楽しい仕事で稼ぎたい
『北京飯店』に三度目の修行に通って早半年。
ある夜、珍しいことに親友浅賀が奥さんと洋一を連れて三人で食事にやってきた。 彼は中学三年の三学期から同棲してきた彼女と、ついこの間結婚式をあげたところだ。同時に株式会社も設立。いっぽうの洋一は、祐介がレーサーを断念し一年ほど経った頃に借金が膨らみすぎて自身も辞める。最近は外車専門の中古車屋で働きだしたという。
狭苦しいテーブル席につき、浅賀が口を開く。
「祐介、空本から聞いたけど、今度は店を出すなんて言ってるらしいの。あんまり無理するなよ。おまえはすぐ熱くなるから。俺らはもう二一歳を越えた。いい加減、将来のことを真剣に考えろ」
バイクレーサーを目指していた時から浅賀は祐介のことをいろんな意味で気にかけていた。金がなくなるたびに当時では破格の一日一万円で雇ったり、メシをお腹一杯になるまでご馳走したり。同級生というよりも、まるで先輩か兄貴のように頼れる存在だった。
「今年は田所も結婚式を挙げることができてほんまによかった。田所のお父さん、挨拶の時えらい男泣きしはって。あれにはさすがに俺ももらい泣きしてしもた。次はいよいよ祐介の番やぞ」
田所はついこの間、十六歳の頃から付き合ってきた彼女とめでたく結婚。彼は高校二年の時にお母さんを亡くし、新しく恋人ができたお父さんと思春期の妹の両方に気遣い、結局妹を連れて同じ茨木市内に住むお婆さんの家に引っ越した。以来ずっと妹のいい兄貴をやりながら、たまにお父さんの顔を見に行き、彼女との関係も大事にしてきたスーパーナイスガイである。営業マンとして大活躍し、ようやく平和な家庭を手に入れることができたのだった。
空本はバイクショップですっかり落ち着き、同棲していた彼女といつ結婚してもおかしくない状況にあった。仲間たちが続々と結婚していく流れの中で祐介に焦燥感がなかったわけではない。が、いかんせん三歳年下の彼女がようやくできた頃で、自分が結婚するなんてどうしても現実的に考えることはできなかった。浅賀の言うことにただ耳を傾けることしかできずにいた。
浅賀は表情ひとつ変えることなく話を続けた。
「お前の夢に向かってという生き方は魅力的やけど、でも現実を見ろ。それで金がどれだけ入ってくるというんや。夢もええけど好きな女と暮らしていくことこそが幸せなこととちゃうんか。そのために必要なんはまず金や。金で幸せは買えんけども、金がなければ不幸になる。お前だけならまだしも、彼女はどうなる。お母さんにも恩返しをせなあかん。ここらでそろそろ大人になれ。俺はお前を側近として迎えたいと思ってる。気の許せる仲間で一緒に金儲けして、その後ゆっくり好きなことしても遅くないんと違うか」
「浅賀はずっとそんな風に誘ってくれるけど、でも、どうしても浅賀のやってる鉄工の仕事には面白さを感じへんのや。それが何千何億という金になると言われても。それよりも飲食業で生きていきたいって思ってしまう。何とか飲食の道で成功したいって」
「ほんまにアホな男やのぅ。こんなことをチーフがいる前で言うのもなんやけど、例えばこの餃子一人前でどれだけの利益になると思う。八個入りで今は三〇〇円か。そこにどれだけの材料費と手間隙がかかってるんや。年商はいくらや。ちゃんと計算してみろ。チーフは職人気質やし、実際にちゃんと腕があるから、これを毎日やり続けることができるねん。でも、お前にそれができるのか。好奇心の塊ですぐに寄り道ばかりするようなお前が職人向きの性格やとほんまに思ってるんか。これは生まれ持っての質の話や。ええか、仕事なんてものは元々面白くもなんともないねん。むしろ面倒でしんどいのが金儲けや。だからこそ、みんなで一緒に働けたら少しでも面白くなると思うんや。夢というものは見るためにあるもので、本気で追うものやない。そのことをバイクレースで痛いほどわかったはずや」
祐介と同じく夢一杯で生きてきた洋一の目が一瞬ぎょろっとなったが、さすがに弟の説得力のある言葉には刃が立たず、すぐに手元のエロ漫画に視線を戻した。チーフは腕を組みながらロンピーをふかして、聞こえないふりをして勝手口の外を眺めている。
浅賀の包容力と説得力のある話し方は何度聞いても心が揺れる。二〇歳を過ぎた直後に上場企業の孫受け企業となり、年商一億超えの売上を実現。人を見る目も鋭く、相手が誰であろうと利益になる者とそうでない者とを容赦なく取捨選択していく。その一方で、レーサーを挫折し力を落としていた祐介に、絵心があるのだからと会社のロゴマークを注文するなど、深い友情の持ち主でもある。
