混乱する成り代わり者
初花姫は有言実行の人だった。
これほど好き勝手に大胆にできるなんてどれほどの権限を与えられているのか、ちょっとぎょっとするくらいの人事再編を行なったのだ。
まず、私が初日に面通しをした姫の最側近三人――
恵円尼と琴比奈のふたりは初花姫配下に在籍のまま、姫のおそばからは遠ざけられた。
八柏殿だけが姫の側仕えに残ることとなったのである。
新たに姫の最側近の地位を手にしたのは野分――つまり私だ。
物静かな八柏殿が、この新人の
古参女衆との関係が肝要と覚悟を決めていたので拍子抜けでもあるが、無用なマウント合戦を避けられたのはありがたい。
初対面の野分に向かって既にゆるくファイティングポーズを決めていた琴比奈も拳を振り下ろす先に困ったことだろう。
「やっぱり姫様はどこかおかしくなられてると思うのよね」
「姫様ではなくて悪霊か何かが代わりに憑いているのじゃないかしら」
「そうでもなかったら、琴比奈様を側近から外すわけがないもの」
「ええ、その通りね」
そうでもなかったようだ。
廊下の端に四人くらいで円陣になった女中たちが、人目も憚らず陰口を叩いている。
琴比奈はいかにもその中心人物らしい佇まいで、自ら口火を切らずとも望んだ通りの陰口を取り巻き的な彼女たちから引き出して満足を得ているようだった。
「それにしてもあの女、よほどご機嫌取りなのでしょうね。でなければ移ってきて早々に側仕えになれるはずがありませんし」
「それに彼女、どこぞの若衆とずいぶんまめまめしく逢引きしているとか……」
「まあ……いったい何をしに奉公に上がってきたのだか」
「市井上りですもの。底の浅い方とてしようがないわ」
そっと踵を返す。迂回していこう。エンカウントしたら面倒だ。
ちょうど話題に出た若い男との逢引きに行くところだったし。
「人の噂とは足が速いものですねえ」
待ち合わせ場所に先に来ていた彼は、なんでもなさそうに言って笑った。
「噂されている当人の言うこととも思えませんが」
「噂でなく、いっそ本当にしてしまいたいくらいですから」
……またそうやって軽率に口説く。
初花姫の下に移って二週間ほど。その間に彼とは五回も六回も会っていて、すっかり砕けた雰囲気になってしまっていた。
「色男でいらっしゃるのはもうわかりましたから。場所を変えませんか」
「ええ、喜んで」
軒端の影に隠れるようにして、私たちは歩き出した。
今日は私からの定期報告ではなく、彼からの呼び出しだ。
整備された生垣の奥を抜けたところで、 榊原くんは足を止めた。
樹陰に隠れ、ひっそりと目立たぬように建てられた庭師の小屋がある。いつも彼の先導で来る、内談のために眺えたような場所である。
何ら気遣いのない手つきで、 榊原くんが小屋の戸を開ける。中には誰もいない。框を設けただけの一間で、掃除用具や植仕事の道具が一塊に土間の壁に寄せてある。いつ見ても同じようにそこに道具類があるので、この小屋を与えられて仕事をしている人物がよほど几帳面なのか。 あるいは小屋に滞在する庭師などいないのか。
粗末な畳の上に胡坐をかいて、 榊原くんは早々に本題に入った。
「近く大がかりな戦になるようです。 ここ数年小競り合いしてきた織田を潰すのに、動員は二万を超えるという噂。……我らも先鋒隊として出向くことになります」
「織田………」
「ええ。当主はうつけと聞きますが、正直得体の知れない男だ。今川が負けることこそないでしょう
が、何をしでかしてくる相手かわかったものではない」
愕然とした。桶狭間の戦いが起きる。今川氏凋落の契機はもうすぐそこまで来ていたのだ。
私が初花姫付きになって二週間と少し。今川氏安泰の間は平和に過ごせる確信があった。その間にこの世界観のことをもうちょっと考えるなり、現状を打破して元の現実の自分に戻れないか探ることもできるかと思っていた。
それなのに、死亡フラグの林立する本編が始まってしまう。
「近くというと、あとどの程度」
「昨年末頃から陣触れが出ていますし、着到も増えています。再来月には出陣になるでしょう」
