第六幕 生きる

チーフが死んでしまう!

 昭和六三年、四月のはじめ。


 祐介は幸せの渦中にいた。彼女が『アクア』にバイトに入るのは週3,4日で、だいたい帰りは祐介が車で送ってやる。もちろん真っすぐに家に帰ることはない。車は中古ではあるが憧れのフェアレディZをローンで購入。休日になると二人で海や山へドライブにでかけ、楽しみにしていた東京ディズニーランド旅行も果たした。


『アクア』もますます忙しくなり、レーサー挫折の屈辱感は完全に癒え、祐介はすっかり店の顔として存在感を放っていた。


 そんなある日の朝九時半頃、空本から『アクア』に電話が入る。


「どうした、店に電話してくるなんて珍しい」


「おぅ。あのな、朝っぱらからこんなこと言いたくないけど……『北京飯店』の社長が消えたんや」


「ええっ、嘘やろ。社長が消えるってどういうことやっ」


「ある夜、娘二人を連れてこっそりと出て行ってしまったらしい。さっき店へ寄ってみたら閉まったままやった。チーフのマンションへ行ってインターフォン押してもでてけーへん。チーフどっかで自殺でもしてんちゃうかな」


「おいおい、アホなこと言うなよ。なんぼ何でもチーフが自殺するわけがない。いったいなにがあったんやろ」


「まったくわからん。俺はおかんから聞いたんやけど、それ以上のことはおかんもわかってないみたいや。とりあえず今、小野原センター街で噂になってるからほんまの話やと思う。うどん屋も閉まったままやし」


「信じられん。今晩仕事終わったら店へ行ってチーフがその辺におらんか探してみるわ」


「わかった、俺も行くようにする。店の前で会おう」


 ゆっくりと受話器を置いた祐介を、大窓から差し込む午前の青い光が容赦なく照りつける。店内にはいつものようにスイングジャズのBGMが静かに流れていた。


 ランチ用のパスタをゆがきながら、祐介の頭の中はぐるぐるとまわって収拾がつかない。


 社長が娘二人を連れて家を出ていくなんてとても考えられない。チーフに内緒で借金でもしたのか。変な宗教にでも入ったか。あれだけ気が強くて潔癖症で完璧主義なんだから絶対にありえない。なら、男か。いやまさか。


 チーフはどこへ行ったのか。いったい何があったのか。


 夜七時過ぎ、仕事を終えた祐介は車に乗って『北京飯店』へ向かう。『アクア』から店までは十五分ほどの距離だ。車が店に到着すると、まるで年末年始のように真っ暗であった。空本のスクーターが置かれているのが目に入った。車を降りて勝手口のノブを回すと鍵がかかったまま。店の二階も電気がついていない。一〇〇メーター先のチーフたちが住むマンションの二階も真っ暗だ。


 店の裏側の駐車場にまわり、二階への入口へ向かうと、そこに人影がふわっと現れた。ぎょっとしながら目を見開くと、空本が立っていた。


「おぅ祐介、来たか。チーフ二階におったわ。真っ暗な部屋に一人で座ってるもんやからびっくりしたで。電気があらへんなんて言うてるし。社長が出ていったんは三月下旬のことらしい。なんやマンションも出払ってしもたとかで、今日チーフ一人でここに越してきたんやて。あのままではやばい。俺が声をかけても、ボーっとしたままはっきりものをしゃべることもでけへん。ちょっと祐介から声かけたってくれ」


「わかった。あれ、そういえば二階って松田のおっさんが住んでたはず。どこ行ったんや」


「あ、あのアホはとっくに逃げたわ。おかんに何も言わずにある日突然おらんようになってしもた。なんや金もだまし取られたみたいで。どうせそんな風になるやろうとは思ってたけどな。いくらか荷物が残ったままやったらしく、全部おかんとチーフで掃除したと言うてたわ」


