5・終戦後の手紙




気が付けば、レメックたちがいなくなってから、六年が経とうとしていた。




これまで、たくさんの人々が命を落とした。




けれど、あたしはまだ、なんとか生きていた。




母と二人、元通りの生活が戻ってくることを願いながら……。




ドイツの敗戦は、もう、すぐそこまで来ていると言われていた。




ヨーロッパ中の国を占領し、もはや強国となっていたドイツだったけれど、




ソ連にまで戦争をけしかけた結果、計画は失敗したのだ。




今度は、爆弾を落とされ、破壊されるのは、ドイツの番だった。




きっと、また大勢の人が犠牲になる。




しかし、それは、戦争の代償に違いなかった。




一体、いつになったら、世界は平和になるんだろう…。




しかし、ついに、その時はやって来た――――――。




ドイツは、敗戦を迎えた。




ヒトラーは自殺し、ナチス・ドイツは撤退した。




六年も続いた戦争は、とうとう、終わった。




この国ポーランドは、




まだ完全というわけではなかったけれど、ついに解放の時を迎えたのだった。




もうすぐ十六歳のあたしは、




母と共に、戦争中いなくなってしまった人々の帰りを待った。




まず、父。




そして……レメックと、彼の家族。





『アネタ……また、会おう』





あたしは、六年前の約束を、信じていた。




もはや、その約束のために、生きているようなものだった。




しかし、父も、レメックたちも、誰も帰ってこなかった。




そんな頃、あたしと母の元に、ある知らせが届いた。




それは、父の死だった。




父は、苛酷な強制労働で体力が衰え、命を落としたのだという。




母は、泣いた。




あたしは、これまで父と争ってばかりだったことを後悔した。




お互いのことをもっと理解できていれば、もう少し仲良くできたかもしれなかった。




あたしは、最後に「悪い子ではない」と認めてくれた父のことを、




大嫌いながらも、愛していた。




そのことを、失って初めて知った。





そして―――――今に至る。





あたしは、レメックたちの帰りを、待ち続けている。




けれど、どんなに待っても、彼らは帰ってこない。




一体、どうなってしまったんだろう……心に、不安が渦巻いた。




この不安は、これまでも、いつも胸にあった。




だけど、その不安をかき消すために、自分で自分に言い聞かせる。




大丈夫だ、と。




彼らは、必ず、帰ってくると。




この六年間、ずっと、その繰り返しだった。




レメックの言葉が、あたしの生きる望みだった。




もしかすると、彼は、あたしのことを考えられる段ではなかったかもしれない。




あたしのことなんか、あまり覚えてもいないのかもしれない。




けれど、あたしにとっては、彼の言葉は救いだった。




何の希望もない地獄のような毎日を、今まで生きてこられたのは、




彼と「また、会うんだ」という望みのおかげだった。




あの別れの日から、たとえ、辛くても、あたしは泣かなかった。




なぜなら、彼が言ったからだ。




『笑って』と。




いつも、あたしの心の中には、レメックがいた。




だから、あたしは、待つ。




また、あの楽しかった日々が戻ることを信じて…待ち続ける――――――。





今日は、あの夏の日のように、よく晴れた日だ。





太陽が眩しいほど輝き、真っ白な雲が浮かぶ。




どこまでも続く美しい青空が、広がっている。




この空を、レメックも見ているだろうか…―――




そんなことを考えていると、母があたしを呼んだ。





「アネタ」




「なに?」





家の中から出てきた母の表情は、なんだか変だ。




母は、自分の後ろを指した。




そこには、一人の少年が立っていた。





「……―レメック?」





思わず、口から彼の名が出てしまった。




けれど、その少年は、レメックではなかった。




少年は、じっと、あたしの方を見つめた。




その目は、暗く、痛みを負っているように見える。




本能的に、手で自分の胸を押さえた。




この少年は、何かを伝えに来たに違いない―――そう思った。




母とあたしは、少年を家の中に入れた。




少年は、やがて、口を開いた。





「…レメックと、友達だった」




「…レメックと?」





あたしの胸は、高鳴った。




ようやく、レメックが……!!




