恋うる鹿の信言美ならず
姫の昼餉のお世話のあとに自分たちの食事をとった帰りがけ、取り巻きを連れた琴比奈とすれ違った。しゃなりと首を振って何か言いたげな目線を投げかけてくるが、彼女は何も言わない。
代わりに周りの女たちが私を見て口々に「あれが新参の……」「まあ朴訥な方で……」と聞こえよがしにひそひそやる。一緒にいる八柏殿には当てはまらないような、なんとも言えない玉虫色の嫌味である。
琴比奈は閑職に回ってからというもの日がな暇なのでああやって人を連れて曲輪の中を漂っているらしいのだ。
それにしたってもうちょっと何かしら仕事をしてもいいと思うのだが、そこのところどうなのだろう。
女たちが名残惜しげに私を振り返りつつも角を曲がって消えていった辺りで、隣の八柏殿に話しかける。
「琴比奈殿はずいぶん幅を利かせていらっしゃるんですね」
「彼女はご子息のお手付きですから、多少気が大きくなっているのはあるでしょうね」
雑談には思ったより快く応えてくれる八柏殿である。
その口からごく自然に出てきた単語を反芻する。
今川義元の息子、氏真。彼のことはちゃんと野分が知っている。
北条氏から妻をとった義元の跡取り息子で、 祖母の寿桂尼からもたいそう可愛がられているとか。
性格の良し悪しや跡取りとしての出来不出来はともかく、文化的な教養は大いにある人、 というのが侍女たちが見る氏真という男だ。
そういうなよっちいやつが、妻の目を盗んで父親の館に奉公する侍女に手を付けるとは。
そしてそういう地位のある人との一夜を笠に着る女がいるとは。
琴比奈は見込み違いにたいそう腹が立っていることだろう。
姫は今川義元公の世話になっている立場で、 その跡取り息子との間に波風を立てられない。だから琴比奈は、姫が氏真お手付きの女に強くは出にくいと思っていたはずだ。
実際は
――
松平元康と、彼より五歳年上の氏真の関係は実のところあまりよくない。
初花姫をどちらに娶らすか今川義元の悩みの種であった時期もあるようだ。
姫は御年十六歳。氏真は二十一歳。既に正妻がいる。氏真の方から姫を側室に望んだという噂も一時流れてはいたようだ。
とはいえ、希望していたとしても退けられていることだろう。
なぜなら、最近は松平元康が頻繋に初花姫様を訪れるようになっているから。
今日も今日とてご訪問があって、姫様は今まさに松平の若殿とご歓談の真っ最中である。
松平元康の従者として随行してきた本多平八郎忠勝と、初花姫の側近である私──野分とは、いま揃って主人たちのいる部屋の隣室に控えている。
本多くんはいつになく浮かない表情だった。主に侍って姫様のところへ訪ねてきたそのときから、次の間に野分とふたりで入って待たされるとなってもなお黙りこくっている。
非常に気まずい。
なるべく目を合わせないように俯いているが、視線を感じる。ずっしりとした沈黙が、むしろ訴えかけてくるように感じられるほどだ。
野分と本多忠勝の間に、これまでどんなやりとりがあって、どうしてこんなに野分と彼の間の好感度に開きがあるのか。
その辺りを知りたいのだが、いかんせん探りを入れるのにも気を遣う。本多くんときたら野分から少し話しかけられただけでとても嬉しそうなのだ。
隣室からは気楽なおしゃべりの声が聞こえてくる。
……姫と松平元康がこのままくっつくならそれはそれでいい。問題はこのルートに乗っかった場合のその後の展開だ。
侍女としてついていくなら先々まで安心安泰であろう徳川ルートがいいに決まっている。
姫様が徳川ルート入りの条件を満たしているかどうかは確認のしようがないが、現状、ふたりの親しさを見るといけそうな感じがする。
「近く戦になるそうですね」
「……ああ」
気まずさに負けて話しかけてみても梨の礫だ。
こうなってみると、つくづく彼の積極性ありきで成り立っていたコミュニケーションだったと実感する。
