最終章 もうすぐ冬が明けるから
前編
お待たせいたしました。最終章は今日と明日の2回に分けての更新です。残り短い間ですが、どうぞお楽しみください。
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2022年1月31日 P.M. 6:00
特別な席というのは、最も彼女を近くで見れる観客席だった。世界中のスターを巻き込んだライブは、一つの場所に集まって行われるというわけではない。それぞれのアーティスト達が、自身がしたい場所でライブを行う。各々、自分の国を中心にライブを行うというものだった。観客に詳細は語られていなかったが、スクリーンで映像を見るのだろうかと思う人が多かった。しかし、繋が育ててきた会社の技術が、ここで最大限に発揮されていた。
「何だこれ…巨大な黒い板?」
招待券を持ってライブ会場に訪れた自分は、パフォーマンスが行われる場所に来ていた。しかし、会場にはセットらしいセットは一つも無かった。地面から少し段を付けてステージが設置されているが、そこにあるのは真っ黒のステージのみ。光沢を放っていることから、何らかの映写機であることしかわからない、
自分が座っているのは特等席。そして特等席というだけあって他の一般客用の場所よりも、さらに作りこまれている気がした。だが、空間のメインであるのセットが一枚の黒い板だけであるために会場からは、どよめきや困惑の声もちらほら聞こえてくる。
「おー!ここかぁ。やっと見つけたぞ。えーっと、Eの13番か。上本!こっちへ来い。随分良い席じゃないか!」
「待ってくれ。こっちは体力が少ないんだ」
元気な声と共に、自分の後ろから二人の老人が近づいてくる。いつも着ているフードを深くかぶり、自分の席番号と比較すると、彼らは丁度自分の真ん前の席だった。持ってきていたビニール袋を置けば、一呼吸。そして腰をゆっくり下ろしながら、さらに二人は息を整えた。
「妻夫木、よくこんなの運んだな。お前の所の従業員は結構凄いんじゃないのか?」
恰幅が良くて豪快に笑っていた男性が答える。
「そうだろう!うちの精鋭をなめてもらっちゃ困る。たとえ、夜中の暗い山道でもあいつらは傷一つ付けずに運ぶだろうよ!高速道路の往復は面倒くさいとは言っていたがな!」
ハッハッハ!と笑い声を添えて、妻夫木は自慢げに話す。
「そうだ。創吾はどうした?あいつも招待状送られていたはずだろ」
上本という、優し気な雰囲気を纏っている老人はスマートフォンを取り出す。
「どうもドラマの撮影が長引いているみたいだ。少し遅れてくるかもしれない」
「そうか!早く来れるといいな!」
目の前の老人二人は、足元に置いていたビニール袋をガサガサし始めた。何を取り出すのかと思えば、バケツに入ったフライドポテトと銀色の水筒だった。会場の席は映画館のように、ジュースぐらいなら椅子の肘掛けに置くことができる。しかし、この特別席は座って左側に物が置けるような机がとりつけられていた。
「私は昔から音楽には興味はあったが、妻夫木が来るとは意外だったよ」
妻夫木はゆったりと背もたれにもたれ掛かる。
「今の流行りは……まぁよくわからんが若者がこうして元気にやってくれるんだ。しかも、丁寧にこんな老人に招待状まで渡しに来るなんて、いやー嬉しいねぇ。こんなの、行かないわけないだろう?」
「そうだな。私も、これを冥途の土産に持って行くとするよ」
「喜美さんも喜ぶだろうな。今日は存分に楽しもうか!」
自分の被っていたフードが、少し揺れる。彼らはポテトをつまみながら、談笑を続けていた。7時から始まるライブまでは、あと30分。開始まで、それほど時間がない。会場もほとんど埋まっており、皆、今か今かと待ち望んでいる様子がこちらにも伝わってきた。
「あーあったあった!ありましたよ月見さん!ここです。ここ!」
「そんなに慌てなくても大丈夫よ。紗枝ちゃん。時間はまだあるでしょう?」
自分の左隣に女性二人が座った。一人は、テレビで見たことがある気がする。
「月見さん!いよいよ、この日が来ましたよ!これでやっっっっっっと、仕事から解放される!そして、見てくださいよ。この盛大な会場!今日は楽しみで仕方がないです!」
