第32話 雪織千尋のエピローグ



 秋が来た。校舎を出たところに植わってる樹の葉が色づき、はらはらと落ちていた。


 わたしと恭介君はあの日から当たり前のように隣にいる。今までは彼氏とか、いまいちイメージできなかったけれど彼といるのはとても贅沢で自然なことに感じられる。


 お休みの日はだいたい彼がバイトなので、会うのは夕方以降になる。だから平日も貴重だ。休み時間とかも、顔が見たくなったら爆速で会いにいく。

 なにしろわたしは同じ学校にいても気づかず過ごして一年無駄にしている。彼が当たり前に同じ校舎にいる日々が貴重になることを、わたしはすでに予感している。


 わたしは自転車通学をやめて、昨日あったこと、進路のことや、近くのお店の話、楽しかったこと、ちょっとついてなかったこと、これからしたいこと、そんな小さないろんなことを話しながら毎日登下校を歩く。


 始まりが夜だったから、気軽に夜に会ったりもする。


 お母さんにだけは付き合ってることを言ってある。それで、夜に出るときは言っていく。今日はいつもより少し遅かったから少しおそるおそる聞いたけど「いってらっしゃい」と言われた。


「お母さん、止めないんだね」

「千尋一人なら絶対止めるけど……人見君がいるなら大丈夫でしょう。あの子責任感強そうだし」


 確かに、一度夜に待ち合わせ場所に行こうとして迷ったわたしをものすごい早さで見つけてくれた。

 あと、この間はわたしが話しながらフラフラ車道にはみ出そうになったのをかばうため、代わりに軽く車にはねられた。幸い無傷だった。はねられてないわたしがパニックで泣いたのを冷静に慰めてさえくれた。彼がいれば大抵のことは大丈夫な気がする。


 お母さんはにこにこしながら続けて言う。


「わたしも若いころ、夜に抜け出してこっそり会ってたんだよね。そのころあまり会う場所がなくて……近くを散歩したりして帰るだけだったけど、十分楽しかった。それを止められたとき、すっごく悲しかったの」

「そんなことあったんだ……。お父さんには黙っとくね」

「あら、言ってもいいよ。どうせ相手お父さんだし」

「……ご、ごちそうさまでした」


 ほかの家族に気づかれないよう、そっと家を出た。


 夜の中、待ち合わせはどこかというと。

 最近はわたしの家の目と鼻の先の自販機前に落ち着いた。わたしが一度迷ったからか、彼はこの場所について譲ろうとしない。彼はすでにそこにいた。





「おまたせ、今日はどこに行こうか」


 お互い地元。だけど地元だからこそみんなが遊ぶ場所というのはだいたい周知されていて、見知らぬ住宅しかないような道は未探索だったりする。歩いて一駅先まで行けば探索するエリアはさらに広がる。


 とはいっても高校生だし、気軽にお店に入ったりするわけではない。一度現れた純喫茶としかいいようのない味わい深いボロボロの喫茶店に入ったけれど、そんなところはそうない。

 せいぜい、こんなところにコインランドリーがあるだとか、窓から猫用のベッドと寝転ぶ猫が見える家だとか、卓球用品の専門店だとか、本当に小さな公園だとか、そんな小さな発見を楽しんでいる。


 今日はわたしがでたらめに歩き出して、彼はあとをついてきていたけれど、路地に細い曲がり角が現れたときに彼が立ち止まった。


「ちょっと、こっち行っていいか?」


 そう言って迷いのない足取りで細い道に歩き出す。数歩行ってから手を差し出した。


「珍しいね」と言ってその手を握る。いつもだいたいわたしが繋いでいる。彼は嫌なわけではないらしく、わたしが繋ぐのを振り解いたりはしないが、基本は『手を繋ぐ』という行為のことを忘れている節がある。


「ここの通り抜けてから急に、なんていうか……治安が一段階悪くなるから」


 比較的川に近いその道はぱっと見て治安が悪いとは感じなかった。普段そんなものを気にして歩いてないので、区別がつかないだけかもしれない。わたしにとって道はみんな道だ。

 言われて注意深く見たら、さっきまでの通りは小綺麗な一軒家が並んでいたのが、古くて小さな平家、バラック小屋なんかがちょこちょこ増えた。道が細く入り組んでいて、昔からあってあまり舗装も拡張もされてない感じだった。


 恭介君が小さな古いアパートの前で立ち止まり、見上げた。


「ここ」

「え? ここがどうしたの?」

「ここの一階が、俺の前住んでたとこ」


 言われてアパートを見上げた。ヒビが入って半壊しているブロック塀があって一階の目隠しとなっていて、よくわからなかった。


「なんとなく、千尋に見せたかった」


 そのアパートはお世辞にも立派とはいえなかったけれど、わたしは何を思えばいいのかわからなかった。どの感情を持つのが正解なのか、わからない。

 きっと彼はここに住んでいたころ苦労をしてきている。かわいそうだと思う気持ちは少し湧いてしまったし、それを思うのは失礼でいけないことのように思うこともした。わたしが彼を好きだという事実にとって、どうでもいいことのような気もしたし、彼自身に根付く大切なもので、どうでもいいと思ってはいけない気もした。