でも、いくら浅賀に目をかけてもらおうとも、祐介の頭の中には彼と違う生き方が浮かび上がってしまうのであった。理屈じゃない。なぜかそうなってしまうのだ。
「自分でもようわからんけど、飲食業ってやり甲斐を感じるんや。俺もまさかこの世界にここまでハマるとは想像もしてなかった。気が付けば飲食業界にどっぷりと浸かってて、今の彼女とも出会えたわけやし。結婚はまだわからんけど、いつか独立して自分の店が持てたらええな、なんて思ってる。もしかしたら失敗するかもしれん。けど、俺はこの道で頑張りたい」
浅賀に対する負けん気でそう言っているのか、本当に飲食業が好きで言ってるのか、正直よくわからなかった祐介だが、ただ、惚れた女と暮らすために、家族を持つためという理由で、何でもいいから稼げる仕事に就くという考え方はできない自分がいた。
そう思ってしまうのは、やはり父親が企業戦死していることが大きい。残された母親が苦労している姿を見るのも耐え難いものがあり、家族を守るために自身が犠牲になるような生き方だけはしてはならない、という思いが奥深くに刻まれているのだった。犠牲的ではない愛の形が存在するはず。その答えはまだ見つけられていないが、少なくとも自分がやり甲斐を感じること、楽しいと思える仕事で稼ぐ、というのが一つのバロメーターになるとこの時の祐介は考えていた。
浅賀はタバコに火をつけて大きく一服してから口を開く。
「ふぅむ、お前はやっぱり現実っちゅうもんをわかってない。まぁそれがお前の面白さでもあるんやけど。俺は今までお前みたいに夢をもったことがない。そのワクワクしてくる感覚ってどんなんやろうと思う。いっぺんでええからその感じを味わってみたいもんや」
これは浅賀特有の上からの言い回しにも聞こえるし、本気でそう思っているようにも思える。晴れて正式に奥さんとなった彼女は、いつものように浅賀の隣できょとんとした表情でタバコをふかしている。ただ、そばにいるだけで空気が和むところが彼女の魅力だ。
「まぁ、そう言ってもらえるのは有り難いことやけど、俺は俺で頑張るわ。もし、どうしようもなくなったらそのときは頼む。いっぺん俺の思うように生きさせてくれ」
「そうやな、誰にもタイミングというものがあるはずやから。でも、もう一度だけお前のために言うといたる。金は冷たいものやけど嘘はつかん。好きなバイクや車も買える。愛する彼女も守ってやれる。気持ち次第で金の意味はいつでも変わるんやぞ」
その辺の大人よりもはるかに重たい言葉だった。
浅賀たちは食事を済ませ、各自タバコを一本だけ吸って帰っていった。祐介はその後、胸の中にずっしりと重たいなにかが痞えたままだった。頭の隅々から不安が飛び出してきて、まったく整理がつかない。狭いシンクで食器を洗いながら、あれこれと考えが噴き出していた。
「あのように言ったものの、正直この選択でいいのかよくわからない。決めるのが怖くて仕方がない。世の中に数え切れないほどある飲食店の中に分け入って、本当に生き抜いていけるのか。飲食業の成功って何だ。店長になることか、独立することか、いや、自分にそもそも開業する資金がない。だったらどこかの店で勤め上げたらその後はどうなる。たくさんの金が貯まるのか。もし稼げなかったら結婚できないのか。いや待てよ、そもそも結婚って何なんだ。彼女と一緒になって、子供を作って、家を買うことか。それで子供が大人になって、俺たちは本当に幸せなのか。幸せって何だ。このまま進んでいくと仲間との距離がどんどん遠ざかっていく気がする。空本や田所はどう思うだろう。やっぱり浅賀の言うようにまずは金を求めて生きていくべきか。それが親孝行であり、彼女と一緒に生きていくための最善の道なのか。いや、我慢ばかりでは不幸を呼ぶだけだ。いったいどうしたらいいのか」
当時、飲食業なんてのは、不良あがりの者が就く仕事と言うイメージが世間にはあった。もちろん中には立派な人もいる。だがアウトローもかなりいたことも事実だ。まったく自信のないフラフラの自分自身が浮き彫りになってしまった祐介。
そんなときだ、パチンコ部長の柳河原たちが入ってきた。時刻は夜一〇時過ぎ。いつものように会社の部下二名をつれての来店である。重たい空気が瞬時に吹き飛ぶ。
