マジョリテヰドラ

もりお

1夜目



​─────痛い。


胸が、腕が、足が、脇腹が。

痛くて痛くて堪らない。


そのうち痛みすらも麻痺してきて、毒が回るように、ゆっくりと。鈍い熱が全身を炙る。


いつから、いつから、█は​───────


……────────────


────ドスン!ガラガラガラ……



「いっっっっっ………ったァ〜……」



背に伝わるじんじんとした痛みが、今しがた横たわっていたソファから転げ落ちたであろうことを告げていた。

実に乱暴な目覚めだ。やらかしたのは自分自身なのだが。


「……大丈夫ですか?」


近くの事務机で作業をしていた男性、南字みなみじ 来栖くるすは突然の大きな音に大層驚いたらしく、床で悶える彼女を警戒する小動物の如く身構えながら覗き込む。

暫くしてから安堵したのか警戒の姿勢を解いて、「仕事中に居眠りなんてするからですよ……」と呆れた調子で悪態をついた。


「しっかりしてください、……まあ、いつもいつも言ってる事ですけど!貴女はこの事務所の所長なんですから。」


後頭部を押さえながら眠気眼を擦るという、何とも間抜けな姿を晒している女性は北条リツ。

此処、北条探偵事務所を若くして経営する、立派な私立探偵だ。


─────────────────────


「……『メドゥサ事件』?」


机に山積みにされた資料の1枚を手に取る。

山の1番上に居座っていた紙切れの奇妙な文題に目を引かれ、リツは思わず後頭部に出来た小さなたんこぶを擦りながら首を傾げた。


メドゥサ、ギリシャ神話に登場する怪物へと変えられてしまった女性の名前だ。

彼女の輝く瞳を見てしまった人間は、たちまち石へと変わってしまうという。

その空想の怪物の名前を扱って事件の文題としているのものだから、物珍しさから何らかのラノベのタイトルか?と資料の山を片しているクルスに聞けば、そんな訳無いでしょう。と心底下らないといった様子で答えて見せる。

仕事に追われながらも律儀に返事を返してくれる辺り、コイツはつくづく良い奴だなぁ。などと思いながら資料に再び目を落した。


資料に記された事件の概要はこうだ。



『メドゥサ事件』

数週間前から起きている怪死事件らしい。

なんでも、そこかしこで人間のバラバラ死体が見つかっているとのことだ。

それだけならまだしも、真に不可解なのは犠牲者は必ず体が石像のように固まってしまっていることだ。


────体が、石化している。


「バラバラ死体」と呼ぶには少しばかり語弊があり、遺体は高所から突き落とした陶磁器のような損傷をしている。

そのためどちらかと言えば「粉々死体」と言った方が近い状況なのである。



なるほど、こんな怪事件ならば怪物の名前が使われているのにも納得が行く。

まるで人間の所業でない凄惨な事件であることと、10年以上前からこの街で起こり続ける、連続行方不明事件との関連性を追求するために人員を割かれている等で、警察の捜査も難航しており、人々のパニックを避ける為に情報を規制しているものの、残念ながら人の口に戸は立てられないものだ。

