2夜目
寂れた未開発の歓楽街を抜け、未だ木々の立ち並ぶ砂利道を進んだ場所に、ぽつん。と小さな建物が建っていた。
クルスが絞り出した複数の候補の中の1つである、小さな町立図書館だ。
今日は結衣とは二手に分かれて捜査をする事になった。
じっと1箇所に立ち止まっていられる性分でないアウトドアの極みである結衣には、被害者の中でも唯一のイレギュラー
街を超えて名が知られるほどに高名である希本収集家の本が寄贈されているとなれば、普通は設備も環境を整っている市内の市立図書館に行くものだと考えるものだろう。
リツ自身そう考えていたのだがすっかりとアテが外れ、複数の図書館を渡り歩いた挙句収穫もないまま、残る候補はこのひっそりと廃れた建物のみとなってしまった。
結衣がたまに利用する図書館らしく、「すっごく穴場なんだけど、如何せん道とか景観が分かりづらいんだよねー。」と彼女から教えて貰わなければ、うっかり廃墟と思って通り過ぎてしまうかも知れなかったな。と思う程に白い壁は蔦と劣化による亀裂に襲われ、ひどく苔むしたそれは風景といやに溶け込んでいた。
これまた苔に侵食されたガラス扉を開くと、カビとホコリ、そして古本の持つ独特の匂いが鼻腔をくすぐる。
学校の教室三つぶん程度の広さで、天井もさほど高くはない。だが少し視線を逸らせば、その向こうには多種多様な書物が所狭しと棚の中に収められているのが見えた。
入口から入ってすぐの場所にあるカウンターでは、若い女性の司書が何やら屈んで本の整理をしている。
「すいませーん」
声をかけると、司書は人好きのする笑顔を浮かべてすっくと立ち上がった。
「はい。何かご入用でしょうか。」
「希少本の収集をしてた豊栄サン、って人居たじゃあないですか。あの人の本が此処に寄贈されてるって聞いたんだけども。」
「豊栄さん。……豊栄さん……?」
司書は一言断りを入れたあと、何らかの資料らしきものを暫く眺める。そうして何かを思い出したように顔を上げた。
「ええ、ええ。確かに寄贈されていますね。ただ、大変希少な本ばかりですので、禁帯出───貸し出す事の出来ない場所に保管されています。」
「その中に、真っ黒な革で装丁されたとびっきり古い本とか、ありませんでしたか?」
「……ああ、そういえば。1冊だけありましたね。劣化が酷い上、文字までがとても古いドイツ語の。」
「その本は何処に?」
「本来なら、禁帯出の奥にある筈なのですが……。
残念ながら、数週間前───そうですね、大体3週間……少し前……から、何処にも見つからないのです。」
盗難である可能性も視野に入れていて……。と、申し訳のなさそうに肩を落とす司書を見て、思わずカウンターに乗り出しかけた体をおずおずと引き下げた。
『メドゥサ事件』の発生した頃と、本の行方が分からなくなった時期は少なくとも一致する。黒い革表紙の本がこの事件の鍵となっていることは確かだろう。
そんな確信があった。
「そのコーナーってのは、誰でも入っていいもんなんですか?」
「ええ、閲覧だけなら誰でもご自由に行えます。」
「ありがとうございまーす。」
御礼を言ってから早歩き気味に本棚の立ち並ぶ小道を進む。
小さいながらもれっきとした図書館と言うだけはあり、歴史に関するカビた茶色い本や、装丁の分厚い児童向け小説、果ては古いものだが漫画本までが充実している。
その景色に目移りしながら急ぎ足で進んでいたせいだろう。
本棚の影から飛び出してきた人影に気付くのが遅れ、避けようとして頭を盛大に向かいの本棚にぶつけ……しかも丁度昨日たんこぶの出来た場所に。見事なまでにクリーンヒットしてしまい、呻く羽目になった。
「……大丈夫ですか?」
心配そうにリツを覗き込む相手は、高校生ほどの少女だった。
肩上までに切りそろえた艶やかな黒髪で、頭の頂上に作られた2つの三角形のお団子は、猫のようなシルエットを連想させた。