「そうか。しかし社長、信じられへんことしよるな。センター街に出したうどん屋はそこそこ流行ってたはずやろ。まさか借金でもあったんか」


「それが信じられんことに男ができてしもたんやて。その男と飛んだらしい」


「ええっ、嘘やろっ、あの社長が浮気。俺、以前にチーフの姪に惚れてしもた時、めちゃめちゃ怒られたことあるけど。あの時は一か月くらい口もきいてくれへんかった。そんな社長が他に男を作るなんて」


「硬い女ほどどこかで大爆発をおこすもんやで。なんと相手は真珠男や。ほら、北摂タクシーのあの運転手で、何度かセンター街の雀荘で龍神会の連中にぼこぼこにしばかれてたあいつや」


「おおっ、真珠男か。博打ですった金を踏み倒したというアホ」


「社長はやっぱり真面目過ぎたんやな。男経験の少ない真面目な女ほどだらしない男にはまるねん。前科もんで何をやってもうまくいかんような、どうにもならんダメ男を放っておかれへんくなるわけや。真珠と社長ができてたというのはおかんからの情報や。おかんはうどん屋にはしょっちゅう顔出してたみたいで、二人ができてるというのはパートの人も気づいていたみたいやで」


「さすが空本のおかんや。でもチーフは気づいてなかったんやろか」


「チーフがそんなこと気づくわけないやん。まさか社長が浮気するなんて考えたこともないはずや。はよチーフのところいったってくれ。ほんまに今にでも死にそうや」


 祐介は二階への狭い勝手口をくぐり、扉が開いたままの入口から二階に向かって声をあげる。ロンピーの香りが漂っている。


「おはようございますっ。チーフっ、片山です。空本から聞きました。今からそっちへ上がりますね」


「おおぉ片山君か、暗いから足元気いつけやぁ」


 蚊のなくような声が聞こえた。暗くて狭い階段をゆっくりと上っていくと、そこはかつてのマンションの家財道具が山積みとなり、足の踏み場もない状態になっていた。一番奥に布団が敷かれていて、そこにチーフが背中を丸めてしゃがみこんでいる。祐介は荷物をかき分けるようにして入っていき、チーフの前に座った。


「チーフっ、チーフ、空本からだいたいのことを聞きました。えらいことになりましたね」


「そうなんや……」


「夜逃げってほんまですか。どういうことなんですか」


「ほんまや。いつも夜九時頃に店に来てたのに、その日は姿を見せんかったんや。あれ、おかしいなと思ったけど。で、店終わって家へ帰ったら電気が消えてて、誰もおらんのや。娘も連れていかれてしもた。まさかの話や。なにも突然出ていかんでもええのに」


「別れ話とかそんなんあったんですか」


「そんなもんあるかいな」


「舞ちゃんと優ちゃんが心配ですね。絶対チーフのそばにいたほうがいいと思うけど」


「わしもそう思うんやけどな」


 部屋はトラックがイナイチを走るたびに激しく揺れ、すりガラス窓から差し込む車のヘッドライトの鈍い光が、天井や壁を行ったり来たりしている。


「チーフ、ちゃんとご飯は食ってますか。店いつから閉めてるんですか」


「あぁ、店は一週間くらい閉めてるかな。嫁はん出ていってからもうずっとや。マンションの荷物は昨日全部運び出した。たった一〇〇メートルしかないのに運送屋に頼んだもんやからえらい金かかったわ」


「しかし、この部屋はちょっと厳しいことないですか。どっかもうちょっとましなアパートとか一緒に探しに行きましょか」


「ええねん、金かかるし、元々わしらはここから始まったんやし慣れとる」


 祐介の目がようやく暗い部屋に慣れてきて、チーフの顔が徐々に浮かび上がってきた。うつむいたままでまったく光がない。自慢のショートアイパーは爆発したように膨らみ、顔はやつれてしまっている。