 恭介君の顔をちらりと見たけれど、先に思ったどんな感情の発言も彼はおそらく欲していないような気がした。だって彼は「なんとなく見せたかった」と言ったから。きっとそれ以上でも以下でもないのだ。


 わたしは、そうやって自分が知らない過去の彼のことを本人から教えて見せてもらえたことに対する喜びが一番強かった。


「ねえねえ」


 呼びかけると、こちらを向いた。

 両方の手のひらを広げて水を汲むようにして前に掲げる。


「恭介君、これ見て」

「え、暗くてよく見えない」

「じゃあもっと顔近づけて」

「ああ……」


 素直に覗き込んだ彼の頬を捕まえて、唇をそっと合わせた。


 ドキドキして、自分が真上からその姿を見ているみたいな錯覚に陥る。


 数秒後、顔を離した恭介君が深く息を吐いた。


「なんか直也の気持ちがわかるな……」

「え、なにそれ」

「いろいろ……どうでもよくなる」

「組木君も、恭介君も、いろいろ考え過ぎなんじゃないの」

「そうかもな」


 恭介君は笑った。それから真面目な顔になって言う。


「あのさ、前聞いた千尋の夢……」

「うん?」

「俺も手伝いたい」

「うん……?」


 何を言ったか思い出せない。わたし、夢なんてあったっけ? わがことなのにそんなふうに思う。


「あと、俺も……近未来じゃなく、もう少し先の目標ができたよ」

「そうなんだ。どんな?」

「賑やかな家族がいいな……と思ってる」

「へえ……ちょっと意外……」


 賑やかなのがいいのも意外だし、家庭とかそういったものだったのにも驚いたし、思ったより漠然としているのもまた意外だった。


「千尋、数年後になるけど、一緒に作ろう」

「うん……え? うん」


 この人今さらっとプロポーズした?

 恭介君をまじまじと見たけれど真顔だった。そうだ。この人はそういう人だ。そこまで漠然としたビジョンを描くタイプじゃない。


「俺、めちゃくちゃ頑張って働くから……」

「い、いや、そんなことまで今考えなくても……」

「俺は真剣だ。どんな悪どい手を使ってでも、千尋に苦労はさせない」

「わたしだって真剣だけど……苦労は一緒にしようよ……」

「いやダメだ」

「ウチの家訓では苦労はみんなで分け合うものなんだけど……恭介君てほんと勝手に背負い込みやすいタイプだよね……」


 そう言うと、一瞬口を結んでハッとした顔をした。


「ああ……俺、まだ変わってねーな」


 彼は低く呟き、頭をガリガリと掻いた。


 それから「帰るか」と言ってあっけなくその場をあとにした。


「俺はあのアパートには正直、そんなにいい記憶はないんだけど」

「うん……」

「でもまぁ、人生長いし……ここに住んでいたときのことなんて、今から十年後に、何も影響してなさそうだからな……」

「そうだね。そうだよ」


 うんうんと頷いてから、ふと思った。わたしは以前もどこかで似たような台詞を聞いている。


「恭介君て、どこの中学校行ってた?」

「え、西中だよ」

「やっぱり?」


 わたしがテストで失敗したあの日、声だけ聞いて仲良くなりたいと思ったのはきっと彼だ。そんな根拠のない確信と、喜びが胸を満たした。違っていても構わないかもしれない。わたしはあのときと同じ感情を、それ以上のものを彼に抱けたのだから。


 もしかしたらわたしと彼は、ほかにも人生の端々ですれ違っていることがあるかもしれない。


 たとえば百合川さんは運命にこだわっていたけれど、世界には約七十八億の人間が存在している。そんな中、隣人は、クラスメイトは、一度すれ違うだけの人間だって奇跡のような確率で遭遇している。その、どれを奇跡といって差し支えない確率の出会いの中、どれを運命と選定するかは観測者の気持ちや意思にほかならない。わたしと恭介君は、間違いなく運命の相手だった。


 彼と夜の道を歩きながら、思い出になってしまったあの夜のことを思い出す。あの、夏休み最後の日はもう太古の歴史の一部みたいに感じられる。


 あの夜は日常の延長だったのに、いつの間にかわたしにとっては非日常だった。激しく降っていた雨のせいだろうか。殺人鬼の“カトウ“のせいだろうか。それとも、ずっといたのに認識していなかった同級生と会ったからだろうか。とても騒がしくて、静かな夜だった。


 非日常に囲われたあの日の体験は夜を無事超えられた。


 わたしと彼はこれから先もきっと、いくつもの朝を、なんでもない昼を、それからまた特別な夜を過ごすのだ。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

しじま・ミッドナイトラバー 村田天 @murataten

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