おいしいおと
寺音
おいしいおと
「え、これ、賞味期限今月じゃない」
食器棚の一番下は、主に保存食などを入れておく場所だ。そこの奥から出てきた即席麺を見て、私は思わず声を出した。
赤いきつねと緑のたぬきが一つずつ。恐らく夫が買いだめしていた物だろう。平日の昼間で夫は不在だが、食べてしまった方が良いだろうか。どうしようと考えている私の腕に、柔らかい物がギュッとしがみついてきた。
「まま、どうちたの」
気がつけば息子が私の腕を支えに身を乗り出し、手元を覗き込んでいた。新幹線のオモチャが線路を周る音が聞こえる。先程までずっと飽きもせず、それを眺めていたと言うのに。
「お片付けしてたんだよ。あっくん、ここは危ない物がたくさんあるから、入ってきちゃダメだよ」
「それ、なあに?」
珍しい物があるからだろう。キラキラ光る視線は即席麺に釘付けで、私の忠告は右から左のようだ。
「おうどんとお蕎麦だよ。あったかいお水を入れて作るんだよ」
「おうどん!? あっくん、おうどんしゅきだよ! たべたい!」
両手をぐんと上に、その場で飛び跳ねながらのアピールだ。小さな足が鳴らす音は意外と力強い。
もうすぐお昼の時間だし、偶には良いかと結論づける。
「分かった、食べよう。危ないから、新幹線さんの所で待っててね」
「ままはみどり、あっくん、あかいの! あか、ね! ひーろーのいろなんだよ!」
わーいともう一度大きく飛び跳ね、素直に放っておかれていた新幹線の元へ戻って行く。最近見始めたアニメーションのおかげで、息子のマイブームは赤色だ。
私は即席麺のビニールを開けると、蓋を剥がして準備に取りかかった。
それにしても、久しぶりだ。最後に食べたのは二年程前、息子がまだ赤ちゃんの頃。ただしそれは決して、まともに食べられたとは言えなかった。
息子が生まれて数ヶ月。初めて育児と言うものに関わった私は、何と言うかいっぱいいっぱいだった。
息子は寝るのが下手で物事に敏感で、当時は何かにつけて泣き叫んでいた。一、二時間ごとに目を覚まし、抱っこのままソファーに座り朝を迎えたことも珍しくない。
そんな調子でまともに家事ができるわけもなく。食事と言えば、コンビニのおにぎりを片手で押し込む日々。それも冷えたままだ。もう片方の手では息子をあやしていたので、息子の上に落ちてはと温かい物は避けていた。
ところがある日、奇跡的に息子がベビーベッドで眠ってくれた。すうすうと安らかな寝息を立てる息子を、私は暫し呆然と眺めていた。
どのくらいそうしていただろう。やがて、寝不足で朦朧とした頭で考えたのは、『寒い、温かい物が食べたい』ということだった。
お昼には遅い午後二時頃。息子が起きないように細心の注意を払って、お湯を注ぐ音すらも気を使いながら。そうして待った三分間は世界一長かった。タイマーを鳴らす訳にもいかず、時計と睨めっこ。秒針の音すら焦燥感に駆られた。
ようやく針が目印の十二の上を三周する。
できた。私は重し代わりの皿を下ろす。湯気が立ち上る現象にすら感動を覚えつつ、かやくのかき揚げを蕎麦に乗せ食べようとした。
そこで息子が、耳をつん裂くような声で泣き叫び始めた。
ああ、起きてしまったのだ。
絶望感と使命感を同時に感じながら、私は徐に立ち上がり小さな身体をそっと抱き上げた。
また息子を寝かしつけた時には、すでに蕎麦は冷め切っていた。かき揚げもバラバラになって膨らみ、麺の上に広がっている。
私は蕎麦をかき揚げだった物ごとすする。
冷たい。そして、私が好きだった味ではない。
蕎麦のかき揚げは、少し歯応えを残して食べるのが好きだった。それが今は歯応えどころか、ふやけてお麩のような食感になってしまっている。冷えた出汁と伸び切った麺、ふやけたかき揚げ。