「チーフ、ちょっと王将でも行きませんか。ほら、インターチェンジ付近にできましたやん。営業妨害かって言ってたあそこ。せっかく店閉めてるんやから偵察に行きましょうよ」


「いや、腹減ってへんからええわ。大丈夫や、片山君。心配せんでもええって」


「そうですか。無理せんといてください。僕に何ができるやろ。なんかあったら言ってください」


「おぅ、わかってる、ありがとう。ごめんな、心配かけてしもて」


 祐介は突然思い立ったように立ち上がり、蓋が開いたままの段ボール箱の中から電気を探し始めた。そしてマンションでも使っていたスタンドライトを見つけ、コードをコンセントに差しこみスイッチを入れた。オレンジ色の穏やかな光が灯り、塗り壁にまざる細かいナイロンがキラキラと光る。チーフが座る布団はぺったんこになり皺が寄っていた。


「チーフ、しつこいようやけどちょっと外出ましょうよ。この部屋くっさいし。千里丘のあの店でもいきますか。オーヤンママ、元気かな。あはははは」


「ふん、片山君、ほんまに大丈夫や。ちょっと休みたいだけやねん。またゆっくり遊びに行こう」


 これほどに落ち込んだチーフを見るの初めてだった。空本が言うように、このままでは本当にチーフが死んでしまいそうな気がした。


「あ、そうそう、チーフ。この前『アクア』でのイベントの時にね、チーフのあの鶏の唐揚げ作ってみたらバカ受けでした。フラメンコの奥さんたち、ほんまにフラフラになっとんねん」


「そうか、ちゃんと活用できとるんやな」


「でね、今度餃子やったろうかと思ってるんですよ。スペイン系がテーマの店で餃子ってスゴイでしょ。でもね中身はスパイスと鶏肉だけにしたろかと思ってるんですわ。トルコ料理やインド料理のケバブってやつです。あれを餃子の中に入れたったら奥さんたちきっとぶったまげると思うんですよ。ジプシーも大喜びっしょ」


「片山君はいろいろ考えるのが得意やな」

 

「ええ、まぁ」


 何を言っても暖簾に腕押しだった。数秒の沈黙が続き、祐介はいくつかのゴミらしきものをまとめてこういった。


「チーフ、また近いうち来ます。店の掃除手伝いますんで。おやすみやす」


「あぁ、おやすみ」


 階段を降り、外へ出ると、スクーターのシートに空本が腰かけタバコを吸っていた。そしてかろうじて電気が灯った二階の窓を見上げて一言。


「チーフ、かなりやばいやろ。灯りを見つけてあげたんやな」


「あのままではほんまにあかんようになってまう。どうにかせな。社長えげつないことしよったな」


「ほんま、真面目女は怖い」


 チーフの鬱に引っ張られ、二人ともすっかり疲れてしまい、この日はこれで別れた。


 二日後の夕方。祐介は小野原センター街のうどん屋を見に行く。降りたシャッターの前に立ち、よりによって、なぜあの真珠男と社長ができてしまったのかと思いに耽る。


 人一倍潔癖症の女と、人一倍だらしない男。絶対にありえない組合せが、何かの拍子に絶対に離れられない組み合わせとなり、絶対にやってはいけない蒸発という方法を選んでしまったという信じ難い事実。空本の言うように、やっぱり真面目な女性は大きな間違いを犯しやすいのか。



 シャッターの下に無造作に詰め込まれたチラシや新聞紙をまとめていると、ツナギ姿の空本がやってきた。


「この店もったいないなぁ。ガスコンロや釜も全部そのままあるんやで。この際、祐介がやったらええねん。ここやったら家賃安いんちゃうか」


「おいおい、今そんなこと言うか」


「ふん、所詮男と女なんてそんなもんや。まだ逃げていっただけマシかもしれんで。世の中には嘘を並べて平気な顔して不倫してるやつがそこらじゅうにおるんやから。それに比べると社長は正直やな。体裁を気にする人やったから蒸発するしか方法がなかったんやろ。チーフかて悪いねん。いつも裏ビデオ見てるか、その辺の女のケツ追いかけてばっかりいる。社長を放っといたのがあかんねん」


