不整脈のロンリーチャップリン
パチンコの話題で盛り上がり続ける客席を横目にしながら、チーフが思いがけぬことを言い出した。
「そろそろ片山君も独り立ちしてええかもな」
「そんなっ、突然。まだまだ自信ないですよ。料理ぜんぜんやし」
「いや、片山君は包丁も鍋も高校時代にはすでにある程度のことができとった。自覚がないだけや。この半年間はその確認というか復習みたいなもんやで。それに店にとって大事なんは料理だけやない。人付き合いとか、礼儀とか、接客とか。なんやったら料理が下手でも流行ってる店はいくらでもある。隣の喫茶店見てみ。あんなくそまずいコーヒーと軽食出してて、毎日そこそこ入っとるやろ。しかも自動車屋の社長の大仁田さんとかが常連や。あのレベルの客が来るってことはコーヒー以上の何かがあるということやで」
同様のことを正社員として勤める『アクア』の支配人からも言われていた。喫茶や料理の基礎技術を学ぶと同時に人としての身のこなし方を磨いておくようにと。
「実は支配人が僕をホテルのメインバーの店長にすると言いだしてて。二、三年後にJR茨木駅前に大手チェーン系のホテルを建てる計画をしているらしんです。支配人の会社は二部上場の大きなグループ会社だけにほんまに作ってしまうつもりちゃうかなと思うんです」
「ええ話やないか。ホテルのメインバー店長ということはホテルの顔みたいなもんやで。それこそ人間力がものをいう世界。片山君はきっと似合うと思うで。えろう期待されてるっちゅうことや」
「いやいや、とても自信がないです。それよりも自分で何か試してみたいなって。ただ、金も資産もないから、そこのところをどうするか」
浅賀の誘いにしろ、支配人の作戦にしろ、なかなか人の手の平の上に素直に載ることができない祐介。生きることへの不安や自信のなさの表れかもしれない。
「勉強はもう十分できてると思うで。いつまでたってもまだまだなんていう人がいるけど、生きているうちはずっと勉強やから。大事なんは行動や。わざわざ自分の力を試さなくても、その支配人さんがいうホテルの話にのっていけば。わしやったら迷わず楽なほうへ進むなぁ」
「そうですか、どうするかちょっと考えたいです」
「あ、とりあえず調理師の資格くらい取っとけばええ。あんなもん誰でも取れる言うてみんな馬鹿にするけど、ないよりあったほうがええ。もし試験うけるんやったらわしがサインしたるから」
「ありがとうございます。またその時はお願いします」
「今までよう頑張ってきたな。わしもえらい助かったわ。給料を払ってやれんで悪かった」
「いや、じゅうぶん頂きました。チーフには甘えてばかりで、お世話になりました」
修行の身なので給料は要らない、と最初そう告げてはいたものの、実際には毎月三~五万円を小遣いという名目で渡されていたのだった。
「なんかやっぱり卒業の雰囲気ですね」
「そうやな、ええタイミングや。今後は『アクア』に集中してやっていったらええ。で、早く大きくなってお母さんを楽させたり。彼女はまだ若いけど、ぼちぼちと結婚を考えてもいいかもしれんで。結婚は男を上げる。わしなんか二十四歳で結婚したんやで」
「うわぁ浅賀と同じことを。結婚なんてほんまに想像もつきません。彼女はまだ十九歳やし。今度千葉にできたディズニーランドへ一緒に行こうなんて僕も盛り上がってて、そんな次元です」
祐介と彼女の出会いは『アクア』。彼女がアルバイトに来るようになって知り合った。何度か『北京飯店』にも連れてきたことがある。
「まぁ、結婚を目標に頑張ったらええという意味や。ふむ、今日はめでたい。よっしゃ、片山君の修行卒業祝いといくか。千里丘にええスナックがあるらしいねん。そこ行ってみるか」
「行きたい、行きたい」
こうなるとチーフはお客に冷たい。盛り上がり中の柳河原たちに向かってにやにやとした表情で言い放つ。
「ええっと、すんませんけど今日は十二時で閉めることにしたのでそろそろ帰ってください~。えろうすんませんなぁ」
そう言うと叫ぶような声が返ってきた。
「はぁ、なにを言うとるんや、わしらは客やぞおっ。そんなもんアカンにきまっとるやろっ。パーラー171もここも、もう二度とこんぞっ」
