芸は心を助ける(最終回)


 チーフが宗教に入ったことを知った日から一週間。祐介はチーフの再起を願ってただただ待った。顔を見に行くこともせず、いつもと変わらぬ生活を送っていた。


『アクア』のランチが終わり、いったんお客がゼロになった午後二時過ぎ、なんとチーフが店にやってきたのだ。表情は柔らかく、顔色もだいぶ良くなっている。


 祐介はチーフのまさかの来店に一瞬驚くが、血色のいいチーフの顔を見て一安心する。


「ええっ、チーフが『アクア』に来るなんてどういうことっ。初めて来てくれましたね。嬉しいです」


「なんやごっつい高級感のある店やないか。ソファ席もあるし、ワイングラスがぎょうさんならんどるし。これはなに、ゴールドか」


 テーブルやカウンターの淵に埋め込まれたピカピカの金属をさすりながら言う。


「もう、ほんまにゴールド好きやな。それは真鍮ですよ。毎朝、掃除担当の方が一所懸命に磨いてはります」


「それにこんな若い女の子に囲まれて働けるなんて羨ましいわ」


「あ、そうそう、この人は僕が入った時からずっといろいろ教えてもらってる岡村さん。で、あっちの若いのんがホール担当の青木。僕の彼女の同級生ですわ」


「はじめまして。あ、はじめまして。チーフです」


「祐介君からしょっちゅうお話は伺ってます。餃子と鶏の天ぷらがうますぎる中華屋さんですよね。今度、旦那に連れっててもらいますのでよろしくお願いします」


「ええ、そんなに若いのにご主人がいてるんや。びっくりするな、もう。あれ、なんか南沙織に似てるって言われへん」


「よく言われます。もう恥ずかしくて」


「チーフ、何にしますか。ランチ、まだいけますよ」


 メニューを開き、さっと一覧しただけで閉じ、こういった。


「ブレンドもらえるかな」


「わかりました。ここのコーヒー、人気あるんですよ。神戸で有名な東野珈琲っていう所の豆で、輸入と焙煎もしてるんです。管理方法やドリップの方法も僕らは講習を受けてて。『アクア』はそこの特約店というわけです。あ、そうそう、午後はケーキセットがあって、手作りベイクドチーズケーキがまた人気で。チーフ、甘いの好きやったでしょ。よかったら食べてってください」


「お、うまそうやな、それもちょうだい」


 今日は白衣姿ではなく、水色のポロシャツ姿だ。ロンピーに火をつけ、大きく煙をはく。


「チーフ、その後はどうですか。社長からなんか連絡ありましたか」


「それがな、昨日、優と舞がわしんところへ帰ってきてな」


「ええっ、優ちゃんと舞ちゃんがっ」


「なんや嫁はんとその男は茨木の南の方に住んでるみたいで。そこから朝早くに逃げでてきよったんや。下からお父さんお父さん言う声が聞こえて、それで目が覚めて。ほんまびっくりしたで」


 採光が差し込む店内に今日も軽快なスィングジャズが流れている。一直線のカウンター席は全部で七席あり、厨房から最も離れた端っこにチーフは座っていた。


「逃げてきたってどういうことなんですか。じゃぁ二人はどうやってチーフのところまで」


「それがな、おかあさんはその男と毎日布団に入ってなんかしてるって言うねん。それが嫌でしかたがなかったらしい。優が舞の手を引っ張って家を出てきたらしいねん。うちに帰ってきた時は二人とも手ぶらやった」


 ペーパーの中でめい一杯に膨らんだコーヒーが、しゅわーっと沈んでいく。


「どうやらバスを乗り継いできたみたい。自分がどこにおるのかわからんかったようやけど、適当に大通りを歩いてたらバス停があったとかで。まぁ市内のバスはどれも駅に向かっとるから。それで一度駅に出て鎌田南口方面のバスを探したんやて」