 さすがに童貞喪失中学一年、公然と旦那以外の男に手を出しまくっている母親の息子である。祐介には思いもつかない言葉の嵐であった。空本は中学時代から学校でも家でも彼女とセックス三昧だった。


「そうや、だから今も俺は毎日エッチしまくってる。もちろん彼女とだけ。ま、自分がやりたいってのもあるけど、他の男に取られたくないからな」


 空本の直球すぎる正直さに、真面目でうぶな祐介は虚勢を張りだした。


「お、俺かて会うたびにやってるでっ。こないだなんて朝起きた瞬間からやってしもた」


「そんなん普通。朝は男が最も元気な時間帯や。それよりお前ばっかりやのうて、彼女はちゃんと喜んでるんか」


「喜ぶって。そ、それは気になるところやけど、照れくさくて、どう聞けばいいのかよくわからん」


「そんなこと聞くもんやないっ。相手を見たらわかるやろ」


 一見すると、空本はただの好きもの変態男と思えなくもないが、話しているうちにだんだんと愛情深い男に見えてくるから不思議である。空本論から考えると、チーフは社長に対して確かに愛情が足らなかったのかもしれない。娘が二人いるうえに、自分まで子供のようになってしまっていた、ということはないのだろうか。社長が怖いからと言って、逃げてばかりいたのではないだろうか。


「しかし、何も娘二人まで連れて行かんでよかったんちゃうか。あんまりやで」


「そうやな。でも、子供ちゅうのは基本的におかんが必要なんやて。特に小さいうちは。俺の妹でもガキの頃はおかんにべったりやった。それがだいたいは初潮の頃まで続く。それがセックスを知る頃から親に対して壁ができる。特に父親を嫌いになるみたいやな。ま、しかしそれは普通の話であって、うちは見ての通りおかんは昔から不良やから、妹は醒めとるし、完全におとん派や」


 これまた祐介の想像すらできない世界である。


「空本んち、よう考えたらすごい家族やな。うちがつくづく平和な家族やと思えてきた。はように父親が死んでしもたとはいえ、母親は男を作る暇もなく、二つの仕事を掛け持ちして日々働き続けとる。一生懸命やってくれるもんやから、俺も頑張ろうと思うわけで」


「そうや、祐介は育ちがええねん。早死にして気の毒やけど、お父さんもめちゃいい人やったんやと思う。お前を見ててそう思うわ。もしうちのおとんが早死にしたら、あのおばはんは今の十倍男を食い漁ってみんなを保険のカモにするやろう」


「それにしても優ちゃんと舞ちゃんが心配やな」


「そうやな。さすがにあんな男には懐くことはないやろう。社長が何を考えとるかわからんけど、優ちゃんは今年から中学生、舞ちゃんは小五や。とりあえず子供の春休みを狙って出ていったんやで。捨てて出ていくわけにもいかんやろし。さてどうなることやら」


「なるほどな。逃げると言ってもある程度計画されてた、ということやな。ちょっとチーフのことが心配になってきたから、今から様子を見に行ってくるわ。なんかあったらまた電話入れる」


「おぅ、わかった。俺は店におるからなんかあったら来いよ」


 車で『北京飯店』に向かう。今日も暖簾が出ていない。二階の窓は閉まったままだ。チーフはどうしているだろうか。祐介は駐車場側の入口にまわると、扉がわずかに開いていた。ぐいっと引っ張ると、二階からチーフ以外の人間の声が聞こえてきた。