徐々に事件に関連した噂が出回りつつあり、このままではあることない事の尾ひれが付いてより厄介な事になりかねないだろう。


「クルスぅ、これ依頼?」

「いえ、今のところは誰に依頼されたものでも無いですね。僕が小耳に挟んだ情報を集めただけです。

乾さんや霧矢さんに聞けば、もう少し詳しいことがわかるかもしれないですけど……。

……リツさん?そのお電話は誰にお掛けするんです?」

「結衣ちん。」

「あぁなるほど結衣さん……って、リツさんもしかしてそっちの調査に行くつもりですか!?行くつもりですよね!!??今受けてる依頼はどうするつもりなんですか!!」

「つってもペットの猫探しだろー?多分屋根裏に居るって言っといて!」


そんな無責任な!と悲鳴にも近いクルスの静止も聞かず、リツはせっせと準備を済ませて事務所を飛び出す。

扉を閉める直前にカラカラ……と数個の胃薬が入った瓶を振る音が聞こえ、一瞬足を止める。

……せめて帰りに茶菓子でも買っていってやろう。

そう思いながら、口の中にレモン味の飴を放り込み、階段を駆け下りていった。


─────────────────────


「しょちょー、とりあえずどこに行くの?」


携帯の液晶画面に映し出される簡易なメモ書きを覗き込んでいるのは花巻はなまき 結衣ゆい。アルバイトでリツの助手を勤める大学生だ。

ミドルツインテールに束ねた天壇色の髪を揺らし、くりくりと丸いビー玉のような瞳をした、快活そうな様子が愛らしい少女だが、その見かけによらず怪力で、嵐のような破天荒さを持ち合わせている。

今日も事件の概要をかいつまんで説明したところ、「面白そう!」の一言返事でokを出してくれたし、即座に駆けつけてくれた。

リツとは何かと馬が会うのか、この探偵にしてこの助手あり といった調子のコンビだ。


目下の問題は勢いだけで飛び出してきたため、まずは何処に向かうかという方針を決めるところから始めなければならない事だった。

いつもは北条探偵事務所を勝手にサボり場所にしている、不良警官2人に聞くのが不本意ながら1番手っ取り早いと思ったものの、件の事件のせいか珍しく双方出払っているらしい。

更にリツたち自身、日頃の行いのせいでこの街の警官からは腫れ物扱いされているため、警察署に向かうにも噂話と軽く流され、追い出されるのが精々関の山だろう。


「それじゃあ一通り事件が起きた現場でも聞き込みしつつ回ってみる?」

「そうするかあ。見た感じ、死体が出てるのはこの街だけっぽいし。」


事件発生箇所にバツ印を付けてある地図を見るに、この街以外での犠牲者は誰1人出ていない。今回の事件の犯人────メドゥサと呼ぶことにしよう。

メドゥサの活動範囲は極端に狭いらしいことが分かる。

しかしこれまでの見つかった死体は4名ほどであり、活動範囲は狭かれど中心地となる場所を絞るにはまだ至らないのだ。

殆ど行き詰まりのような現状から脱出するため、ひとまずはその周辺の調査を始めることに決めた。



まず最初にたどり着いたのは、探偵事務所から大分離れた場所に位置する住宅街だった。

学校などといった教育機関がこの辺りに集中していることと、ここを通り越せば繁華街に行き着くことから、人の行き交いも多い場所だ。

この場所に居ると、この辺りだけでも2人ほどの犠牲者が出ている事がまるで信じられなく思えてくる。しかし、肝心の事件が起きた路地裏の方へとさしかかれば、そんな気持ちはまったく失せてしまった。

雑多に立ち並んだ高い建物が塀のように太陽の光を遮ってしまい、全てが影で覆われた暗い道は真昼であれど不気味な様相を呈している。


「……ここか。」


路地の半分ほど進んだところで足を止める。

バリケードテープの毒々しい蛍光色で彩られた薄暗い道。その異様さは俗世から隔離された違う世界へと迷い込んでしまった気さえ思わせた。

1番最初に事件が発生した現場だからなのか、辺りに人影らしきものはひとつも見当たらない。当然遺体などといった情報源になりそうなものは、あらかた警察に持ち去られたあとだ。

バリケードテープ越しに中を覗き込むと、人の形を模した張縄が見える。

今どきは技術も進み、張縄にはアクリル樹脂のスプレーを扱うんだ。と何気なしに警官2人が話していたのを思い出しながら身を乗り出した。


「血痕があるな。」


張縄の中心部────丁度腹辺りだろうか。そこはおびただしいまでの乾いた血痕で溢れており、被害者がどれほど凄惨な最期を迎えたのかは想像に易かった。

脳裏に嫌でも浮かぶイメージを振り払うようにかぶりを振る。血痕を指したのは持ち合わせた情報と擦り合わせる為だ。被害者への追悼の念は確かに持ち合わせなければならないが、それが主軸になってしまっては本末転倒だ。


