかはにかむような感じで、歳相応というか子どもっぽかった。

 でもうれしそうなのはなんかいいな。

 まあ、ちょっと引っかかるところはあるけどね。

「えーと、誰だって? 知り合いなのか?」

 信号が青に変わり、慎重にアクセルペダルの上に置いた足に力を入れた。四十年も前の車だから丁寧に扱う。借り物でもあるから。

 この白いBMWは初めゆっくりと動き出す。鈍重だ。どうもこれは古いからってわけでもなくギア比の関係なのかもしれない。でも動き始めてからは腐ってもBMWの5シリーズだ。直列六気筒エンジンはシルキーシックスと呼ばれるだけあって極上の滑らかさで加速していく。流れに乗るのなんて容易い。

 車窓を街並みが流れていく。本格的な店構えのソバ屋に、大きな寺院に、外車ディーラーに、作業服屋に…。

「……おいちゃんは……、SIROBAKOっていうアニメに出てくる主人公の女の子」

「へえ」

 なんとはなしに甥っ子の話しに相づちを打つ。

 ……えーと、あ、そうか、えーと、

「車を運転するってことは中学生とか高校生とかじゃないのか……」

「うん、そう。アニメを作ってる会社で働いているんだよ」

 ほう。なんかナゾかけみたいな話だ。アニメの中でアニメを作るのか……。

「なんか聞いてると普通のアニメの感じがしないね」

 おっと、これはダメだな。

 なんかさっきから気になってたけどブレーキの度にハンドルががくがく揺れる。最初の内は気にならなかったけど、乗り込んでいくうちに酷くなっていく。これはアニキに報告しないとだな。路面のでこぼこを拾って揺れてるだけじゃないみたいだ。それにクーラーの効きは申し分ないけど、吹き出し口の向こうから何かカタカタと音がする。

 修理案件だ。

「あ、ごめん。ちょっと車の調子見ていて聞いてなかった」

「ううん、ごめん、こんな話して……」

 なんだかリュウトの声は消え入りそうな感じになっていて、その雰囲気でやっと何かを察することができた。

「いや、マジで、なんか面白そうだとは思ったよ。見てみたいからさ、ビデオテープじゃなかった今はDVDか、持ってたら貸してよ」

「……DVDって……。今は配信で見れるよ。ボクもそれで見た」

「……そうか……。いやあ、なんか恥ずかしいなあ。そんな顔してリュウトが恥ずかしくなることなんてないからな。アニキもオレも古いモノが好きなおっさんなんだからそういうのとは縁がないんだ」

 とか言ってアニキを巻き込んで言い訳をする。

 まあこんな三十年落ちのBMWに乗ってんだからその言い訳にも信憑性があるってものだろう。オレは手伝ってるだけだけどアニキはこれで商売してるんだから余計に時代遅れなんだろうから存外的外れではないはずだ。

「……お父さんは動画配信とかしているよ。この前、少し手伝った」

 ああ、そうなのか。もう何も言えない。時代に取り残されているのはオレだけか。まったく。

 ああ、でもリュウトは手伝っているのか。親子関係はまあまあなのかもな。

「まあ、いいや。その配信でアニメを見るやり方、教えてくれよ。アニメの登場人物たちが自分たちが出ているアニメを作るなんて興味があるよ」

「え、え、ちょっと違うよ、おじさん。あの、その、そんな話じゃなくて、もっと現実的というか……」

 リュウトは慌てたように手を振った。その仕草はオレの間違いを指摘しているわけではなく、間違っているオレの気分を害さないように一生懸命動作と言葉で説明してしてくれている感じだ。基本的に優しいんだな。アニキとは大違いだ。

 新青梅街道を新宿方面に向かって白のBMWはひた走る。フロントガラス越しに急な上り坂が見える。ちょうど野口橋という交差点を過ぎた辺りだ。ダッシュボードにナビ代わりに取り付けたスマホの地図アプリを見ると、これは西武線を越える陸橋みたいだ。