「そうね。紗枝ちゃんは繋さんの下で頑張ってきたものね。今日のライブが終わったら、ゆっくり休めばいいわ。今度、美味しいケーキ屋さんを教えてあげる」
「ほんとですか!じゃ、私は良い化粧品を探しておきます」
月見は左に着けた腕時計を眺め、まだ時間があることを確認した。
「なんとなく聞きそびれちゃっていたけど、今日は手伝わなくていいの?事前準備とかのほとんどは紗枝ちゃんがしたんでしょ?」
心底にこやかに、紗枝は右手を顔の前で振った。
「あ、それは大丈夫です。専門性の高いことはわかりませんから。ライブの演出の調製はその道のプロにやってもらうのが一番です。私の仕事は繋が必要な人材を集めただけ。あとは全て、その集めた人物がやればいいですよ」
口元を隠し、月見の上品な笑い声が聞こえる。
「あなた、繋さんに似てきているんじゃないかしら?」
「え、そうですか?」
紗枝は一瞬、硬直する。しかし会話の途中で、さっきまでいなかったはずの男性の声が聞こえてきた。
「もしかして、あなたが冴野紗枝さんですか?」
自分も含め、同じ列に座っていた三人が後ろの声の方向に振り向いた。オールバックでスーツが似合う男性だった。
「あ、木梨さんですか?初めまして、繋から伺っております。マネージャーの冴野紗枝です」
男性はお辞儀をする。
「ご丁寧にありがとうございます。僕が木梨圭斗です。今回の件では繋さんにお世話になりました」
月見は木梨の顔を見て、何かを思い出したようだった。あまり表情筋が動いていなかった。
「もしかして波田さんの記者会見の日にいらっしゃった、警察官の方ですか?」
木梨は月見の方を見る。彼の脳裏にはすぐに、何度も見た記者会見の現場映像が思い出された。
「ええ、あなたは……確か、元リポーターでしたか?」
何度か軽くうなずき、月見は答える。
「はい、そうです」
月見は申し訳なさそうな顔を浮かべ、口を開こうとする。しかし、先に口を開いたのは木梨の方だった。
「お互い、あの日は苦労しました。ですが、もうこの話は止めましょう。折角の音楽がもったいないと思いませんか?」
「木梨さん、繋から聞いていた話と随分違うようですよ?」
彼が持っていたのは、人の心を透過させるような目。紗枝が情報として知っていた木梨とは、様子が変わっているように見える。
「僕もあなたも、繋水那に振り回されたようなもの。ですが、学んだことは活かす方が良いと僕は思います。しばらく表の顔はこれで行くつもりです」
「失礼かもしれませんが、似合っていますよ」
少し照れくさそうに、木梨は少しうつむいた。
「あと10分くらいですか。繋さんのライブ、見せてもらいますよ」
彼が座ると、三人とも自然と前に向かう。会場の盛況ぶりはみるみるうちに膨れ上がり、盛り上げるためのbgmも流れだした。重低音が特徴で、興奮と緊張感が自分の中で渦巻き始めた。悪寒でもない、緊張でもない体の振動が、体に走りだす。
唾を飲み、髪とフードの隙間からステージを見ていた。すると、自分のもう片方に先ほどの木梨という人物と似た年代の人が座ってきた。
「隣いいかな」
「は、はい」
おずおずと反応した自分は、少し彼から離れるように移動しようとした。左隣の女性にぶつかりそうになる。一方、彼の短い言葉に上本が反応した。
「お、小口君じゃないか!久しぶりだ。元気にしておったか?」
「はい。元気にしております。上本さんも妻夫木さんも、健康そうでなによりです」
笑顔が尽きない妻夫木は、もうひと笑いした。
「ハッハッハ!もう老いたよ!」
挨拶を済ませた小口が座ったかと思うと、上がっていた肩を下ろす。自分は、ずれていたフードをさらに深くかぶろうとした。
「君も、繋さんの招待客なのか?」
見知らぬ人に話しかけられて、一瞬、挙動不審になってしまう。フードを掴んだ手の力が強くなった。返事に困っていると、小口という男性は儚げに笑う。
「あ、ごめんな。急に話しかけられると驚くよね。ただ、フードを被ったままじゃ繋さんのライブをよく見れないんじゃないかな」