「石になっちゃうって話だったと思うんですけど、血が出るものなのかな?」

「遺体はバラバラ────いや、粉々だったらしいから、石になったのは表面の皮膚だけで中身は……みたいな?」

「うわぁ……。実物は絶対に見たくないな、それ。」


全くだ。非現実的な事象の結果出てしまった犠牲というだけでも頭が痛くなるのに、その肝心の遺体がスプラッタ映画顔負けのグロテスクな惨殺遺体となれば、捜査するのにも気が滅入ってしまう。


ああでもない、こうでもない、と2人で話し合っていたところで、ふとリツの視界の隅に何かが映り込む。

その正体は直ぐに分かった。バリケードテープの向こう側、ほんの少し上体を乗り出せば手が届きそうな場所に黒い何かの破片らしきものが落ちていたのだ。


風に乗って飛んできたゴミかもしれない。

現に此処では呑み捨てられた酒瓶や、雨水の溜まった空のペットボトルといった路地裏の住民が、そこらかしこに転がされている。

だが、何故かその薄汚れた欠片を見ると不思議と胸の内がざわつくのを感じた。


どうせ結衣以外は誰も居ないだろうと高を括って、バリケードテープを屈んで潜ろうとした時、背後から突然怒鳴り声が聞こえた為に驚いてバリケードテープを破りそうになる。


「オイ!!テメェら現場は遊び場じゃねぇぞ!!!

………って探偵じゃねぇか。何してんだ。」


こっそりと、かつ手早く欠片をポケットに押し込んで振り返る。

声の主は前述した不良警官2人の片割れ、霧矢きりや がいだった。

この街でもそこそこ顔の立つエリート警官らしいのだが、いつもはリツの事務所を勝手にサボり場としており、事務所内のボードゲームを勝手に引っ張り出して暇を潰していたり、クルスに嫌がらせをしたり、職務中に酒を煽る姿くらいしか見た事のないリツたちにとってはただの不真面目なダメ警官止まりなのが所感である。

一応サボり場を提供するにあたって、脅す……もとい頼めば現場へ向かう足となってくれるし、これまで解決してきた各事件の詳細を知っている数少ない人物なため信頼はしてくれており、捜査の際事件について聞けばポロッと表沙汰には出ない情報を吐いてくれるので、百害あって一利なしとは一概には言い難いのも事実なのだが。


いつも不良警官2人に手を焼いている結衣は、霧矢の姿を見るなり眉を思い切り嫌そうに顰めた。

然しそんな彼も今日ばかりは真っ当に職務をこなしているらしい。

明日は石膏が降るな。と冗談混じりに声をかければ、霧矢はいたく疲れた表情で肩をすくめてみせた。


「やめろ、縁起でもない。」

「ごめんって。お前らがちゃんと仕事してんのがあんまりにも珍しいもんだから。お前こそこんなとこで何してるんだ?」

「不審な2人組が路地裏に入ってくって話を聞いて来たんだよ。結局、お前らだったけどな。

例の事件だけでもこっちは頭抱えてんのに、変な尾ひれのついた噂につられて来る野次馬があんまりにも多くてな。その対応にも追われる羽目になってんだ。つくづく嫌になっちまう。」