「あれ、おるやん。チーフっ。おはようございます。片山です」


「おおぅ、片山君か。おるよ。あがっておいで」


 階段を上っていくとそこに男性と女性の靴が置かれてあり、五〇歳くらいの男女が立ち上がろうとしていた。


「あ、すみません、お邪魔します。片山と申します」


「どうもこんにちは。そろそろ私たちは帰るところですので、それではまたゆっくりと」


 挨拶だけ交わして二人はすぐに帰って行ってしまった。


 今日のチーフは三日前よりも元気そうである。


「なに今の人、誰ですか。見たことない人たちでしたけど」


「あ、まぁな。ちょっと知り合いの知り合いで」


 さっと目をそらし、ロンピーを一本抜きとり口にもっていった。何か隠しているような気がした祐介は突っ込む。


「なんの話してたんですか。知り合いの知り合いって、なんか変。店に来るようなタイプやないし」


「ふん、実は創和教会の人やねん。店の客で下島さんておったやろ。あの人が教会の信者さんやったみたいで、紹介してくれはったんや」


「あ、あのパチンコ客をかもる保険魔女ね。あの人がかの有名な宗教団体、創和教会とは意外。人ってわからんもんですね。え、なに、チーフもしかして創和教会に勧誘されてるとか」


「いや、もう入った。今日はじめてセンターへ顔出してきたところや。みんなものごっつええ人ばっかりやった。なんか知らんけど、ちょっと元気出てきたわ」


 それを聞いて祐介はちょっと嫌な気がした。何とか立ち直ってもらいたいと心配して応援していたつもりだが、頼った先が自分や空本ではなく宗教団体だったことにだ。


 そりゃ自分たちはまだまだ若造で頼りないことだろう。が、二人とも一応は自立した大人。そして何よりもチーフのところで世話になってきた子分ではないか。なぜ子分ではなく宗教に依存したのか。


「チーフがいいというのならそれでいいけど、でもあまり深入りせんほうがええと思います。店を再開したら他の客がどう思うかな。僕やったらちょっと引いてまうかも」


「そんなことあらへんって。みんなほんまにええ人ばっかりや。また片山君にも紹介したいから今度一緒にいかへんか。センターはここから車で五分とかからへん」


「いやいや、僕は遠慮しときますわ。あ、チーフ、ちょっと用事があるんでもう帰ります。ほな」


 そういって祐介は逃げるようにして外へ出て行ってしまった。


 チーフが宗教に入るのを否定するわけにはいかない。それくらいショッキングなことがあったのだから。でも、自分としてはちょっと寂しい。自分たちがチーフにしてあげられることは何もないのか。


 夜七時頃。再びバイクショップの空本のところへ戻ると、店の片付け中だった。


「おぅ、どうやった。チーフはあのくっさい部屋におったか」


「おお、いたのはいいが、なにやら創和教会に入ったとか言ってるんや」


「なんや、宗教かいな」


「そうや、行ったら見慣れない中年の男女がいてて、俺と入れ替わるようにして出ていった。その人たちが教会の人やったみたいで。チーフ、前より少し元気になってたのは良かったけど、ええ人ばかりやから片山君もいこう、なんて誘ってくるねん。おっさん、何を考えとんのやろ」


 祐介は忙しそうに片づけをする空本のそばで掃き掃除を手伝いだした。


「店終わったらちょっとみんな集まろか。浅賀は今日忙しいんかな」


「おっしゃ。ほな今から電話してみる。おやじさ~ん、電話借ります」


 すでに浅賀には社長が子供を連れて逃げたことを伝えてある。


「おぅ、わかった、今から空本と一緒に行く、ほな後ほど」


 ガチャン。


「浅賀もちょうど今から家に帰るところらしくて、ついでに晩飯食っていけってよ。邪魔にしにいこーぜ」


 八時頃。祐介と空本が浅賀の家に行く。奥さんがいつものように愛嬌満点で出迎えてくれた。晩御飯をご馳走になりながら、一連の動きと今日のチーフの有様を浅賀に話す。


「そうか、チーフが宗教にはいってしもたか。宗教ってのはいつも弱ってる人間を探しとるからのぅ」


「なんで探しとるんや」


 空本が聞く。


「そらお前、苦しんでる人間ほど何かにすがりつきたいわけやから。神や仏と言えばすぐにころっといってまうに決まってるやん。人が弱ってるところに吸い付いて、巻き上げるもんをとことん巻き上げるんがあいつらの手や。ただ創和協会いうたらあっちこっちに信者がおる大きな宗教や。そういうことをしてるとも思えんけどな」