 上り坂に入ってもスムーズだ。さすがにシルキーシックス。滑らか過ぎるくらいの滑らかさで、まるで貴婦人が騎乗する上品な馬みたいだ。

 坂の頂上はすぐで、今度は滑らかな下り坂。

 初夏の眩しい太陽の下、光を反射した白い車体が坂を駆け下りていく。暑い空気を切り裂きながら……。

 いやあ、なんとなく格好良い感じだ。こういう描写というかなんというか。さっきのアニメの話に触発されてしまったのかな。

「……おじさん、別にムリに話しを合わせてくれなくても、いいよ……」

 リュウトは無色だった。フロントガラスから外を眺める表情だったり、その声だったり。雰囲気全体からして、色がない。さっきアニメの話をしてた時とは大違いだ。

 まあ、わかるよ。わかる。

 こんなオジサンがアニメに興味を持ったなんて言っても、気を使ってるようにしか見えないのかもしれないな。

「まあな、気を使っているといえば使ってるよ。まだ今日で二回目だけどさ、病院に連れていく大役を任されているわけだから。ただな、気を使う以上にアニメに興味が出てきたのは本当の話。オレさ、今はなんーんも趣味みたいなものがないんだよね。昔はさ、こういった古い外車とか好きだったんだけど、今はちょっとな。持つ気になれないんだ。でもな、これからの人生少しでも趣味があればいいと思ってるんだよ。今までとは違ったものがな。それにほら、最近流行ってるみたいだし」

 そのオレの言葉にリュウトは何か思い至ったことがあったのか、案外素直にこくこくと頷いた。兄貴から聞いているのかもしれない。別に隠しているわけじゃないからいいんだが。

 最近、素直になると決めていて、今回はそれが素直に実行されたとみるべきかもしれない。ようやく。

 まあ、甥っ子にカッコつけてもしょうがない。親でもないオレは大人ぶる必要なんてないし、大人としては出来が悪いから見本も示せない。

 直感で感じたことを素直に認めて、素直に言葉にするしか、もうオレには出来ることなんてないんだ。

「あの病院にはもう一年くらい通ってるけど、車で行ったのはおじさんと行ったこの前が初めてなんだ。その時、あの場所を見て、ここはあの場所だってわかったんだ。だから聖地巡礼みたいだと思って……」

「ふーん、帰りもこの道通るから、なんだったら近くのマックによってくか?」

「……いいよ、それは気を使って言ってるでしょ?」

「ああ、そうか、そうだな、ごめん。じゃあさ、オレがそのアニメ見た後だったらいいよな?」

「……うん」




 新青梅から青梅に入って(略すとなんかなんのこっちゃってなる)、ちょうど練馬区と杉並区の境くらいに病院はある。これもナビアプリでわかったことだ。

 街道からホームセンターを過ぎたわき道を左折してちょっと行った所だ。

 病院にはそこそこな駐車場がある。3台か4台は停められるだろうか。そんなに運転のうまくないオレにとってはこれくらいの広さがあるとありがたい。

 病院の前の通りはそんなに交通量が多くなくて、だから車が来ないのを見計らってバックで駐車した。

 病院を改めて見上げてみると、なんだか上はマンションになっている。一階部分を病院として造ったのか。そしてこの駐車場は病院専用な感じだ。ここからではわからないけれどマンションには別の入り口があるようだ。古いけれど瀟洒な造りになっている。

 この間は初めてだったから今日よりも緊張していたみたいで何も覚えていない。そういえばナビアプリに住所を入れるときもマンションの名前を入れていたのを思い出す。改めていうまでもなく迂闊な話だ。

 駐車場は生垣に囲まれていた。きれいに刈りこまれていて四角いブロックのようになっている。そして今が盛りなのか濃いピンクの花が一面に咲いていた。花に囲まれている。生憎花の名前は疎いからわからない。こういうのはもしかしたらリュウトの方が知ってるかもしれない。なんでも知ってそうな聡さがある。けれどあまりに教えを請う回数が多いのも大人としてはなんだかなとは思うけどね。

 リュウトは一人で診察を受けに病院の中に入っていった。親ではないオレはお留守番だ。

 玄関の脇にかかっている診療項目の看板を見るともなしに見る。

 精神科……、心療内科……。

 軽く頭を振った。アニキのヤツはなんだって病院の送り迎えをオレに頼むかな。義姉さんは反対したってのは耳に届いている。当たり前だな。母親なら心配でたまらないに違いない。なんか……、複雑な何かがあるのかもしれない。いや、たぶん兄貴は何かよからぬ陰謀みたいなのを企んでるに違いない。