……この街は呪われている。


どこかの誰かがそう言った。

実際、到底一般的な常識では説明不可能な事象をいくつも目撃してきたものだから、今更その言葉を否定する気にもならないが。


ここ数年で理由不明の行方不明者数は異常なほど伸び続け、減るどころか留まる兆しさえ見せない。

悍ましい怪事件が立て続けで起こり、リツたちが解決してきた事件以前に幾つの事件が闇に屠られてきたのかなど数えるのも馬鹿らしいほどだ。

そんな街に長年住み 怪奇に晒され続けているのであっては、住民の感覚も次第に麻痺してくるものである。


人間というのは実に愚かしいもので、ただの危機管理能力の欠落を『慣れ』と認識してしまうらしい。

どんなに恐ろしい事件現場でさえも、野次馬が後を絶たないそうだ。


それ程までこの街はおかしい────、俗的に言えば「イカれて」いる。


「まあここに居るってことは、お前らもどうせ件の事件のことだろ。」


霧矢は煙草を取り出しながら「鼻が良いこって」と皮肉交じりに付け加える。

だが結衣に「現場でくらい煙草控えたらどうなんです?」と直球の皮肉と正論を聞かされ、ライターを取り出す前に渋々煙草を仕舞うはめになるのだが。


「話が早くて助かる。此処はどんな状況だったんだ?」

「……ここは最初に事件が起きた現場でな、まあ怪物といえど人殺しは不慣れだったらしい。ありゃあ酷かったモンだ……。

人間の体が卵の殻みてぇに粉々になって、中から臓器やら骨やらが飛び散ってて……、仏さんなんて何年も見てるベテランの奴が胃の中身をぶちまけるくらいだった。」

「……。」


どうやら最悪なことに、先程想定した状況は何一つ間違っていなかったらしい。

この先調査をするにあたって遺体に遭遇しないという訳には恐らくいかないだろう。

もしかしたら、この足元に転がる小石が人間の一部かもしれない────そんな考えさえ過ぎってしまう。


「行方不明事件の方だって何も足取りを掴めちゃ居ないからな。お前らも気を付けろよ。」


そう言って霧矢は踵を返してその場を後にした。

やけにそそくさと出ていった事と胸ポケットを漁っていたのを見るに、結衣の前では煙草が吸えないのでとにかくこの場を去りたかったのだろう。

その背中にフン、と鼻を鳴らして見送ったあと、結衣はリツの方へと向き直った。


「……ところで所長。さっき何を拾ったの?」


霧矢との会話で危うくポケットの中の存在を忘れる所だった。

取り出して眺めてみるとそれは、思いの外に分厚い手のひら大の欠片だった。表面が独特の装飾の施された革で出来ており、破れた端っこに何かの文字のようなものが見えることから、おそらく本の装丁だろう。

何か鋭利な刃物で切られたのか、断面はやけに綺麗だった。


「古い本……の表紙?革が擦り切れて色褪せてる……」

「みたいだな。内側がこんなに腐食してるなら、革がボロボロなのも雨風に晒されたのが原因って訳じゃ無さそうだ。」


少し頭を捻って考えたあと、2人して「これは帰ってからクルスに任せよう」という結論に至った。

その頃事務所ではクルスが突然訪れた悪寒に嫌な予感を感じていたが、そんなことはつゆとも知らない2人は路地裏を後にした。


─────────────────────


その後はこれまで起きた全ての現場を巡り、聞き込みを繰り返したあと、これまでの情報を整理しながら帰路に着く頃には既に日が傾き始めていた。

まだ正式に表に出ていない事件というだけあって、統一性の全くない、口頭で広がり誇張されつづけた取り留めのない噂話ばかりだったのだが、被害者に対するある特徴だけが殆ど一致していた。


ただ1人を除き被害者は皆、「殺されても仕方がない」と人々が口を揃えて言うような悪人だったらしい。

暴力的な不良から人攫いを生業とする裏社会の人間まで、ありとあらゆる極悪人ばかりが被害に遭っていた。

ただ1つ、最初の被害者である空寧からねたまきだけが、例外にごくごく普通の冴えない男子高校生だった事がどうにも腑に落ちず、2人でああでもない、こうでもない、と討論をしながら廃墟の立ち並ぶビル街の外れを歩いていた。


「もしもし、お嬢さん。」


突然掛けられた声に驚いて 声のした道の方へと目を向けると、細い道の向こうにひとりの男が立っていることに気が付く。

確かその向こうは行き止まりだったはずで、ただでさえ人通りが多いとは言えないこの辺りでは、利用する人間は殆どひとりとしていない道だったものだから、リツの中にはなんとも言えない、静かなざわめきが広がっていった。


