月影に沈む瀬あれば浮く瀬あり

 敷居を越えて部屋に入り、 座礼する。

 私の後ろで、襖が静かに閉じられた。


 無言が続く。何も声がかからないのはどうしたことか。

 ちらっと上目遣いに上座を窺うと、姫が「あっ」 と何かに気付いたような顔をした。


「顔を上げて、今少しこちらへ」


 自分が何か言うまで相手が動けないことを忘れていたらしい。こういうところが現代の人っぽく感じる。もしかしてふつうに仲良くなれるかもしれない。


 言われた通りに上座へ少し近付く。

 と、姫が今度は無言でこちらに手のひらを向けて、「止まれ」と合図を送っている。

 座を崩さないまま私がじっとしていると、そっと衣擦れの音を立てて姫の方からこちらへにじり寄るようにして近付いてきた。小袖を払い、打掛を引きずりながら、あまり身軽とは言えない移動だ。


「まだあの三人がいるだろうから少し待って」


 膝同士が触れそうなほど近くまで来て、姫がささやく。

 ジャスミンをもっと甘く、濃くしたようなにおいが彼女の髪や肌から漂ってくる。 美女は体臭まで麗しいのか。それとも着物に焚き染めてあるのだろうか。


「皆、下がってくれるかしら」


 私の肩越しに姫が命じると、襖の向こうで三人の侍女が退散していく気配がした。


 物音が遠ざかっていくと、 初花姫はさっと立ち上がった。ほっそりとした体つきだ。下から仰ぎ見る小さな顔の、 顎のラインの美しさが目を引く。

 姫は自ら襖をちょっと開け、 最側近たちが完全に立ち去ったのを垣間見で確認する。


「これでいいわ。あ、足は崩して楽にして」


 満足そうに言って、いそいそと戻ってきた。

 そしてまたしても膝を詰めて座る。パーソナルスペースにもっと余裕を持たせてほしい。


「きちんとした状態で話すのは初めてね」


 初花姫は悠然とした貴人の態度で微笑んでいる。


──容色の優れたること氷肌玉骨の相なり──と讃えられる傾国傾城の人。

 二次元の存在がそのままくりぬかれて目の前に置かれている。向かい合っていてもどこか現実味がない。

 ゲーム上の攻略対象たちが軒並み参ってしまうのも無理はない。見る人によっては後光さえ差しかねない美女だ。


「あなたと最初に話したときわたしはまるで前後不覚で、自分が何者か、ここがどこか、周囲を取り巻く人々が誰なのかもわからなかった。思い出した後でも、一度死んで蘇ったことになっているのには驚いたわ。その辺りの記憶は今もないの」


 ふと、姫は私の反応を待つような間を作った。小首を傾げてはいるが返事を促すでもなく、何かを期待するような沈黙。


「だからまずはあなたにお礼を。黄泉がえりの不吉から忌避されていたわたしに、あなたが物怖じせず接してくれたお陰で心安くあれました。ありがとう」


「畏れ多いことでございます」


 姫の快活さに押された私の方は、相槌だけをどうにか絞り出した。

 言葉選びに歯切れのよさがあり、声は明るい。以前の同僚、燕が評していたところの「お人形のようにおとなしい」人のようには思えない。


「わたしはわたし自身が何か変わったとは思わないけれど皆はそうは思わない。偏見なく接してくれる人を側に置きたくて、それであなたにニの丸へ移ってきてもらったという次第よ。この異動の理由以外に聞きたいことはあるかしら」


 現代のOLという設定の悠月の人格が喋っているのだろうか、これを。高貴な人を演じるにしても限界があるんじゃないだろうか。

 ……いや、質問を受け付けてくれるというならその寛容さに甘えてみるべきかもしれない。


 ちらっと「姫のことをこまめに聞きたい」と言った松平元康の顔が浮かんだものの、正直彼のために働くのは今のところ二の次にしておきたい。

 

「では畏れながらお尋ねいたします。悠月ゆづきという名前にお心当たりはございませんか」


 柳眉を下げて、姫は考え込む顔になった。

 もしかしたら聞くべきではなかったかもしれない。言ってみて早くも後悔している。


 中身が何者であれ、姫以外の何者かがうまく演じているだけだとしたら、この世界で生き抜くのに充分な巧者だ。もしかするとメタ的知識を持っている人物は彼女のプレイングに邪魔かもしれないし、排除されるかもしれない。

 もし反対に、彼女が初花姫本人──つまり、このゲームの時間軸において本来在るべき人そのものであった場合。洗いざらい打ち明けて、私の方こそ頭がおかしくなったと思われたらそれこそデッドエンドまっしぐらだ。


「ゆづき……あなたの親類か何か?」


「知己と申しましょうか」


「たまに香木を卸しにくる薫物売たきものうりが似た名前だったように思うけれど。次に彼女が来たらあなたも同席するといいわ」


「いえ、伝え聞くところでは此方の殿中に在所とのこと。姫様にもお心当たりなしとなれば既に離職しているのかもしれません。お耳汚しを致しました。お忘れください」


 まだ何か思案顔の姫は、そうかしら、と言いたいのを堪えているように口を尖らせた。子供のような表情だ。地位の高い人物の血縁で、高貴な人としての教養を授けられていながら、いやだからこそ気ままな言動や行動の人として許し続けられていく姫様なのである。

 その彼女から、いま無理に答えを引き出す必要はないのだ。今後は近くにいるのだから適宜軌道修正を加えていければそれでいい。一旦そういうことにしよう。慣れない内に突貫するのは無理な気がする。

 

「ずいぶんと遠慮深いこと」


 姫は言い、おもむろに袖を振って立ち上がった。


「今後わたしの配下については人事を粗方刷新するつもりなの。小うるさい者たちを一掃して、そうしたらあなたにもきちんとした役職をあげるからそのつもりでいてちょうだいね」


 百花も恥じらうほどの微笑を投げて寄越され、うっかり白目をむきかけた。あまりにもまばゆくて。

 ……が、この感じ初めてじゃない。

 遠くなりかけた意識を引っ張り戻す。松平元康の見返りの笑顔もまた胸が苦しくなるような色香だった。堪えられる。だいじょうぶ。


「姫様のご厚情に感謝申し上げます」


 偏見のない接し方が評価されておそばに置いてもらえる。

 思い返してみればたったあれだけ、と思えるようなことでも相手の心には残ったのだ。人も羨む僥倖には違いない。

 あとはこの幸運を逃さないようしがみつくだけだ。

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