ああ、好きな物を食べたいと思うことすら叶わないのか。
情けない感情に支配され、冷たい物を食べているはずなのに鼻を啜る音が止まらなかった。
それからしばらく、一切そう言う物を食べようとはしなかった。後から思えば、夫が息子を見ててくれている間に食べるとか、方法はいくらでもあったはずなのに。もう食べない、と拗ねた子どものように、それを視界にすら入れなくなっていたのだ。
考え事をしている内に、セットしていたタイマーが鳴る。
「まま! ぴぴってなったよ!」
「鳴ったね、できましたの合図だよ。ママ、あっくんが食べられるように準備するからね」
赤いきつねの方が待ち時間が長いので、先に作っておいた。重し代わりのお皿を避けると、出汁の香りがフワリと鼻をくすぐる。
麺を子ども用のプラスチック椀に移し、食べやすい大きさに切っていく。
うどんだって、始めはすり潰してドロドロにした物から初めたのだ。その内、こうして別の器に移して冷まさなくとも食べられるようになるのだろう。
冷蔵庫から茹でたブロッコリーと細かく切ったトマトを取り出し、作り置きのミートボールをレンジで温める。ミートボールだけ食べて終わりな気もするが、食べなくてもまあ良いか。
「お待たせ。ママのもできたから、ご飯食べようか! お手手を洗ってこよう」
「わーい、おうどん!」
好物なのでいつもよりも聞き分けが良い。洗面所に自分専用の踏み台を運んで行く。まだ危なっかしいので、後ろから小さな手を包み込んで補助をする。椅子に座らせ、エプロンをつけさせた。
食卓には様々な赤と緑が並んでいる。鮮やかなテーブルに息子がわあと歓声を上げた。
「いただきます!」
私と息子の声が響いた。パチンと両手を合わせると、早速息子はうどんの入った椀にフォークを突き刺す。少し手間取りながらも数本の麺を絡め取り、大きな口の中へ放り込む。普段から丸みのある頬が、さらにぷっくりと膨らんだ。
「ひーろーのおうどん、おいしいねぇ!」
「良かった。よくカミカミして食べてね」
息子の一口を見届けて、私も緑のたぬきを手に取った。カップ越しにほんのり熱が伝わる。軽く箸で中をかき混ぜ、取り出していたかき揚げをつゆの中へ落とした。じんわりと少しだけ出汁が染みた所で箸を入れ、口に運ぶ。
サクッと歯切れのよい音が響く。咀嚼すれば、軽く心地良い音と少し染みた出汁の香りが口いっぱいに広がる。続けて麺を持ち上げれば、湯気が立ち登る。息を吹きかけ冷まして啜ると、蕎麦の風味が鼻を抜けていった。
温かい、私の好きなあの味だ。
ふと、息子が食べる手を止めて、私をじっと眺めているのに気がついた。何、と聞く代わりに首を傾げると、心底楽しそうにふふっと笑う。
「まま、うれしいね。おいしいおと、だねぇ」
あらまあ、どこでそんな表現を身に付けたのやら。
紅葉の様な両手を口元に当てて、息子はコロコロと笑う。
こんなことを面白がるのも、いつまでだろうか。
その頃には一人で赤いきつねを平らげ、足りないとでも言っているだろうか。
今の私がそうであるように、その頃のワタシは少し前の息子を懐かしく思い出しているのだろう。
「そうだね。おいしいおと、だよ」
笑い続ける息子を意識して、もう一度大きな口でかき揚げに齧り付いた。
一際大きな歓声が上がる。ああ、そんなにはしゃいでは、テーブルのコップが倒れてしまう。
息子を嗜めるも、その無邪気な笑顔に釣られて。
つい、私も大声で笑ってしまった。
おいしいおと 寺音 @j-s-0730
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