 もう一度入れたお湯がペーパーから滴り落ちるのを眺める祐介の目が熱くなった。そして大きく息を吸い込んでから口を開いた。


「優ちゃん、すごい。舞ちゃんつれてよう帰ってきましたね。僕が小六の時なんて一人でバスも電車も乗れなかったです」


「舞をなんとか守ったらなっていう、そういう思いがあの子には昔からあって。ほんま大した子や」


 岡村がウォーマーの中からAQUAと店名が焼き付けられた白いマグカップを取り出し、ソーサ―と並べて祐介とチーフの間に置く。そこに祐介が淹れたてのコーヒーを注ぎ、ソーサ―の上に載せてから差し出した。


「お待たせしました」


 同時に青木が生クリームと砂糖、チーズケーキを供する。


 カップを顔の前にもっていくチーフ。


「おお、ほんまや、めちゃめちゃええ香りしとる」


 そういって二、三回すすった。


「片山君、このコーヒー今まで飲んだ中で一番うまいわ。いやほんまに」


 再び胸が込み上げた祐介は岡村の方に視線をやり、先に休憩に入るように合図する。


「コーヒー好きのチーフにそう言われたら、めちゃ嬉しいですわ」


「ほんまほんま」


「ほな、これからは三人一緒に暮らせるんですか」


「そうしたいと思ってる。ただ、今日嫁はんから、優と舞がおらんようになった言うて電話があってな。あの子らはもうおかあさんとは一緒に住みたくないって言うてる、と伝えたら、わかったって」


「なんですか、社長完全にイカレてるやないですか」


「いや、けっこう抵抗してたけど、わしが何があっても引き取ると言うて、まぁしぶしぶやな。ただ、いっぺん向こうに送り戻さなあかんのはあかんねん。ちゃんと手続き踏んでからやないとな」


「ややこしそうやけど、でもまた三人で暮らせるんやったらそれで大万歳です。これから大変やろうけど」


「まぁな。なんであれ、二人の顔を見ることができて安心した」


「今どうしてるんですか」


「昨日は一日じゅう寝てたな。今日は部屋や店の掃除する言うて、今やってくれてると思うわ」


「学校は。あれ、今日は四月七日ってことは、入学式って明日なんちゃいますの」


「そうやねん、だから明日は当初の予定通り、鎌田南中学に入学できるんや。舞も今までと同じ小学校で五年生や」


「うわぁもうっ。ほんまにどうなることかと思ってましたって。チーフっ、よかったです。優ちゃん舞ちゃんも絶対にそのほうがええ。これから頑張ってください」


 祐介は思わず声を震わせた。


「いろいろ心配かけたな、片山君。空本君にも。そうや、明日の夕方からまた店開けるから。いつでも顔出してや」


「わかりましたって、もうっ」


 その瞬間、祐介は思わずカウンターから厨房の方へと走り出し、勝手口を開けて外へ出た。直後、胸の奥から涙と声が噴き出すのであった。すぐそばの椅子に腰かけ、タバコをふかしていた岡村は一瞬驚いた表情を見せながら、咄嗟に立ち上がって嗚咽する祐介の背中をさすった。


「うわぁっ、うわぁぁあっ――――」


 しばらくして、祐介の腰に岡村がそっと手を回し声をかける。


「祐介君はほんまにいい店で修行してたんやね。ガラが悪いとか、そんなことばっかり言ってたけど、チーフさんむっちゃいい人やんか。さ、そろそろ店に戻らないと。チーフさんが待ってるよ」


