第41話 鬼才

 子供が一人、泣いている。転び、膝を擦りむいたのだ。そこへ一人の女がやって来て、子供へ向かってこう言った。

「痛いの痛いの飛んでいけ」

 真剣な様子の女に、子供は痛みを忘れたようにぽかんとしている。

「どう? 治った?」

「ううん。痛い」

「あー、そっか。そうだよね」

 苦笑した女は、子供の怪我の手当てを始めた。一通り済ますと、「これでもう大丈夫だよ」と笑顔で言う。

「おばさんは、お医者さん?」

「ううん。ただの通りすがり。これくらいの怪我なら、誰だって手当出来るよ」

「ありがとう」

 子供は素直に礼を言った。すると、女は子供の頭を優しく撫でる。

「全く、この世は平和で良いことだね。君は、きっと良い大人になって、長生きしてね」

「うん」

 子供は女の言葉の意味を把握しないまま、頷いた。女は立ち上がると、手を振り去って行く。子供はぼんやり見つめていて、「あ」と声を上げた。

 女が歩いて行った先、向こうの通りで女が一人の男に声をかけたのだ。何でもないような光景であったが、子供ははっきりと見た。鋭い爪が、彼には生えていた。子供は知っていた。かつて、悪鬼という恐ろしい怪物がいたことを。しかし悪鬼は、今となっては過去の産物で、悪鬼たちは人目の付かないところで大人しく暮らしている。なぜなら、もう何年も前に、悪鬼の大将なる男が現れ、悪鬼たちを鎮めてしまったからだ。悪鬼の大将は、見た目はまるで人間だが、生えている鋭い爪と牙が悪鬼であることを証明している。

 まさか、と子供は思った。母から聞いて、まるで英雄だと思っていたあの大将が、あの男なのではないか。子供は走り出したが、二人の姿はふと消えてしまった。

 握手してもらいたかったのに、と子供は辺りをうろうろするが、二人の姿はどこにも見つからなかった。そうしているうち、子供は母から聞いた話をさらに思い出す。

「かつて悪鬼の大将は、武智五山に付き従っていたんだって。悪鬼の大将の行動は全て、武智五山のためのものらしいよ。武智五山っていうと、神様なわけだけど、うーん、昔いろいろあってね。私もそんなに詳しくないけど、興味あるの?」

子供は、武智五山のことはよく思っていなかった。この世に呪いをかけ、天災を起こしたからだ。しかし、悪鬼の大将が付き従っていたとなると、悪い人物でもなかったのかもしれないとも思った。悪鬼の大将が人のために悪鬼を押さえ続けているのが武智五山の意思だとすれば、今を生きる人間たちは、武智五山のおかげで生きていると言えるのかもしれない。

 子供はとぼとぼと家に帰った。帰れば温かい飯にありつけ、明日も生きていける。大事なのは前を向き、食べて寝て暮らしてくことだ。人生で会えるかどうか分からない憧れの人と握手出来なかったことくらい、何てことないのである。

 子供はうじうじと後悔をしながら家の戸を開けた。美味しそうな匂いに、一気に脳内は満たされて行く。

 武智五山も、悪鬼の大将も、その他の知らない人たちのことも、とたんに頭から抜け去った。全ては生まれる前の話であり、あずかり知らぬ話である。事実も、虚構も、全てがない交ぜになった世の中が善か悪かなんて、誰にも分からないのだ。

 武智五山が神になったなど、誰かが聞けば大笑いしそうな話だが、これがこの世の事実である。

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武智五山は笑わない 糸坂有 @ny996

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