「あかーん、あかんっあかんっ、いつもの六十四番台、二十九番台もまったく出よらん。いったいどうなってんだ」
柳河原さんが声を張ると二人も続く。
「ほんま酷い店だよっ。どんだけつっこんどると思うとるんや。今月は負け続けっ。 おぃ片山っ。はよ生ビールつがんかい」
こうしていつものように、ただ騒がしいだけの『北京飯店』深夜の部が始まった。話題は決まってパチンコのこと。次回はどの台を何時に誰が抑えておくかとか、そろそろどの台が出るんじゃないかとか、新機種の攻略方法とか、余所の町で新装開店があればその情報など。たまに競馬が加わり、夏になると高校野球の話題も混ざる。早い話がすべて賭け事だ。よくもまぁそんなに賭け事の話題だけで毎日酒が飲めるものだと思う。
柳河原たちが盛り上がっている様子を見てチーフがぽつり。
「ほんまあのおっさんらはアホやな。柳河原さんなんて下手したら会社よりパチンコ屋のほうが出勤日数多いんとちゃうかな。いや、絶対にそうや。人間は何が幸せかはわからんもんやなぁ」
「僕はあんな人らみたいな人生だけは歩みたくないですね。独身で寮生活で自転車しかなくて毎日パチンコ漬け。メシは会社の給食かその辺の大衆食堂か。そうこうしているうちに頭がハゲたらもう泣きますわ」
「ほんまやなぁ。あの人ら、パチンコだけを楽しみに生きてるんやろうな。よう飽きもせんと、どうせ最後は負けるのに」
柳河原たちの注文をこなし、一段落するとチーフはいつものように勝手口に片足を乗せて、ロンピーをくゆらせる。
「浅賀君はほんまに大した男やわ。確かに出世頭やし頭もキレるし何もかもが凄い。たぶん彼の言うことの殆どは正しい。話を聞いてたら、どきっとすることもいっぱいあるわ。せやけど、わしは片山君の意見に賛成やな。見てみ、あのおっさんらのアホ丸出しの顔。笑ってるか怒ってるか困ってるかしかあらへん。金や家、車、嫁はんがおらんでも、ああやって飲んで言いたいこと言ってるんが楽しいんやわ。そりゃあ、もしかしたらヤケクソなだけかもしれへんで。わしもああなりたいとは思わん。でも、楽しそうなのは間違いない。浅賀君が無邪気に笑うことってあるんかな。わし、まだ見たことがないで」
「彼はね、昔からクールというか、本当に表情がまったく変わらないんですよ。相手が隣町の凶暴な不良でも、隣のお婆ちゃんでも、あの可愛い嫁さんでも。本音か嘘か知らんけど、本人もまたそれがコンプレックスみたいなこと言ってます。笑いの量だと、浅賀よりも柳河原さんたちのほうが明らかに多いでしょ。あの人たち、どうでもいいことでなんであんなに盛り上がることができるんでしょうね」
「さて。やっぱりやりたいことやってるからとちゃうかな。稼ぎは食っていくだけの最低限あればいいって感じで。いい車に乗って豪邸に住むことよりも、自分が好きなことをやってるほうが楽しいんやで。まぁパチンコっていうのがどうかと思うけど。金より笑いが優先なんやろな」
「そうか、金よりも笑いか。僕は両方とも欲しいなぁ。楽しいこととお金、全部。我がままと言われそうですけど、楽しいことやって稼げる、そういった道がきっとあると信じてます。ただ、このまま飲食業の道を進むと、なんだか、あいつらと疎遠になりそうな気がして。俺だけ道がはぐれていくような気がして」
「そんなことは関係ない。ほんまの友達というもんは、どれだけ違う道へ進んでもまた会えるもんや。わしにもそんな親友がいる。たまに会うとすぐに昔みたいに戻れるんや。昔からよう言うねん、友達同士で働くのはあんまりよくないって。親や兄弟もそうや。付き合いは腹七部、ちょっと疎遠なくらいがちょうどええんやで」
「僕らはずっと一緒に生きてきたから、なんかこう家族みたいなもんで。この先、別々の道を進むのかと思うとちょっと寂しいです」
「そうやな。でも、どの道も厳しいもんや。人生は自分のもんや。自分自身が悔いのないように生きていかなあかん」
「もし親父が生きていたなら同じことを言う気がします。バカでも貧乏でもいいから、とにかく思い切って生きていけ、元気で生きていけ、とことん楽しめって」
「そうやで、わしもそう思うわ。金は大事やけど、自分の気持ちに素直に生きたらええのとちゃうかな。失敗してもええやん。なんかあっても片山君やったらきっと乗り越えていくと思うわ」
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