 チーフのことが心配で心配で仕方がなかった。娘さんたちも。よくぞバスを乗り継いで帰ってきてくれた。待つという行為がこれほどに重たいものだと生まれて初めて知った。


 翌日、仕事が休みだった祐介は、午後二時頃に『北京飯店」へ行く。


 換気扇がまわる音、そこから噴き出てくるラードの匂い、暖簾と提灯が風に揺れているのを久しぶりに見る。車から降りると勝手口からチーフが顔を出し、軽く手を上げた。


「あれ、優ちゃんと舞ちゃんは」


「あぁ、今友達の所へ遊びに行ってやるわ。久しぶりやから言うて楽しそうにしてやった」


「久しぶりですね、店開けるの。なまってしもて、なんか忘れてませんか」


「ふふふ、なまってるはずやねんけど、なんか気持ちは元気でな。やっぱり子供が帰ってきたというんが大きいな。いつまでも凹んでられへん。頑張るで」


「子供ってそういうもんなんですね。まだ結婚もしたことないから僕にはようわかりませんわ」


「片山君のところはおかあさんが女手一人でずっと頑張ってはるなぁ。おかあさん働いて何年になるんや」


「俺が一四歳の時からやから、もう八年くらいですね」


「うわぁそれは長いな。いつまでも甘えとったらあかんで。はよ楽させたらんと」


「わかってますって。でも今度は車をローンで買ってしまって、まだ何も親孝行できてないけど」


「八年か、わしもそれくらい頑張らなあかんのかな。舞が成人するまであと……十年、もっと長いなあ」


 祐介は上着を脱いで、エロ漫画と餃子のバットが置いてある暗い通路の棚に押し込んだ。そして勝手にキャベツのケン切りを始めた。トントントン……。


「おぅ、悪いな。今日は普段の半分でええと思うわ。お客さんもだいぶ離れてしもてるやろうからたぶん暇やと思うし」


 チーフが有線のスイッチを入れ、客席の割りばしや爪楊枝の補充をする。


「それにしてもチーフ、結婚って僕にはようわかりませんわ。だって世の中はみんな、ええ大学、ええ企業に就職して、結婚して家買って、というのが幸せやってことになってますやん。でも、ほんまにそうやろうかって思います。まぁ僕らは規格外ですけど。なんであれ、やっぱり結婚して家族を持つのが幸せのゴールなんですかね」 


「わしかてまだ三五歳や。ようわからんって。でも少なくともそれがゴールではないやろ。まだまだ先が長いやろうからその分色んなことがおこるやろうし」


「幸せって難しいんですね。でも、ずっと前にチーフが柳河原さんたちを見て、人間は笑いながら生きれたら幸せなんとちゃうかって言ってましたよね。金があっても笑いのない人生ではつまらんと。今日のチーフは久しぶりに楽しそうですよ。なんか、ちょっと凛々しくも見えるし」


「そうか。ほな、今のわしは幸せなんやな」


「優ちゃんと舞ちゃんが帰ってきて、お父さんとしての自覚が強なったんとちゃいますか」


「それがでもないねん。優に言わせると、お父さんのことが心配やから一緒に住んであげる、なんて言い方をしよるんや。まだ中学に入ったところやのに、あいつにはほんままいるわ」


「優ちゃん、一枚上手ですね。ほんまあの子は大きい子ですわ。あ、ところで今日は餃子のみじん切りはいらんのですか」


「あぁそうやったな。今晩包むから二、三個でええからやっといてくれるか」


 ケン切りをボウルに入れ、次に餃子用のみじん切りを始める。ザクザクザク……。


「柳河原さんたち、今日もパーラー171に出勤するんでしょうね。店にきてくれますかね」


「さぁどうやろ。二週間以上店閉めてたからな。もう忘れられてたりして。まぁパチンコは相変わらずやってるやろうし、もうあと二、三時間もしたらどうせこの前を自転車で通るやろう」


 ザクザクザク……。


 一段落したチーフは厨房に戻ってきて、勝手口にもたれてロンピーに火をつけた。久しぶりに見る姿だ。


 ザクザクザク……。


「チーフ、次また結婚しますか」


「いや、もうええわ。ほんま懲り懲りやで。しばらく女の人とは付き合われへん。優と舞のことだけ考えて生きていくつもりや」


「シングルファーザーってやつですね。それも格好いいっすね」


 ザクザクザク……。


 白昼の午後二時半頃。春のうららかな風に濃厚なロンピーの香りが入り交ざる。


 十秒ほどの沈黙が流れた。そして突然、チーフが何かを思い出したかのように、いきなり野原のウサギのように首を立て、こう言い放った。


「あれ、あの子もしかして前もおった子ちゃうかなっ。間違いない、きっとそうやわ。ほら、片山君も見てみって」


「チーフっ!」


おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

青春の中華料理店 河村 研二 @spicejournal

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