チーフは「まぁ、そういうことで」と、ブーイングしまくる柳河原たちをそっちのけでさっさと掃除を済ませる。そして十二時頃、本当に追い出して暖簾をおろした。
チーフの愛車マークⅡに乗って約三〇分をかけ隣町の千里丘駅に到着。駐車場に車を置き、商店街を、そしてやがて寂しい住宅街の中をひたすら歩いていく。
「あれれ、こんなところに店があるんですか」
「ふふふ、わしも初めてやからようわからんねん。なんやえらい綺麗な子がおるらしいわ。ガイジンっちゅう話やで。ラジエター工場の所長さんから聞いてたんや、えっへっへっ」
チーフの歩きがゴリラのようになって顔はオラウータンに変身した。
やがて現れた平屋のアパート群。その間の真っ暗な道に足を踏み入れると、飲み屋か何かよくわからない赤や紫の怪しい看板がぽつぽつとでてきた。
「まさかこんなところに大人の小路があったやなんて。チーフはほんまにこういう怪しいところを見つけてくるのが天才的ですね」
チーフはきょろきょろと周囲を見回しながら歩いていく。そしてようやくお目当ての店を見つけた。
「おっ、ここや、ここや」
分厚い木の扉を開けるとそこは真っ暗な店内で、奥のほうからテレサテンの「愛人」のカラオケが聞こえてきた。なんだか舌足らずのような、女性の可愛く甘い声である。進んでいくと、いくつかのテーブルに赤や緑の薄暗いランプが灯っていた。するとどこからともなくオーヤンフィフィ(一九七〇~八〇年代に一生風靡した台湾出身の歌手)に似た女性が現れた。
「いらっしゃいませぇ~」と低いながらもハスキーなお色気ボイスでお出迎え。
「こんばんはぁ。茨木のラジエター工場の所長はんから聞いてきてん。わし、『北京飯店』ゆう中華屋のもんですわ」
「うわぁ~ん、聞いてる聞いてる、餃子がめちゃおいしい店でしょ。食べてみたぁ~い。いつ来てくれはるかと思ってずぅっと待ってたんよぉ。めっちゃうれしいぃ」
「うちの若いのんも連れてきてん。間もなく世に羽ばたく期待の若手や。今日は修行卒業を祝う酒を飲ませたろう思うて」
「あら~んほんまに若いわ。もっと嬉しくなっちゃった。ささ、こっちへ来て、奥のテーブルが開いてるわ~ん」
オーヤンがこちらを振り向くたびに、とてつもなく濃い香水の匂いが鼻を劈く。そして、歩くたびに、チャイナドレスの割れ目からちらちらと太ももが見えるのであった。そのむちむち太ももは椅子に腰掛けると、もっとむっちむちになる。それを見た若い祐介は意識とは無縁のスイッチが入った。心臓がドキドキと高鳴りだし、不整脈乱発。恥ずかしすぎて直視できず、生唾を飲むのもぎこちない。まさに鼻血ブー寸前である。一方のチーフはますます屈託のないオラウータン顔となっている。
「飲み物はどうするのぅ」
「ん、どうしたらええのかなぁ、とりあえずボトルいれとこうか。あ、僕はコーラをちょうだい。酒はこの子が飲むさかい」
「あぁぁぁん、嬉しいわ、ありがと。すぐに用意させるわね」
チーフは酒が飲めない。ロンピーを咥えたとたん、オーヤンがすかさず火をつける。
「うわぁ片山君、あの子見てみぃ、奥のテーブルに座ってる子。真っ赤なドレスが最高や。めっちゃ綺麗な足やなぁ。たまらんなぁ。すぅぅぅはぁぁぁ」
数分が経ち、でてきたリザーブウィスキーにミネラルウォーターで割るオーヤン。とろんとした音色のサックスのジャズ、なぜかそこはかとなくエロい気分になっていく華やかな香水、そして赤色や紫色など色とりどりのチャイナドレス。悩殺の花園だ。
「ほら、片山君。ウイスキー大好きやろ。今日はたんと飲みや」
「あらぁ、若いのにウィスキーの味がわかるの。今日はめでたいんでしょ。たくさん飲んでってねぇん」
照れ臭さを隠すかのように、祐介はマイルドセブンを口にして自分で火をつける。と、いきなりどこからか別の女性が現れて、祐介にぶつかるようにして隣に座った。
「あぁぁ、ワタシ、エリカと言います。ワタシ、ライターもってますヨ」