胸の中に、希望が広がった…




次の瞬間。





「彼は……戻ってこない」





少年は、語りはじめた。




あれから、レメックと彼の家族は、




ゲットーというユダヤ人居住区に住まわされたのだそうだ。




そこで、少年は、レメックと出会ったという。





「レメックは…本当にいい奴だった。


すごく優しくて……


誰のことも、ナチスの連中のことさえ、恨んだりしなかった。


両親が死んでからは、ずっと妹の面倒を見ていた」





少年は、目に涙を浮かべながら話した。




レメックのお父さんは、気まぐれなナチスに銃殺された。




その後、間もなく、レメックのお母さんも伝染病で亡くなった。




そして、レメックは、小さな妹と二人きりになってしまった。




彼は、口癖のように、「妹には僕しかいない」と言っていた。





「ナチスは、ユダヤ人をゲットーから収容所へ移送することを決めた。


それは、ユダヤ人を絶滅させるための取り決めだった。


けど、俺たちは、騙されていて詳しいことは何も知らなかった。


ただ労働のための移送だと思っていたんだ」





しかし、事実はそうではなかった。





「レメックと妹…俺たちは、大勢のユダヤ人たちと一緒に貨物列車に乗せられて、


運ばれていった――…絶滅収容所へ。


水も食べ物もトイレもない状態で列車に揺られ、到着すると…


すぐに選別が行われた。


その選別の意味が、初めはよく分からなかった。だけど、後で分かった。


その選別は、働ける者と、そうでない者を分けるものだったんだ……―」





そして―――





「レメックと俺は、一緒に同じ方向へ選ばれた。


だけど、レメックの妹は、別の方向に選ばれた。


レメックは、「妹がいるあっちへ行く」と言った。


俺は、もちろん止めた。でも、レメックは行ってしまった。


俺は、その時、知らなかった……


レメックと妹がいた列が、ガス室へ行く方だったなんて」





少年は、涙を流しながら、ほとんど独り言のように話した。




目の前で、苦しい光景を見ているかのような様子だ。





「絶滅収容所では、大半の人間がガス室へ送られ、毒ガスで殺された。


……レメックと妹も、そのうちの二人だった」





少年は、嗚咽した。




―――時が、止まった。




………レメックが、殺された?




………毒ガスで、殺された?




少年は、ある物を、こちらに差し出した。





「これは…ゲットーで、レメックが書いた手紙だ。


収容所へ旅立つ前、ゲットーの地中に埋めたものを、


掘り起こして取ってきたんだ…。


レメックに、もしも自分が帰らなかったら、


代わりに渡してほしいと言われていた……君に」





差し出されたのは、土で汚れた瓶。




この中に、レメックからの手紙が入っているというのだろうか…。




少年は、頬に涙の跡を残したまま、去っていった。




母が、小さく声を掛けてきた。





「……アネタ」





母は、青白い顔をして、そっと、あたしのことを抱きしめた。




その手は、微かに震えていて―――





「なんて、ひどい……わたしは…罰されるべきだわ」





そう、呟くように言った。




母も、レメックたち家族が帰ってくることを、待っていた。




父の分まで、彼らに、謝るために…。




けれど、もう、何も叶わない。




どんなに願っても、彼らが帰ってくることはない。




あたしの理想の家族は、消えてしまった。




レメックとは、もう、会えない。




二度と、会えない。




目から、どっと涙が溢れ出てきた。




あたしが、これまで信じてきた希望は、全て無駄だったというのだろうか。




割れかけては、なんとか持ちこたえ、




ギリギリのところにあった心が、ついに壊れた。




あたしの心は、ついに、死んでしまった―――。





『なんだか…お姫様みたいだ』





………レメック?




お願い、戻ってきて。




あたしを、置いていかないで…。





『僕は……アネタのこと、好きなんだ』





あたしだって、好きだよ……レメック。





『アネタ……また、会おう』





レメック…




レメック…





『アネタ』





レメックの声で、目を開ける。




窓から、光が射し込んでいる。




あれから、眠っていたみたいだ。




辺りを見回しても、誰もいない。




ふと、手元に、汚れた瓶があるのが目に入った。




…レメックの書いた手紙。




そう、少年は言っていた。




一体……どんなことが書かれているんだろう?