榊原くんの冷静な口ぶりからは、戦など日常茶飯事、という余裕が垣間見える。まだ十代も半ばに見えるのに妙に落ち着いているし、戦なんかこわくなさそうだし、どこかしら情緒が欠けてしまっているんじゃないだろうか。
再来月の五月に出陣。
戦がそこから何か月かかるのか知らないが、桶狭間での戦いはすぐに決着したような印象がある。
今川義元は盆地でゆっくりしてるところに信長の奇襲を受けてみたいな内容を日本更でやっような気がする。クイズ番組か何かでも見たような気がする。
つまりあと二、三か月の内に初花姫はこの城を離れて流浪の身になるのだ。もちろん、彼女についていくと決めているからには、私も。
「しまき殿、何か気にかかることでも?」
ばか正直に思っていることを話すわけにもいかない。
「いえ……あの、我らと仰られましたが、あなたも?」
「ええ。俺も平八も」
彼の返答に私は驚かなかった。
平素から落ち着き払った榊原小平太と、血気盛んでいずれは最強格の武将になるはずの本多平八郎忠勝。松平元康が城内でこの両名を重用しているのも明らかだ。戦にも連れて行かない道理はない。
今川義元はこの戦で死ぬ。姫の今川傘下での生活は、ゲームでいうとほんの序章だ。今川義元の死という設定上絶対の線を越えない限りは平和なのだ。
だからそれを永続させることができたら万々歳なのに。
…………もしもの話、シナリオ進行自体を転覆させることはできるんだろうか。
今川義元が織田を下して信長が死に、他の障害も排して京へ上って天下人になったら。徳川家康は松平元康のままかもしれないし、今川から離反したくともできないかもしれない。織田家中から頭角を現してくるはずだった人々は才覚を発見されないままかもしれない。
例えば私一人の働きかけで何らかの改変ができるとして、ゲーム上用意されていない展開に進んだことでエラーが起きたりしたらどうしていいかわからないけど。
そもそも主人公の侍女、松平氏の間者というだけの立場で、二か月後には戦が始まることが確定したこの状況で、できることなんて。
初花姫に拝み倒して今川義元への課言をお願いすれば、あるいは可能だろうか。
今川義元の初花姫への恩龍の降らせ方は並大抵のものではない。
贅を凝らした着物や装飾品をお仕着せにして、大それたわがままも言わず、月のように楚々と微笑む
そんな彼女を以てしても、男の、武士の領分に口出しするなとはねつけられるだろうか。そうだとしても一度試してみる価値はあるかもしれない。
姫様のお力を以てしても、目前に迫った戦争を止められる保証はまったくないとしても……
「しまき殿は、俺とやつのどちらをそれほど深刻に心配してくださってるんです?」
「え?」
聞き返してしまってからすぐにわかった。私が切羽詰まって考えている様子を、榊原くんは――
榊原くんがどうかは知らないが、本多忠勝が死ぬことは絶対にないと言い切れる。ずいぶん後になっても徳川に仕えているはずだからだ。
榊原くんはどうなのだろう。せめて日本史にもっと詳しかったら、彼に何か有益なアドバイスができるのに。
戦など日常茶飯事、という余裕のまま、討死も本懐とかいって死んでしまいそうな危うさがあるように思えてならない。
「戦とあってはお力になれることがなく不甲斐ない思いで……せめて御身のご武運をお祈りしております、榊原殿」
ふと顔を上げる。向こうはずっとこちらを見ていたのだろうか。垂れ気味の涼し気な両目と視線がかち合う。
彼は膝に乗せた手を拳に固め、真剣な面持ちで見つめてくる。その顔から驚くほど純粋な好意が感じられてなんだか居心地が悪い。
あいまいに微笑みかけると、榊原くんは嬉しそうに微笑み返してきた。
「お気持ち有り難く頂戴します。必ず吉報を持って帰りましょう」
彼が好意や憧れを持っているのは野分だ。中身が別人だなんて榊原くんは知らない。
悲しいことに、私が彼をかわいく思ったところでどうしようもないのだ。
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