うつむいてしまった。会場の熱気はとめどなく上昇し続けるのに、自分だけ冷たい氷の中にいると思った。フードを両手でしっかり握りしめ、自分はダンゴムシと言い聞かせる。黙り込んでいると、後ろから別の男性の声が聞こえてきた。
「僕が思うに、君は音楽で引っ掛かっていることがある。違いますか?」
「え?」
「君の手はギタリスト特有の手つきだ。それに、波田さんから聞いている。あんな深夜に駅で歌っているなんて、きっと事情があるんだろ?」
自分の心を読まれているようだった。呆れたような顔を浮かべたかと思えば、小口が語りかける。
「ライブに足を運んだ。じゃあ見ようよ。同じ夢を追い続けているんだろ?」
小口は左手をひらひらとする。自分の手と同じようなギターコードがあった。フードから左手を外し、彼の手と見比べる。
「やっぱり似ているね。右手はどうかな?」
彼の右手の爪は綺麗に切りそろえられていた。一方、自分の右手は適度な長さの爪が伸びている。
「あ、右手は違うんだ。僕はまだピックでしか弾けなくてね。君は凄い」
「いえ……自分はそんな……」
両手を下ろして、膝の上に置く。緩んだ拳も、再び強く自身の体を潰そうと力を籠める。小口は正面を向いて、ステージを見つめる。
「これも何かの縁かな。お節介だと思うけど、音楽を一度は志した者として、これだけは言っておくよ」
自分は顔を上げていない。けど、見つめられている気がした。
「気楽に見ればいいよ。水流に流される葉のように、時には流されるのも悪くない」
彼に顔を向ける。優し気で物事をあるべきことと、理解している表情だった。しかしその時、女性の掛け声とともに、自分の深くかぶったフードが後ろから外された。
「こんな風にね!」
「うわっ!」
「紗枝ちゃん何してるの?!?」
慌てて後ろを振り向くと、彼女は笑顔とともにグッドポーズを取っていた。自分は口を半開きにしたまま、彼女の言葉を聞いていた。
「私と繋で整えた大舞台、見逃さないよね?いいや、繋が許しても私は許さないから!」
「もう、全く。やっぱり繋さんに似てきているわ」
会場の光が眩い。明かりが強いというわけではないが、人のエネルギーの脈流があちこちから噴き出している。話している彼女たちをよそに、自分は正面を向いた。そろそろ時間のはずだけど、何も起きていない。
「あ、そうだ。繋も聞いていなかったみたいだけど、君の名前は?」
「あ、はい。自分の名前は―」
突然、会場で流れていた音楽が止まった。会場内の照明も全て消え、残っていた光は各々が持っているスマートフォンの光のみだった。いよいよ始まるという緊張感の中、スピーカーで誰かが歩いている音が流れ始める。ゆっくりとその場を踏みしめるように歩く。速度は次第に遅くなっていき、やがて音も流れるのを止めた。
ステージ中央に置いてあった黒い板の一点が光り、その中心に一人の女性が立っている。忘れもしない、鼓草駅で出会った人物の一人だ。マイクも何も持っておらず、一言も話さない。そして、右手をゆっくりと上げて一言、ぼそりと呟いた。
「始めよう。私のための、世界最高のライブを」
指が鳴らされ、曲の前奏が始まる。そして突如、何もなかったはずの空間に立体映像の数々が映し出される。人は息を飲み、目の前で起こっている現象を理解しようとするが、それは叶わない。曲と演出が作り出す、圧倒的な世界観に誰一人逃れることができる者はいなかった。
繋水那は最初の曲を歌い始めた。バックダンサーも現れて、空間に作られた退廃的な街を乱れるように踊りだす。世間で姿を現してパフォーマンスをするのは初めてのはずなのに、繋水那の他の色をしらない歌声が響き渡る。まさに歌姫。持ち合わせていた美貌と水色のドレスが織りなす様が、灰色の世界と相まって魅力を引き立てていく。
機械的な鳥が空に飛べば、妖の如くダンサーが踊る。曲の間にも映像は切り替わっていき、一瞬たりとも見逃すことはできない。紡がれる曲は、まだリリースをしていない曲だった。しかし、繋水那の声は人の魂に刻み込んでいく。一生消えない傷をこれでもかと残していった。
瞬く間に、一曲目が終わりを告げる。ダンサー達はその場で倒れたかと思えば、こと切れたロボットのように動かなくなってしまった。一方、ステージ中央に立つ繋水那は全身を大きく使ってお辞儀をする。