自然と、手だけが動いた。




瓶の蓋を開け、中から、紙を取り出した。




紙は、ボロボロだけれど、丁寧に折り畳まれていて、持っている手が震えた。




レメックは、本当に、あたしのために、手紙なんか残してくれたんだろうか。




レメックは、どんなことを考え、どんなことを思っていたのだろう…。




そして、あたしは、とうとう、折り畳まれた紙を開けた。




そこに並んでいたのは、紛れもなく、レメックの字だった―――。





『僕のお姫様へ



…ちょっと、気持ち悪いかな?


まあ、いいか…。



アネタ、元気にしてる?


この手紙をもしも君が読んでくれていたら、


きっと、もう戦争は終わったということなんだろう。


君や、君のお父さんやお母さんが元気でいられていることを願う。



アネタ、僕は元気だよ。だから、安心してほしい。


ただ、心にぽっかり穴が開いたような気分で毎日を過ごしている。


君に会いたくて、仕方ないよ。


君に会えなくて、本当に寂しい。



君と別れてから、あの後、


僕ら家族は、このゲットーに連れてこられた。


ゲットーは、ユダヤ人を隔離するための居住区なんだ。


今も、僕はゲットーにいる。


だけど、もうすぐ移送があるらしくて、また別の場所へ移されてしまうんだ。


だから、その前に、こうして君に手紙を書いている。


少し怖いことを言うかもしれないけど、


次の場所では、いよいよ、どうなるか分からないんだ。


詳しいことはよく知らないけど、移送先は収容所で、


僕らユダヤ人は、絶滅させられようとしているらしい。


別れ際、君に言ったことが頭に浮かんだ。


また、会おう。そう言ったよね。


絶対に帰ってくる、って。


でも、もしかしたら、それが出来ないかもしれない…


君は、きっと、怒っちゃうよね。


そう思って、あらかじめ伝えておこうと思う。



もしも、僕が帰ってこなかったら、嘘つきだと罵って。


僕が帰ってこなくても、悲しまないで。


僕は、君に笑っていてほしい。


笑顔で生きてほしいんだ。



僕も、限界まで、笑って生きるつもりだ。


ユダヤ人として生まれ、それ故に迫害を受けなくちゃならなかった。


けど、僕は、自分の人生が悪いものだったとは思わない。


ユダヤ人であるということは、僕の誇りだ。


そして、何より、僕は、君と出会えてよかった。


君の隣にいられて、本当によかった。



毎日、すごく楽しかったよ。


いろいろなことを、たくさん一緒にしたよね。


どれも、全てが、かけがえのない思い出だ。


まだ、たくさん思い出を増やしたかったなぁ。


もっと、一緒にいたかったよ。



そういえば、身長、だいぶ伸びたんだ。


たぶん、もう君よりも大きいと思う……これで、王子様にしてもらえるかな??


まあ、それはともかく…


身長が伸びたことは、ここでの生活で嬉しかったことの一つなんだよ!