20代後半ほどだろうか?真っ黒な外套に身を包んだ黒髪の男で、赤い目張りに彩られ、いやに鋭くつり上がった明るい瞳が、何とも不気味なさまを醸し出している。


「そこのお嬢さんがた。警官でも何でもいい、ちと人を呼んじゃくれねぇかね。

生憎、おれのは電池を切らしちまって。此処を離れる訳にもいかないから、困っていたんだよ。」


男が顔を動かすと、それにつられて赤い花を模した 大きな耳飾りが揺れ動いた。


「何かあったんですか?」

「あったから言っているんだろう。」


男の立つ道に足を踏み入れる。

男の方へと近付くにつれて、不愉快な異臭が辺りを包み始めた。


「……なあ、お前。その後ろに何隠してんだ?」


そう警戒して尋ねるも、男は不敵な笑みを崩さないまま「見たいのか」という返事だけが帰ってきた。

掴みどころのない様子にほんの少し苛立ちながら静かに頷けば、「後悔しても知らないぜ」と言いながら、男は大きな体を退け、ここからは陰になって見えない建物の後ろを指さした。

結衣と目配せをしたあと覚悟を決め、男が指をさす方向へと向かう。


そこに広がる光景を目にした瞬間、衝撃のあまり一瞬時が止まったのかとさえ思った。

なぜなら、そこには─────



────粉々になった、人の形の物が転がっていたからだ。



それだけなら、リツたちも呆気にとられはするものの石像がうち捨てられているとだけ思ったことだろう。

だが破れた腹部から広がる物が、転がる「それ」が人間であることを裏付けていた。



街灯に照らされて、ピンクの臓物がぬらぬらと輝いている。

黒い石片となり崩れた胸元を、胸骨が突き破っている。

時間が経っているのか、一面に広がる血は少し乾いて茶色になっていた。

身に纏う衣服さえが薄っぺらな石片となって散っているのに、飛び散る臓腑と血液だけが真っ赤なコントラストとなって存在を主張している。


辺り一面に立ち込める異臭は、腐臭だった。



男に動揺を悟られぬよう細心の注意を払い、喉元まで出かかった酸っぱいものを飲み込みながら、男を睨めつけ「お前がやったのか?」と尋ねる。

その言葉を聞くなり、男は心の底から軽蔑をするようにせせら笑って見せた。


「これが人間のなせる技だと思うのか?君は。」


……改めて考えてみると、そうだ。

悔しいが男の言う通り、こんなものが人間の所業であるわけが無い。あっていいはずがない。

では何者の仕業かと問われれば、それは神話で語られるような悍ましい怪物によるものだとしか、凡そ考えがつかないほどの惨状に眉を顰める。


「なんだ、思ったより落ち着いているんだな。

まるで幾度もこういった状況に立ち会ったかのような態度じゃないか。」


男の皮肉めいた軽口を無視しながら、携帯の端末に手を伸ばした。

その後のことは余りよく覚えていない。

男の言う通り、幾度もこういった状況に立ち会ってきた2人だが、それを差し引いてもその光景は余りに衝撃的だったのだ。


ただ1つ覚えているのは、警察が到着する頃には男が忽然と姿を消してしまったことだ。


──────────────────



結衣を家に送り届け、事務所へと帰りつく頃には時刻は6時近くになっていた。

いつもにしては早い帰りだが、それでも今日見た光景はそれ以上の精神的な疲労感を持たせるには十分なものだった。

事務所にはまだ灯りがついている。いつも勢いよく閉めるせいで少し調子の悪い扉は、ドアノブを回して押せば ギィ、と鈍い音をたてた。

中ではクルスが鞄に私物を詰め込んでいた。今しがた帰るところだったのだろう。


「ああ、リツさん。今日は早いんですね。……また警察に補導でもされたんですか?」

「今日はされなかった!……っと、まぁ色々あったんだよ。お茶菓子買ってきたから、茶でもしばきながら聞いてくれ。」


そう言って紙袋を机に乗せる。帰り道に茫然自失になりかけながらも、なんとか和菓子屋に立ち寄って帰ってきたのだ。外出前に決めたことだけはギリギリ忘れずに居られた事に安堵した。

