後編
高層ビルの屋上、スーツを着た繋水那は最後の書類にサインを行っていた。この会議で次の社長を誰にするのかを記し、自らが引退するためだった。誰が次の社長になるのか。そんなものは前々から決まっていた。持っているスペック、人間関係の構築の仕方。これからは繋の時代ではない。新しい変化が必要だった。
「書類にサインを終えました。本日をもちまして私、繋水那は社長の席を降ります。次の社長は―」
繋は自分の右側後方に立っていた女性に、上目づかいで視線を向ける。
「この、冴野紗枝さんに任せることにします。異存が無ければ、拍手をお願い致します」
形式だった拍手が会議室から聞こえてくる。繋は立ち、お辞儀をした。
「皆様、私は去りますがこれからも紗枝の下、会社を盛り上げていってください。以上で本日の議題は終了となります。貴重なお時間を頂き、誠にありがとうございました」
他の役員たちは会議を終えると、繋に挨拶をして帰っていった。最後の一人を見送った後、繋は紗枝と会議室に取り残される。夕焼けの光が部屋に差し込んでくる。光を浴びた繋は眉間にしわを寄せていた。
「繋、ほんとに夕日とか嫌いなんだな」
「嫌いだよ。夜の方がずっといい」
力が抜けるように繋は机に座り、ストローが刺さったペットボトルで水分補給をする。
「あんた、これからどうすんの?あの仕事が終わったら、あんたの下を離れようと思っていたのに、そっちが会社辞めるなんて思わなかったよ」
「そう?別に、私は自分のしたいことをやっただけだよ。行きたいところがあるんだ」
部屋の照明は付かない。
「彼らの目線で創作がしたい。だから時間が欲しいのさ」
紗枝は、繋がまた冗談を言っているのかと思った。
「創作はしてるんじゃない?音楽作っているでしょ」
繋は首を横に振る。
「創作の原点は純粋な感情だ。弾くのが楽しい。書くのが楽しい。歌うのが楽しい。金が欲しい。いずれは消えるこの感情たちをどう昇華するのかは、己の経験」
繋は、再び水を口に運ぶ。
「若い芽では多くを知り、熟れれば挑戦する。そして、枯れた時に何が残るのか。何が自分の背中について回ったのか。私はその景色をみるために、これからも音楽を作り続ける」
繋の目は窓の向こう側に向いていた。紗枝も同じ景色を見る。これが、二人で見る最後の景色かもしれない。
「それに、本当に全てを失った時に私はどんな景色を見るのだろう。楽しみで、楽しみで仕方がないよ」
「やっと、繋がこのライブを開いた理由がわかったよ」
繋は嘲るように笑顔を浮かべた。
「ほんとにわかったの?」
紗枝は体を移動させ、繋の視線を遮る。
「うん。どうせ作った物なんて、どうせ忘れられてしまう。だから、繋は盛大に弔ってやりたかったんでしょう?私にも、その気持ちはわかるよ」
何も口にはしない。だが、繋は口を少し開けていた。日も、もうすぐ沈む。紗枝は繋に背を向けて窓の外を見た。そして、安堵の息と共に思いがこぼれる。
「相変わらず、あんたは人の事を考えない。散々振り回されたし、面倒くさい仕事もこなしてきた。あのライブが終われば、本気で繋の下を去るつもりだった。はぁ。それも、会社を押し付けられたせいで、叶わないけどね」
繋は流石に申し訳なさそうに俯いた。合意の話ではあったが、押し付けていると言われればそれまで。再び顔を上げると紗枝は笑っていた。
「でも、あんたはずっと自由で、音楽を作って、私が届かなかった景色を見せてくれた。いいよ。行ってきな。あんたが、どんなになっても私は応援し続けてやるよ」
「そう……紗枝らしくないな」
「あんたこそ、繋らしくないんじゃない?」
この時の、紗枝が紡いだ想いを聞いた繋の表情は、彼女しか知らない。すぐにいつもの状態に戻った繋は、机から飛び降りる。踏みしめるように立てば、ビルと世界の境目へと手を置く。
「本当に、私は何でもできるみたいだ」
「似合わないねーあんたにそういうの」
紗枝がからかうように、下から繋の顔を覗き込む。しかし、予想していた顔と違って、繋は何故か不敵な笑みを浮かべていた。
「え、何考えてんの」
「なーんにも」
繋は紗枝から離れ、出口へと向かった。胸騒ぎがする。しかし、彼女は何事も無かったかのように堂々と歩く。そして会議室のドアを半分開けて、繋水那は話し始めた。