 ああ、なんかな。どうなのかな……。

 ……。

 ……。

 うん……、考えてもオレみたいな野暮天にはわからない。うん、わからない。そうしておこう。

 今はそんな考えごとに沈み込むよりも仕事をしよう。オレにはこれが唯一無二の仕事だからな。

 メモ帳に気付いたことを箇条書きで書きこんでいく。ブレーキを踏んだ時にステアリングの挙動がおかしい。発進の際には鈍重さが目に余る。後は……、エアコンか……。

 それから車体を外側から観察する。下回りもオイルが漏れていないかどうか目視で確認する。マグライトももらってきたからそれを点灯してしゃがんで覗き込む。メモ帳もアニキがくれたものでメイドインフランスのオレンジの表紙のものだ。本当にいちいち洒落ている。嫌みか。

 割と高くなってきた気温の中でこれをすると、すぐに額やら脇の下から汗が噴き出てくる。汗が目に入る前にワイシャツの長袖部分で拭った。拭いきれなかったものがコンクリートに落ちていく。着て来る服装を間違えたか……。

「……おじさん、終わった……」

「おお」

 しゃがみ込んでいたら後ろから声がかかった。どうやらリュウトの診察が終わったみたいだ。

「なにしてるの?」

「いやあ、これがオレの仕事だからな。なんか仕入れてきた車を運転してダメな所を洗い出すことをやってんだ」

 なんか自分でも言い方がプロっぽいな、とか思っていたらリュウトに微笑まれてしまった。憐れみか、もしかして。

「お父さんのマネ?」

「口調? ああ、そうだな。今のオレの雇い主だからな。ほら、手術代やら入院費やら立て替えてもらったから、まあ、手下になったみたいなもんなんだよ」

 この借りはいつ返済できるのやら。今だって無理矢理楽な仕事をさせてもらってる身だ。義姉さんはそれに対しても不満なんだろうけど。

「じゃあ、薬をもらってくるね」

「あいよ」

 リュウトは片手を上げて挨拶すると、道路を挟んだ向かいの薬局に向かった。オレも片手を上げて返したけど、あれは見てないね。

 さて、隣がホームセンターだから都合がいい。前回と同じ入り用のものを買って、ついでにトイレもすませよう。



 うーむ、なんか数十メートル歩いただけなのにしんどい。体がだるい。

 空梅雨のジリジリとした太陽の光が後頭部を灼く。若い時よりも若干薄くなってきた髪のせいなのか痛い感じだ。頭から汗が噴き出る感じは気持ち悪い。そして背中も同じ。

 熱さに負けて俯いて歩いていると、目に入る足元の影はいじけたように熱い地面に小さくへばり付いていた。オレみたいなのかな。

 運転はさほど苦にならないのに、歩いたりすると体力がなくなったのを実感する。長かった入院生活のせいなのか、それとも手術のせいなのか……。

 一人になるとそればかりが頭をよぎる。

 独り言はいつもそればかり。

 前立腺ガンの五年生存率はガンの中では高いはずなんだけど……。これは予後が悪かったということなのか。PSAの数値もイマイチ下がらなかったし。こんなにだるいのは……。

 悪いことだらけしか見えなくなる。乾いた夏の雰囲気も道路の走水さえもなんだか悪い予兆ように思えてならない。黒いもので頭の中が塗りつぶされていく。

 本当に、

 忘れるためにも、

 一ミリでも思い出さないためにも、なにか楽しい趣味を見つけないとダメだ。

 リュウトと一緒にアニメを見るんだって、よっぽど楽しいんじゃないのか。たぶん。

 排尿に時間のかかったトイレから出てホームセンターを後にする。手にはビニール袋を持っている。中にはさっき買ったウエットティッシュとか、あと自分とリュウトの飲み物が入ってる。

 ヘロヘロと歩いてきて、駐車場を見ると、所在なげに白いBMWの脇にリュウトが立っていた。

 なんとなく、思う。

 ま、いいか……。

 今はこれで……。

 ……いや、

 これがいいのかもしれない。

「……おじさん、遅いよ……」

「ごめんな。さ、帰ろうか」

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スルーザフロントグラス 藍元丸五 @AIMOTO

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