白い肌に埋め込まれた琥珀色の双眼を、長いまつ毛が縁どっている。
驚かせてしまったことを謝ろうと視線を落としたところで、リツは思わずあっと大きな声を出し、カウンターから聞こえた司書の咳払いで口を噤むことになる。
リツがそのような大きな声を出したのは、少女がノート そして筆記用具と一緒に抱えている本の『パンドラの立証』というタイトルが目に入ったせいだった。
『パンドラの立証』は、推理小説作家
ミステリーの女王 アガサ・クリスティーの手がけた『そして誰もいなくなった』のように、嵐に見舞われた絶海の孤島で起きる事件の謎を探偵が紐解くという、設定だけで言えばどこにでもよくある推理小説だ。
ただし、この作品を異色たらしめている理由の大きな要因がひとつ存在する。
作中では殺人の証拠や死体の気配がありありと感じられるのにも関わらず、全ての謎が明かされるまで、死体の「し」の字も現れないことである。
人々は次々と消えて行くのに、死体だけが見つからない。
最後の最後まで、死体の存在が謎という猫箱に閉ざされているのだ。
そして全ての箱を取り払った時、漸く死体の有無が明らかになる。
その特有の緊張感と表現の巧みさがこれまで読んできた探偵小説の中でもトップクラスに面白いのだが、評価をされるどころか全く周知すらされていない事に、リツは常々不満を感じていた。
それを今!目の前の少女はその手に取っているのだ!
この手の熱狂的なファンというものは、同士を見つけた途端 胸の内から抑えがたい狂熱が湧き上がるものである。
しかし此処は静黙が掟の図書館。
1度深呼吸をして気持ちをどうにか落ち着かせたあと、出来る限り声量を抑えた。
「……二度も驚かせてごめんな。まさかその小説読んでる同士が周りにいるなんて思わなかったもんだからさ。」
少女はきょとん とした様子で手に持っていた本を一瞥したあと、再びリツの方へと視線を向けて、不思議そうに首を傾げて見せる。
年頃の少女らしく、愛らしくあどけない仕草をしている中でも、彼女の表情はほんのぴくりとも動かなかった。
「……彩真先生の本作品が、お好きなのですか?」
「そりゃあもう!初めて読んだのがその『パンドラの立証』だったんだけども、表現の細やかさから来る特有の緊張感にまァ心を奪われちまってさぁ!
特に登場人物の、一種の純文学的にも見て取れる心情描写が巧みで───……おっと。」
再び聞こえた咳払いに、再度口をつむぐことになる。
その様子を見て、依然として動かない少女の表情がほんの少しばかり和らいだ気がした。
「……彩真先生は、元は文学作品を中心に書かれていた方でしたから。ミステリーを手がけるようになった後でも、その名残りが残っているんです。
短編の『喀血から出でり』は、その名残を感じられてお勧めですよ。」
「へえ、それは知らなかったな。てっきりミステリーがメインなもんかと。」
無愛想ではあるが、礼儀の正しい良い子だな。というのが率直な感想であった。
よく見れば彼女がその身に纏っている制服は、近辺では有名なお嬢様おあつらえの女学院のものであり、そのためか彼女の所作は淑やかで、品を感じさせる。
そこでリツは、まず興奮の余り名前すら名乗っていなかったこと、そして用事がすっかりと頭から抜けていたことに気がつき頬をかいた。
「あー……悪い。押し付けがましく話しかけたくせに、まだ名前も言ってなかったよな。アタシは北条リツってんだ。市街地の方で私立探偵してる。」
「……いえ、私こそ名乗るのが遅れてしまって。ごめんなさい。私は
「ジエト、かあ。お洒落な名前だなぁ。」
「ありがとうございます、です。」
「……その制服、確かこの辺りにあるS女学院の制服だよな?」
「はい。……あ、学校なら、今日は何やら先生がたの間に何か大きな問題が起きてしまったようで、早めに授業が切り上げられてしまったのです。」