クルスはほんの少し表情を綻ばせ、部屋の奥の方にある食用品の棚から茶葉を取り出してきてくれた。


「あれ。そのお茶っ葉見覚え無いけど、新しく買ったのか?」

「……今日ペット捜索の依頼を出しに来た方からお礼で貰ったんです。なんでも本当に天井裏に居たらしくて。」


ああ、すっかり忘れていたが、そういえばそんなこともあったな。

というよりリツが言ったことをそのまま依頼主に伝えるクルスもクルスだ。こいつ相当地頭は良かったはずなのだが、とリツは頭を捻る。

………もしかしたら、胃痛やらなんやらで判断力が鈍っているのかもしれない。

そう思うとなんとも言えない気持ちになった。


「なんですか、そんな哀れむような目で僕を見て…」


バレた。


どうにか話題を逸らそうと思考を張り巡らせたあと、ポケットに仕舞われたままの革表紙の欠片の存在を思い出した。


「あ、そうだ。こんなの拾ったんだけど。」


今日起きた出来事の報告も混じえて事の顛末を説明する。

現場のこと、被害者のこと、実際にその目でしかと見た粉々になった遺体、そして煙のように姿を消した謎の男のこと……。

クルスは神妙な面持ちでそれを聞き届け、そして眉を顰めながら顔を上げた。


「……で、その本が何かを探せとでも言いたいんですか?」

「そういう事になるな。」

「無茶言わないでくださいよ。この世に黒い革表紙の本なんて一体幾つあると思ってるんですか。」

「心配すんな、ちゃんと心当たりはあるんだよ。

一ヶ月前にこの街で有名な蔵書家の方が亡くなったの。軽く話題になってたから、お前も知ってるだろ?」

「ああ。希本収集家の豊栄トヨエさん、でしたっけ。」

「そうそう。んで、その蔵書たちはこの街のどっかの図書館に寄贈されたってやつ。

ちら。とだけ、その人のインタビュー記事を見たことがあるんだけどさ、その中の写真に似たような本があった気がするんだよ。ただ。」

「寄贈先までは分からない、ですか?」

「その通り!」

「……確かに、時期的にも関係が無いとは一概に言い難いかもしれませんね。

……分かりました。僕の方でも調べておきます。」


リツの報告を受けて、彼も依頼では無いからと切り捨てる気には到底なれなかったのだろう。そう言ってクルスは律儀に食器を片してから事務所を後にした。


1人残された事務所で、ソファに寝転びながら革表紙の欠片とにらめっこをする。

クルスと結衣には伝えなかったことだが、初めて見つけた時からこれを眺めていると心の奥底から恐れのような、不快感のような、なんとも名状しがたい感情に襲われるのだ。

これが本の表紙である というのを断言したのは、少しばかり心当たりがあったからだ。


これが人類の触れてはいけない叡智を記し、呪われた本───魔導書であるなら、この胸の内に燻るざわめきも、人智を超えた悍ましい事件がどうやって起こされたのかも、どうにか説明がついてしまう。

こんな超自然的な犯行が許されるのなら、もしこれが推理小説だったら駄作以外の何物でもないな。と、自虐気味に独りごちた。



ただ、これまで日本で魔導書が見つかった試しはひとつも無く、今日に至るまで日本語訳すら見つかっていない。

もしこれが本当に魔導書なのだとしたら─────


───この国に、何らかの目的で。暗澹たる知識の詰め込まれた本を持ち込んだ悪意ある輩がいるのかもしれない。



そう思うと、なんとも頭の痛い話だ。

その悪寒を振り払うべく、レモンの味の飴を噛み砕いた。

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