「だとええけどな。ただ俺が気になるのは、俺や空本にではなく、その宗教に頼ったことがなんか悔しくて。俺ら何度も顔出してるのに。なんでも手伝いますって言うてるのに、そんな宗教に入って目を輝かしてるチーフが俺には理解できん」と祐介。


「ほんまやで、俺が最初に行ったとき、電気もつけんと真っ暗な部屋に座っとった。俺と祐介が行かんかったら今頃チーフ自殺してるで」


「ほんまやで。それにしても、あの社長が逃げるって尋常なことやない。チーフが子供やから見限られたんとちゃうかって空本と話しててん。女を放ったらかしにしていたチーフも悪いんちゃうかってな」


「ふん、チーフが租チンやっったってことやな。宗教に入ったって根本的な解決にはならんやろう。いよいよ中華屋もうどん屋も破滅か。安もん食堂はやっぱり脆い。これを機にチーフももっといい稼ぎ口を探さんと」


 そう浅賀が言うと、普段笑って聞いているだけの奥さんが珍しく口を開いた。


「私思うんやけど、しばらくチーフの好きなようにさせてあげたらええんちゃうかなって。そら宗教に入ってしまったことを心配するのはわかるけど。三〇半ばで娘さん二人もいてるような大の大人が、私らみたいな若者に頼ることは最初からないと思うわ。私らまだ子供も産んだことないやから。そんな風に思うことは悪いことやないけど、ちょっと勘違いやと思う」


「何が勘違いやねん。こいつら二人ともチーフの子分なんやぞ。子分が親分の心配して何が悪い。当たり前のことやと思うけど」


 珍しく浅賀が力のこもった言葉を発すると、奥さんがすぐさまこう返した。


「そういう意味と違うって。娘さん、次が小五と中学生なんやろ。一二歳と十歳やで。十年って並大抵やないよ、ものすごい愛情の賜物やと思う。それはきっと出ていった社長さんも同じはず。いや、愛情は社長さんの方が強いんちゃうかな。私らみたいなまだ子供を育てこともないような人間には絶対理解できへんって。チーフは逆に空本君や祐介君に心配をかけたくないと思ってるんと違うかな。偉そうにしたいとか、弱みを見せたくないとかっていうんじゃなくて、空本君や祐介君のことを愛してるから一日でも早く元気な自分を見せたいと思ってはるんやわ。なんとかして自分の責任で立ち上がろうとしてるんよ、きっとそう」


 数秒間、浅賀、空本、祐介は沈黙した。


 祐介が口を開く。


「ほんじゃ俺たちにできることはなんもないってことか。なんか悔しいような気がするけど、それって俺たちの勝手なんかもしれんな。本当にチーフが求めてるのはそういうことやないと」


「そう。私らにできることは、ただ待つってこと。何かできるなんて思うことの方が偉そうやと思う。私は三人姉妹で、もう三〇歳になる年の離れた長女がいてて。子供二人いてやるけどほんまに大変。それでも可愛くて仕方がないねん。チーフの家族には、チーフにしかわからんこと、社長さんにしかわからんことがあるはず。待つってすごくしんどいけど、一番しんどいのはチーフやから。宗教でも何でも使えばいいやん。それが支えになるんやったらいいと思う。とにかく、チーフが早く元気に戻ってくれること。そして一日でも早く店を再開してもらうこと。それが一番大事なんとちゃうの」


 男三人だけでは気づけなかった。ただ待つ、というタフで優しい愛の形があることを。


 空本と祐介は、ただただ待つことにした。

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