やっぱりか。と、リツはジエトと名乗った少女に聞こえないような声で独り言ちる。
昨晩リツが遭遇した粉々死体は、霧矢から聞いた話によるとS女学院の数学教師を務める男性との事だった。
死体が見つかっただけならまだしも、その教師への膨大な悪評が掘れば掘るほど出てくる。と、電話先で乾いた笑いを零していたのを思い出す。
体罰や恫喝、果ては未成年淫行まで。今どきそこいらの漫画でも見かけないレベルの、堕落教師のお手本のような犯罪テンプレートのフルコンプリートぶりだった。という話が、決して少なくはない人数の生徒の口から飛び出してきたのだ。
前述の通り、S女学院は県内でも有数のお嬢様学校である。口止めをする当の本人がいなくなった今、その情報がうっかり表になど出ては面目は丸潰れだろう。
幸いにも?今回の事件は情報規制を設けられた極秘の事件である。その辺りの規制は警察からの後押しもある筈だ。
……既に親族もなく家内も居なかった教師に対して、これまでの被害者に責任の追求の一切が絶たれてしまった上に、大多数の為にその怨恨を押し隠せと釘を刺される被害者生徒たちの心情を考えてみれば、何とも胸糞の悪い話ではあるが。
兎も角、その件で様々な問題が発生している事。そして何より、街を騒がせる残虐な殺人鬼であるメドゥサが近隣で出没した事により、生徒たちを早帰りさせざるを得なかったのだろう。
ただ、彼女の反応を見るに生徒たちに対して、事の真相は一切伝えられていないようだが。
「つまり早帰りになってもこんな所で勉強かぁ。偉すぎるなぁ……。」
「そんな大したものではありませんですよ。お勉強の為もありますが、ただ本を読みに来たのが大きな理由ですから……です。」
……案外人見知りをする子なのだろうか。先程から少し思っていたが、丁寧語がどうにもぎこちない。
「ところで、北条さんはこの図書館にどのようなご用事でいらしたのですか?ここの図書館はとても分かりづらい場所にあるので、余り見かけない方が居るのは珍しいです。」
「んーや。ちょっと調べたいことがあってさ。ジエトはこの図書館に良く来るのか?」
「はい。放課後は何時も此処で本を読んだり、勉強したりしています、です。」
「ほうほう。じゃあ、奥の方に最近亡くなった希本収集家の秘蔵本が寄贈されたって話は知ってたりとか?」
「……そうなのですか?確かに、つい最近禁帯出に置いてある本が増えたな、とは思っていましたですが……。」
常連である彼女でさえも、本の寄贈などといった話は聞いたこともないようだった。
だが口ぶりから察するに、少なくとも寄贈された後に禁帯出に立ち入ったことはあるのだろう。
「なあ、その禁帯出に、真っ黒い革で装丁された本とか無かったか?それもとびっきり古くって……。そうだな、表紙に変な装飾のされてるヤツ。」
「…………黒い、本……。装飾……。……あ、1度だけ目を通した気がします。
……どうやら古いドイツ語で書かれているようでしたので、読めずに仕舞ってしまいましたですが。
ですが後日探しても、何故かどこにも────」
「その本のタイトルとか、見てない!?」
思わずその話に飛びつくと、ジエトは気圧されたようにその大きな目をほんの少しばかり丸くして、やがて何かを思い出そうとするかのように、顎に指を当てて視線を落とす。
「……タイトル…………、……調べてみても、文法が違っていたので……印象に残っていて。何となく、覚えています……です。
確か……──────
──────“ Unaussprechlichen Kulten” ……だったような。」
マジョリテヰドラ もりお @syumessyu
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