第17話
気付くと翔太は自室に戻っていた。傍らにはストロングの缶チューハイがあった。 再就職が決まるまで酒は飲まないと決めていたが、こんな精神状態では仕方ないだろう。理性的に現状を理解して判断することなど何の意味もないのだ。何の意味もないことが証明されたのだ。
とにかく意識をぼんやりさせ、将来への不安とか絶望を直視しないようにしなければならない。意識的にもう一度大きく缶チューハイをあおった。
突然ガチャリと音がして驚いたが、隣室のドアが開く音だった。珍しくテレビもネットの音も流れていない状態だったので、隣室のドアの音をいつもより大きく感じたのかもしれない。
「えー、今日は帰るってばー」
例によってあいつの彼女も一緒のようだ。
(頼む、今日は大人しくしていてくれよ……)
翔太は祈るように願った。こんな日くらいは静かにしておいて欲しかった。
騒音を掻き消すようにテレビなり音楽を付ければ良いのかもしれないが、今は誰かの話す言葉も音楽も受けとりたくなかった。どんな素晴らしい音楽も、癒しの番組もそのままには受け止められる気がしなかった。
こういう時は無理に気分を明るくしようとせずに、とことん落ち込み涙を流せば良い、と何かで読んだことがある。だから翔太は部屋の電気も消し、自らの内面に没頭していったのだった。
心理的な要因のせいか、なかなかいつものように酔えなかったのだが、缶チューハイも三本目の半ばまで進んだところでようやく酔いを感じられるようになった。(……ああ、これだよ。この時間の自分が本当の自分なのかもしれない)
一瞬だけ気持ち良さを感じられたところで、翔太の意識は遠のいた。
夢を見た。子供の頃の夢だ。
まだ何に対しても疑いを抱かず、母親のことが大好きで母親と過ごす時が一番の幸せだった頃の夢だ。
夢の中で翔太は走り回っていた。そんな翔太を見て母親は笑っていた。
「……ちょ、待ってってば…………マジで」
翔太の幸せな時間は、またもや隣室からの喘ぎ声によって終わりを迎えた。
「そんなこと言ったって、今さらやめられるわけないじゃん」
酔いの残った状態のまま起きたせいか、感覚が鋭くなっていたのかもしれない。隣室の話し声が今日ははっきりと聴こえた。
「人間が平等だ」なんてのは言うまでもなく誰かが何らかの利己的な思惑があって広めた大嘘だが、どんな人間にも終わりが来る、という一点においてだけは平等だ。
誰しもが迎える終点を前にしては、どんな生き方をするか、どんな死に方をするか、その他すべての問題は些末なものに思えた。
今からすべきことははっきりしていた。翔太の心は非常に透明で迷いがなかった。
三本目の缶チューハイはまだ半分ほど残っていた。飲もうかどうか少し迷ったがそのまま流しに捨てた。長い時間眠っていたわけではないだろうが酔いはかなり覚めていた。
チューハイを捨てたついでに台所の下の棚から包丁を取り出すと、そのままの流れでドアを開け、隣室のチャイムを押した。
(……ふう、なかなかいい気分だな)
生まれて初めての殺人だったが、予想よりも上手く出来たと思う。相手の抵抗も叫び声も最小限に抑えて実行することが出来た。
初めての経験だったが、多分自分には才能があったのだと思う。
踏み込み、全身の連動性……どの場面でも頭は冷静に、体は自然に動いた。
(もっと早くこうすれば良かった、何故もっと自分の才能と向き合わなかったのだろうか?)
翔太は少し悔やんだ。だがすぐに気持ちを切り替えた。過去を悔やむことほど無駄な時間はないだろう。
(あ、酒飲みたいな……と思ったけど自分の部屋で捨ててしまったんだった……いやあの時はあれが正しかったんだ!)
あの場面で三本目のチューハイを飲み干していたならば、この充実感は味わえなかったかもしれないのだ。
(お、あるやん!)
隣人の冷蔵庫を開けると発泡酒が冷えていた。
「まったく……大学生の頃から飲酒を習慣にするなんてよくないぞ!」と動かなくなった隣人に教育的指導の言葉をかけてから、プルタブを開けた。
「乾杯!」
あえて声に出して発泡酒の缶を掲げると、喉を鳴らして発泡酒を流し込んだ。
「うまい……」
今まで発泡酒はあまり好きではなかったが、この瞬間に飲むキンキンに冷えた発泡酒は最高に旨かった。
お代わりを探し冷蔵庫を漁ってみたが酒はもうなかった。
翔太は床に腰を下ろし一息ついた。
「……さて、どうするかな?」
いや、本当はどうしようもないことは百も分かっていた。
(了)
私たちが幸せにならないために きんちゃん @kinchan84
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