だって、僕は、ずっと、君の背を追い越すことを目標にしてきたからね。


君も、喜んでくれると嬉しいな。



戦争が始まってからは、僕ら、ほとんど会えなかったよね。


僕は学校に行くことすら出来なくなったから、


ただ、君のことを見守っていることしか出来なかった。


いつも、君のことを見てたんだ。君は、きっと、知らないよね。


戦争が始まってから、君はほとんど笑顔を見せなくなった。


そんな君を見ていると、すごく辛かった。


僕は、学校に行けなくて、自分ばかりが辛いような気がしていた。


だけど、君やみんなだって、すごく辛かったよね。


戦争は、たくさんの傷を残す。


もう、この戦争が終わったら、二度と繰り返さないでほしいと心から願う。



一度、君は、僕の家に来てくれたよね。


あの時は、僕、すごく嬉しかった。


でも、ごめん。


君に迷惑を掛けたくないという思いもあって、僕は臆病になっていた。


本当は、君と話をしたくてたまらなかったのに。


本当に、ごめんよ。


僕の方が、よっぽど悪かった。


君は、ただ、みんなに誤解されていただけだったんだ。


本当の君は、誰よりも思いやりがある、良い子なんだ。


僕は、ずっと、そんな君のことが好きだった。


大好きだった。


君は、あまり知らなかったかもしれないけど、僕には、君しかいなかった。


君は、僕の生きる世界だった。


もっと、早く、伝えていればよかった。


いろいろと、ごめん。



別れたあの日、泣いたりして、格好悪いところ見せて、本当に、ごめん。


もう、絶対、泣いたりしないよ。


君を守れるような男になりたい。


君のことを、僕は、少しでも守ってあげられたかな。


あんまり、自信がない。


だって、僕は、いつも、君に励まされていたから。


君の笑顔は、僕に力をくれた。


君は、本当に…僕にとって、お姫様みたいなんだ。


最後に遊んだあの日、言ったことは、全部本当のことだよ。


君は、すごく驚いていたけど…あの日、君にいろいろ話せて、本当によかった。



そうだ、他にも…君に言いたいことがあるんだ。


これからも、君は君らしく、明るく生きていってほしい。


その明るさを出せば、きっと、たくさん友達ができるはずだよ。


そして、楽しい人生を送るんだ。


君の友達は、きっと、僕だけじゃないはずだから。


でも、やっぱり、僕は、君にとって最高の友達であってほしいなぁ。


ワガママ言って、ごめん。



戦争が終わった世界で……君に会いたいなぁ。


また、あの楽しかった日々を過ごしたい。



その願いを胸に、僕は行くよ。


どんな運命が待ち受けていても、僕は受け止めるつもりだ。


だから、心配しないで。


僕らは、きっと、何があっても負けないから。


いつか、必ず、自由になれる時はやって来る。


僕らのように、ユダヤ人と、そうでない人が、


誰からも否定されずに仲良くできる日が、きっと、やって来る。


だから、その日まで…笑って。


僕は、いつか、きっと君に会いに行く。


だから、その笑顔をまた見せて。


お姫様、笑って。


また、いつか、必ず会おう。



またね、お姫様。


今まで、ありがとう。


大好きだよ』





「……レメック」





涙が、止まらない。




レメックの言葉は、あまりにも優しくて、切ない。




この手紙の中から、大好きな彼の姿が、浮かんでくるようだ。




レメックは、辛い生活の中で、たくさんの優しい言葉を残してくれていた。




お父さんやお母さんが亡くなったことも、




妹と二人だけになっていることも、




そんな大事なことを、何も言わずに…。




あたしを心配させないためだったのかな…なんて、そんなことを考えてしまう。




でも、きっと、そうだった気がする…彼は、本当に優しかったから。




この手紙を書いた後、彼は行ってしまったんだ。




殺されるための収容所へ。




ただ、ユダヤ人として生まれただけで。




それを誇りに思っていた人々も、ただそれだけの理由で、命を奪われてしまった。




レメックたちは、そんなひどい歴史の犠牲者になってしまったのだ。




戦争は終わった。




けれど、これからも、その傷跡は残り続ける。




死んでしまった人々も、生き残った人々にも…世界中のあちこちに。




あたしは、レメックからの手紙を、胸に抱きしめた。




そして、声を出して、泣いた。




レメック…大好きだよ。




手紙を書いてくれて、ありがとう。




あたしは、手紙を持って、家を出た。




そして、ある場所へ向かった―――。




そこは……




あの、お気に入りの場所だった…戦争で焼けてしまった、あの野原。




あれから、ずいぶんと時間が経ち、




わずかに緑が生えはじめ、少しずつ元通りの姿に戻ってきていた。




この野原と共に、今、世界中が、復活しようとしている。




戦争で傷ついてしまったものを、少しでも癒そうとしている。




レメックたちは、この光景を、見ているだろうか…――。




きっと、この野原が元通りになっていっているのを、




レメックは喜んでいるに違いない。




ここにいると、レメックの笑い声が聞こえてくるようだ。




あたしは、とめどなく流れ続ける涙を手で拭い、ニコッと笑ってみた。




レメックは、見てくれているだろうか。




笑っていても、涙は止まらない。




だけど、レメックが言うなら、頑張って、笑う。




もしも、また彼に会うことが出来たら、笑顔で会いたい…




戦争と差別のない、平和な世界で…。




レメック、大好きだよ。




また、絶対に会いたい。




信じているよ。




本当に、ありがとう。




あたしは、もう一度、広い青空に向かって、微笑んだ。





〈終〉





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またね、お姫様 彼杵あいな @ainafrank

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