「紗枝とのこの数年間、本当に楽しかったよ。じゃあ、またいつか」
疑念を振り払って、繋に返答する。
「もうこりごりだよ。でも、元気で」
繋は出ていく。紗枝は一人会議室に取り残された。彼女から背けるように、夜がすぐに来る景色を見るために、振り向こうとした。しかし、再び会議室の扉が開かれる。繋が顔だけをヒョッコリと出していた。
「ところでさ、紗枝。何か忘れてない?」
「え、何かあった?」
「ヒント、社長室。じゃ、よろしく~」
ヒラヒラと手を振り、繋はいたずらっ子のような笑みを浮かべる。そしてバタンと勢いよく扉が閉められ、紗枝の視界から繋が完全に消えた。一瞬だけ硬直し、社長室に何があるのかを考える。脳内の検索結果はすぐにはじき出された。
「あ!あいつ社長室の片付けサボったな!」
繋を追いかけるべく、紗枝も会議室を駆けた。扉を開けても、もう繋はいない。呆れた。両手を腰に当て、彼女が通ったであろう道を眺める。
「はぁ、もう!結局最後まで振り回された!」
でも、紗枝は笑っていた。オフィスを歩く社員たちは、会議室から飛び出てきた新しい社長が笑顔の素敵な人だと知った。ただ紗枝は、今はそのことに興味が無い。真っすぐに社長室へと足を運ぶ。たどり着いた社長室は、書類が綺麗に整頓されている。もはや紙に包み込まれているような部屋だ。しかし、この部屋の中心にある、繋が座っていた椅子には誰もいない。王も、道化師も、だれも座っていない。その椅子に紗枝は腰を下ろした。確かに、繋の居た形跡があった。
「よし!早速、始めますか!」
夜が始まる。光を放つ、最高の世界がここにある。机の上には、繋達が映った二枚の写真が立てかけられている。繋水那、彼女はいつだって笑顔で満ち溢れていた。
*
ホテル・リゲは名前をホテル・ホッパスと変えていた。その入り口前に、波田は棒付き飴を咥えて立っている。もう白い息は出てこない。代わりに吐き出す整った呼吸は、少しだけ感じていた緊張感を和らげてくれる。波田は自身が再びここに来るとは思っていなかった。あの時は、そんなことを思いもしなかった。しかし、7年前の記者会見は、だんだんと記憶の中でおぼろげになっていく。
「俺も年を取ったな」
「波田洋介さん」
波田が振り向くと、そこには月見が立っていた。丁寧なお辞儀と共に、昔と違ってスーツを着ている。波田もお辞儀をした。
「月見さん。改めまして記者会見の場を整えるのに手伝って頂き、誠にありがとうございます」
「人生、何があるかわかりませんわ。あの日、取材しようとしていた人のお手伝いをするなんて」
月見は、波田の顔を見ようとはしなかった。
「本当に、申し訳ございませんでした。私たちは、あなたの人生を奪ってしまった」
彼女が俯く理由。波田はすぐにわかった。自身が経験したことと似ている。口に出さずにはいられない。
「月見さん。俺は、別に真実を追い求めることは決して悪いことじゃないと思う。でもあなたは、俺と同じで他人の責任を自分の責任と感じてしまう人でしょう」
月見は口を結んで顔を上げる。波田の表情は朗らかだった。
「適当に生きましょうよ。一度きりの人生なんですから。あなたも、俺もそれぐらいが丁度いいと思いますよ」
波田は持っていた飴を再び咥える。
「それに、こういうのは男がするものだ。俺だったら、代わりに土下座でも何でもしますよ」
「ふふっ、そうね。ありがとうございます」
夜に吹く風も、すでに冷たくない。月見と初めて視線が合った。
「波田さん。私も、もうこれで一区切り。そう思うことにさせて頂きますね」
「ええ、これで一区切りですよ」
月のような笑顔。彼女の名前にふさわしい表情だった。
時間を見るとまだ時間がある。波田はもう一人だけ、感謝を伝えたい人物がいた。
「そういえば、創吾君はどうしているか知っていますか?彼も手伝ってくれたと聞いているんですが」
「彼なら、そこに―」
月見が指を指した方向は、波田から死角にあった運搬用トラックの裏側だった。こっそり聞いていたのだろう。月見が場所を言えば、何事もなかったかのように出てくる。彼は月見の隣に立つ。彼を見たのは随分前だったが、彼も年を重ねたと感じた。