が、今度の沈黙は長くなかった。本多くんは渋面を私には向けないまま、ぽつりとこぼすように口を開いた。
「小平太に武運を祈ってやったそうだな」
「え?」
怒ったような拗ねたような声音に驚いて、なぜだか私の方がしどろもどろになってしまう。落ち度があるわけでもないのに浮気を言い訳するような気分だ。
「ええ、この度が初陣と聞きましたから……せめてお祈りするくらいはと」
「戦場に祈りは無用であろう」
吐き捨てるようなその一言できちんと理解した。彼は怒っている。
「気にかける人の多い方が、生きて帰ろうという気にもなるかと思ったのですが」
どことなく押し殺したような、「ふーん……」という低い呟きのあと、彼は私の顔を覗き込んできた。私はぎゅっと眉間に力を入れて、武骨ながらも整った少年の顔を見つめ返す。
息が詰まるような沈黙が折り重なったあと、彼の手がつと私の頬に触れた。びくっと体が跳ねる。すると相手は驚いたような、傷つけられたような顔をした。
彼は潤んで揺れる目を伏せ、ゆっくりと口を開いた。
「おれは、お前の心を占めるものが妬ましい」
囁くような声は掠れていた。まるで、迷子になった子どものように頼りない声。
はっとして彼を見た瞬間、唇を奪われた。
抗議の声が漏れかけて開いた口を、そのまま深く吸われる。腰に回された手に体を引き寄せられ、胸同士がぴたりとくっついた。
身を引こうともがいても腕の中から抜け出せない。それどころかますます抱きすくめられてしまった。
ぬるりと湿った舌が入り込んでくる。逃げる舌を捕らえられて絡まされ、体の芯から熱くなるような感覚に思考力が失われていく。
やがて彼の唇が離れた。どちらからともなく吐息が漏れる。どこか夢見心地な響きがあった。
頭の中に警報音が響く。危険だと告げている。背筋にはぞっとするような甘い痺れが走り、身体の奥底がざわつく。
野分の体が、本多忠勝に直面するたび訴えていた
あられもなく欲するこの気持ちが本性だったのかもしれない。
目眩に似た衝動に襲われて目の前の男にしがみついた。
すると再び激しいくちづけが与えられた。今度は最初から容赦がない。乱暴に舌がねじ込まれ、背骨をなぞるように指先が動く。耐えきれずに身を捩ると、彼は私の身動きを封じるようにいっそう腕を絞り上げた。
次いで着物の裾を割り、肩口を下ろそうとしている。
さすがにここまでは想定外だ。
「待って、何を……」
制止する私の肩口に額を押し当て、彼が低く唸る。
「待ってどうなる」
貞操の危機――と頭をよぎったときにはもう遅かった。あれよと言う間に畳の上に押し倒され、天井を背景に本多忠勝が覆い被さってくる。
――隣の部屋にお互いの主がいるのに致すとか嘘でしょ……
混乱の中で、それでもどうにかしなければと思い、咄嵯に私は言った。
「殿方に触れられるのは初めてなので……」と。
本多くんの動きがぴたりと止まった。それから大きな溜息をつき、苦虫を噛み潰したような顔で私から離れていく。
「少し、頭を冷やす。……何かあれば呼んでくれ、廊下にいる」
まるで自責の念に耐えるように唇を噛んで目を逸らし、彼は宣言通り廊下へ出ていった。
取り残されて、そそくさと装束の乱れを正す。彼がどんなつもりで……などというのは考えるまでもない。
問題は野分だ。あわや乙女を散らされるところだったのに、胸に感じる疼痛は不快というよりもずっと、ときめきに近い。
最近の榊原くんから感じられるまぶしいくらいの好意や、当初からの本多くんの熱烈な感じはまさか、野分が恋愛フラグを立ててきた結果ということになるんだろうか。
初花姫様の恋路の横で、その侍女にもルートが用意されていたとかそういうことだったり…………?
死なないで姫様 @edithia3
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