見ると、金髪の長い髪に大きな目とたらこ唇の、どこかのガイコク人だった。彼女はコバルトブルーのチャイナドレス。割れ目からテカテカの太ももがむき出しになっている。そして、やっぱりチーフが下から上まで嘗め回すようにしてオラウータン顔で見ている。
「おぉぉぉ、この子はどこの子」
「ふふふ、新人でフィリピンの子よ。ちなみに奥のあの子は台湾。みんな綺麗でしょ」
「ほんまやなぁ。フィリピンの子も台湾の子もめっちゃ可愛いなぁ」
「あん、いやらしい顔してもういややわ。ま、ゆっくりしてってくださいな」
乾杯をしてから、チーフはオーヤンと他愛もない話で盛り上がりながら、コーラをお代わりする。年上のお色気フィリピン女性を横にして緊張しまくりの祐介は、ひたすらタバコとウィスキーを交互に流し込み続けるのであった。
やがてチーフはオーヤンになにやら意味不明の会話を始める。
「あの台湾の子、無理かな」
「ん、あか~ん、いま他のお客についてるとこやから」
「でも、ここって奥に部屋があるんやろ。ええねんやろ」
「もう、ほんまいやらしいわね。ちょっと待ってって。タイミングがあるから」
いったいなんのことかと、当時の祐介にはここがスナックの振りをした、実はイカガワシイ大人の遊び場だということを理解できない。
だんだんと酔いがまわってきつつも、隣のフィリピーナ・エリカと身体が触れるたびに硬直の一途の祐介は、ますますウィスキーとタバコを忙しなく繰り返すのであった。
しばらくしてチーフがオーヤンに言う。
「片山君ってめちゃめちゃ歌うまいねんで。ええ声してやるやろ」
「うん、ほんま、さっきからいい声してるなって思っててん」
「カラオケ、ちょっと歌わせてやって」
「うん、いま本とリモコンを持ってこさすわ~。うちもレーザーディスクになったからものすごくいいサウンドになったんよ」
店の中央部には小さなステージがあり、横にモニターテレビが置いてあった。客はおそらく七割は埋まってる感じだ。この状況で歌うなんて恥ずかしすぎる、と祐介は一瞬思ったが、どうしていいのかわからず、言われるがまま歌の本をぺらぺらとめくった。
「片山君は夢芝居っていう曲が得意やねん。ちょっとそれ入れたって」
その後、見知らぬ客と店の人々の前で、祐介は「夢芝居」を歌いきった。オーヤンもエリカも大きな拍手を送った。席にもどってきた祐介が依然緊張していると、今度はエリカが「ワタシ、日本のウタ、できまぁす。ロンリーチャップリン、できまぁす」と言いだすのであった。
「おぉ鈴木雅之と鈴木聖美のやつやな、ええやん、それ歌ってみ。初めてって。ほな勉強や、はよ歌わんかい」
こうして半ば強制的にデュエットというものを初体験することになる。
「少年のように~ほほえんでぇ~~~♪」
祐介が声を張ると「あなた~の帰る場所は~私~の胸でしょうね♪」とエリカがリズムに合わせ、太ももチラリズムでもって自分の胸元に手を当てて歌う。それを見るたびにもっともっと不整脈が酷くなり、喉がからからになっていく祐介。彼女の舌っ足らずの日本語が愛おしく思えてくるのであった。
「二人をつなぐ あのメロディー♪ どこから聞こえるのか いつかわかるでしょうね♪」
このフレーズと同時にエリカの手の平が祐介の手の平と重なり合った。
「見果てぬ夢がある限り Oh Baby~♪ Oh,Do what you wanna do again~♪」
歌いきったときには祐介の指とエリカさんの指はぎっちりと絡み合い、離れない、離さない。手を合体させたまま仲良く席に帰ってくると何かが先までと違う。そう、チーフの姿がないのだ。オーヤンもいない。
「あれれ、チーフはどこへ行きましたか」
「ウゥン、ワタシ、ワカリマセェン」
辺りを見回すが真っ暗で何もわからない。時折、目の前を通り過ぎる人影を追っても、他の客か店の女性だったりする。きょろきょろとしているとエリカが祐介の手をぎゅっと握り締めてこう言った。
「ワタシ、ここにいるよ。サビシクナイヨ、今日は一緒にノミマショネ」
「チーフっ、チーーーフぅ~~~っ!」
こうして祐介の修行卒業の杯は極限の不整脈の中で執り行われた。
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