「創吾君も、手伝ってくれてありがとう」
創吾は首を横に振る。
「いえいえ、良い勉強になりました。いつか不祥事でも起こせば、これで対応できます。父さんが言っていた、根回しの大切さも理解できましたよ」
「そうならないことが一番じゃないかしら?」
「同感です。でも、知っておけば手を差し伸べることもできますから」
記者会見の場をセットするために、彼らは互いに協力したのだろうか。楽しそうに会話を弾ませている。波田が知らない内に、人間関係が構築されていたことが意外だった。
「今度またキチンとお礼でもするよ。ありがとう。じゃあ、俺は会見場に行ってくるよ」
波田は会場に向かおうとするが、創吾に引きとめられる。
「待ってください、波田さん」
「どうした?」
「一つだけ聞かせてください」
一度だけ瞬きをする。
「なぜ、今ここに立てているんですか。そんな嵐のような人生を生きているのに、あなたは笑っている。到底信じられないんですよ」
何かと思えばそんなことか。波田は思わず吹き出してしまった。咥えていた飴が落ちそうになる。
「単純さ」
心底真面目そうに創吾は耳を立てていた。目も真っすぐ波田を見つめている。
「今が楽しいんだ。だから笑っていられる」
「それだけですか?」
波田は創吾を無視して、会場へと足を向けた。月見は笑いを必死にこらえている。もうすぐ自動ドアに差し掛かろうとする頃、トーンの変わらない創吾の声がまた耳に届く。
「本当にそれだけなんですか?」
波田は振り向かずに手を振りながら、軽い口調で呟く。
「深海に潜ってみればわかるぞ。ま、潜らない方がいいけどな」
フロントは7年前の雰囲気がまだ残っていた。会場の位置も変わらない。報道陣が波田にフラッシュを焚き続ける。そんな光の道を、彼は歩く。ポケットに手を突っ込み、不敵な笑みを浮かべて堂々と進んでいく。
やがて、あの日に自ら開けた会場へのドアへと辿り着く。しかし、7年前とは違う。さらに大きく重厚になったドアの前には、見知っている二人の人物が立っていた。
「木梨君、輪塚」
左を見れば、手を振って木梨が出迎える。
「暖かくなってきたから寝坊したんですか?遅かったですねー波田さん。ずいぶん待ちましたよ」
「あぁ、待たせた」
「会場の警備はばっちりですよ。もう7年前とは違いますから、全部を話してきてくださいよ」
右を見れば、輪塚が腕を組んでいた。
「好きに話して来い。ここも、お前のステージだ」
確かめるように、何度か頷く。
「二人ともありがとう。お言葉に甘えて暴れてくるよ」
木梨と輪塚は扉を開ける。会見場の一番前、壇上へと波田は歩き始めた。あの日、ぐちゃぐちゃになっていたパイプ椅子は綺麗に並んでいる。歩く度に有刺鉄線が体に刺さりそうだった床は、綺麗な絨毯として足に優しい感触を伝える。何も、壊されていない。
壇上にあるのは、会見用の教壇、マイク、そして給水用の水だけ。椅子は必要ない。階段を昇る前に一度お辞儀をして、波田は記者団の目の前に立った。
「波田洋介です。本日は集まっていただきありがとうございます。今日をもって、ようやく約束が果たせます。大変長らくお待たせいたしました」
マイクを握りしめる。この声を一言も逃させないように。
「全てを話しましょう!この7年間、何があったのか。何を思ってここに立っているのか」
きっと、10年前の俺が見たら悔しくて唇を歯ですりつぶしちまうだろう。ただ、7年前の俺が見たら膝をつき、感無量の涙を流すはずさ。現実になったよ。だから、一緒に行こうぜ。
「俺は、肯定も批判も全てを受け入れる」
波田の目力が一層強くなる。
様々な色が混ざってできた黒色の目を持つ、波田洋介という一人の人間。彼の目の前を遮るものは、もう何もない。そして巡り巡って、遠回りに歩いてきた道。振り返れば小さな星が、煌々と輝きを放っていた。この光も、きっと次の星を生み出す。
波田は笑う。本当に、満点の星空のような素敵な笑顔だった。
― 完―
燐光 まきなる @makinaru
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