「祭りへようこそ!今日はいい日だ。あなた達の目の前で、初めての事ばかりが次々に巻き起こる。だが、これは現実だ。この世界最高のライブを身も心もボロボロになるまで、見届けろ!」
会場から雪崩のような拍手が巻き起こった。しかし、その音はすぐに騒めきの音に戻る。ステージ中央に映し出されていた映像がノイズのような挙動を見せ始めたのだ。ダンサーたちのほとんどはステージから離れ、残ったのはノイズが入った映像と繋、そして彼女の隣には二人の人物が次の言葉を待っていた。
「次の曲は……これだ」
掛け声とともに繋の両脇に居た二人が繋の衣装を引っ張る。そして、繋が着ていた衣装はドレスからヒップホップが似合うパーカーに早変わりした。どこからともなくキャップ型の帽子が飛んできたかと思えば、映像も切り替わる。民衆は次の瞬間、繋の隣に別の女性が立っていることに気がついた。ボイスパーカッションでアフリカを中心に、世界中で人気のアーティストだ。
楽器の演奏が聞こえ始める。しかし、音は人の声で生み出されているのに気がつくのが遅かった。そのボイスパーカッションに合わせて、繋が曲を歌い始める。誰が予想したのか、別の会場同士でパフォーマンスをしている二人のコラボだった。
他の場所での同時開催ができる理由が、ここにあった。会場同士はリアルタイムで同時接続され、他のパフォーマンスも見ることができる。それどころか、立体映像であるために演者の全員が目の前で歌っているかのように錯覚するような仕掛けを施されていた。
まさに全世界を巻き込んだライブが、目の前で繰り広げられていた。演目を知るものは演者のみ。それぞれのアーティスト達が紡ぎだした世界が、景色が、現実として表現されて、言葉を理解できていなくても強く刻まれていく。
砂漠に雪が降ったかと思えば、海に大都会が沈み、規則正しい機械たちの行進が世界を飲み込んでいく。そこに歌が織りなす魔法のような現象は、決して現実にあるものではない。目に飛び込んでくる。アーティストが紡ぐ世界が、体に流れ込んでくる。ただ披露するだけで、圧倒させないようなアーティストはいない。各々が持っている一番の部分をこれでもかと、表現する。まさにスター達だった。
だが、終わりは必ず来る。演目のほとんどが終わった頃、再び繋がステージの中央に立っていた。
「このライブも、あと一人で終わる。私にとって最高のアーティストの声を、その身に焼き付けてくれ」
舞台が暗転し、スピーカーから繋の足音が流れ始める。だが、おかしい。入場の時とは違う。足音が次第に多くなっていく。さらに足音だけではなく、人の話し声、そして車の音まで聞こえる。やがて映像が下から少しずつ構成され始めた。映像で見たことがあるその景色、そして中心には二人の男が立っていた。
男たちの周りには、数え切れないほどの人が集まってきている。自分の周りにいた人たちも、思わず『おっ!』と声を上げていた。スピーカーで流れていた雑踏の音が消え、辺りにベースの音が轟き始めた。もはや、ベース一本で成り立つようなパフォーマンス。有名なベーシストにこんな人物はいたのだろうか。彼の存在は特等席に座っている一部の人物しか知らない。そして黒いハットを被った男もギターを弾く。一度顔を見れば絶対に忘れない。もう一人の、鼓草駅で出会った人物―
「波田洋介だ」
タイムズスクエアを中心に、彼は自らの曲を紡いでいく。激しく歌えば、優しい語りを行い、哀愁漂う詩が流れれば、笑って言葉を放つ。あの日、あの時聞いた光が体を刺していく。刺さっていく光は、透過しない。蓄積し続けるのを感じた。
波田洋介は歌う。経験を糧に飛び立っていく。飛ぶ鳥と共に大空を舞うように、歌声を全世界に伝え続ける。彼は己の全てを放った。ブランクも感じさせず、7年間の濃縮された時間を解き放つ。停滞ではない、誰にも、己にすら見えることのない軌跡を彼は歩んだ。想いが、願いが、後悔が、苦しんだ何もかも、波田は連れ立って行く。
あるのは、音楽。くだらない程の純粋な音楽。だが、どうしようもなく、世界から音を奪っていった。
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