そういえばあいつは
頭野 融
そういえばあいつは
【あなたは神を信じますか】
いつもより直球な質問だなと思いながら、パンフレットを郵便受けの横のゴミ箱に捨てる。捨てた後になって、もしや団体が違うのでは、と思いつきゴミ箱に手を突っ込む。別にこのゴミ箱は住民専用のいらないチラシなどを捨てるためのものだから、そんなに汚くはない。まあ、そんなのは後付けで単純に気になっただけだけど。
やっぱり。いつもは何とか教会だけど、今日のは違う。ちなみに、なんでパンフレットを目の前にしながらもちゃんとした名前が思い浮かべられないのかというと、それがカタカナの羅列だったからだ。最後の単語はビレッジだった気がするけど、そのあとはもう分からない。だって、もう破ってまたゴミ箱に投げ入れてしまったから。
僕の生活にもう少し余裕があって、心にも余裕があったらこういう信仰やら思想やらの方に脳の容量を割けるのかもしれない。でも多分こういうパンフレットを一軒一軒投函している人にそんな愚痴をこぼしたら、そういう人にも神様のご加護はあるんですよ、とか、そういう人こそ純粋な心で神様を受け入れることができるのです、とか言われるのだろうか。まあ、今の僕には賞味期限が明後日の鶏もも肉が3割引きになっているとき100グラムあたりいくらになって、それはいつもの鶏むね肉より安いのかなんてのを暗算するので精いっぱいだけど。結果としてはいつもの鶏むね肉の方がちょっとだけ安かったから、僕の鶏むね肉生活は無事、自己最高記録の6か月と3週間に並んだわけだけど。
とりあえず、今日食べる分以外の鶏肉は冷凍することにした。その前にゆでることを僕は忘れない。無心で特大パックのむね肉をお湯にくぐらせていると、ぼんやりと頭の中に低いハスキーボイスが流れてきた。
「あのね、丘野くん、僕はね――」
この声は高校のときの同級生の幸村の声だ。なんだか下の名前は思い出せないけど、10数年前の同級生の名字が思い出せただけでも良しとしよう。あいつとは色んな話をした。僕は意外にもクラスの中心メンバーと仲の良い二軍くらいの位置にいた。一方、幸村は一匹狼といった感じだった。根暗といった雰囲気でもなかったし勉強ができるというタイプでもなかった。それに別に嫌われているわけでもなかった。よく言えば一目置かれているというか、遠巻きにされているというか。まあ、それを一匹狼と言うんだったな。
いつもあいつと話すことは世間話か哲学的な話題かの二択だった。その中間の学校生活の愚痴みたいなものは僕たちの間からは抜け落ちていた。たとえば、英語の小テストがめんどくさいだとか、古典の○○先生は話が面白くなくてさらに採点が厳しいから最悪だとか。こんなことを思い出している内に鍋がふきこぼれそうになっている。危ない危ない。慌てて火を弱めながら肉を取り出し、最後の二枚を投入する。
それでもこんな風にするすると当時のエピソードが思い出せるということは案外悪い高校生活じゃなかったということだろうか。まあ、夕方6時に起きて晩御飯を食べて8時に家を出て早朝6時まで立ちっぱなしという夜勤バイトを週6でこなす生活と比べれば段違いで楽しかったのは確実だ。
そういえばさっきの幸村の言葉「あのね、丘野くん、僕はね」の後には何が続くんだったろうか。僕はね、なんだからその後にはあいつの話が来るんだろう。何だったっけ。僕はねラーメンは塩が好きなんだ、みたいな俗っぽいことじゃなかったはずだ。それに、もしそうだったら僕は生粋の味噌ラーメン派だから口論が勃発していたはずだ。幸いにもそんな記憶はない。
じゃあ、もっと高尚なこと。僕はね、人が嫌いなんだ。僕はね、自殺というものが心の底から許せないんだ。うーん、どれも違う気がする。話の方向性としてはさっきのラーメンよりは近くなっていると思うけど、なんか違う。あのときのあいつは、もう少し明るいことを楽しげに語っていたはずだ。そうだった。あいつの声のハスキーな部分が目立つときは少しあいつ自身も面白いと思っていることを、きみにも教えてやろうみたいな感じで話しかけてくるときだった。
熱っ。
急に勢いよく沸騰しはじめたお湯によって思考が現実に引き戻される。さ、とりあえず鍋から肉を全部救出したらラップに包んで粗熱が取れたものから冷凍庫に入れよう。白くなった肉がおいしそうだ。しっかり火も通ってるし。そう思っている自分に気づき僕は当たり前だろ、と自らツッコミを入れた。だって元々、茹でた方がおいしくなるし、火もしっかり入るから冷凍保存向きになるというのに。そのためにわざわざこんな面倒くさい作業をしているのだ。
——元々、元々。ラップに肉を丁寧に包んでいると妙にこの言葉が気になった。でも、別に幸村の声で再生されているわけではない。元々、元々なんだったろうか。元々。
冷凍庫にすべての肉を入れ終わったときに気づいた。元々、幸村の声が聞こえてきたのは鶏肉をお湯にくぐらせているときだった。じゃあ、鶏むね肉とあいつが関係あるってのか。それはおかしい。あいつとはそんな俗っぽいことについて話した覚えはやっぱりない。じゃあなんだ。お湯か。いやあ、お湯でする話なんて無いし。
どうやら僕の頭は就職に失敗してから意地を張って実家に帰らずに工場バイトを続けたせいで鈍らになってしまったのかもしれない。でも、こんなぬるいことを言っていたらあいつに馬鹿にされる。いや熱いお湯で火傷しそうだったっていうのに、ここでぬるい考えとは面白い。
おや、どうやら僕の頭も回転し始めてきたみたいだ。なんか、その兆候がみじめな気もするが。気を取り直して考えると僕は気づいた。なあに単純なことじゃないか。鶏肉でもお湯でもなければ、その前のこと。つまり、神だよ神。
そう自分が脳内でささやいている一方、僕はまだ脳をフル回転させる。幸村と「神」について話したことがあっただろうか。二人とも常識は弁えているつもりだったから、そういう宗教とか政治とかの話には踏み込まないようにしていたはずだが。
そう思ったのも束の間、僕は思い出した。そういえば国語の授業で熱心な司教が色恋沙汰に走る作品を習わなかったっけか。たしかあの授業のあと、めずらしく幸村がそのままの流れで僕に話しかけてきたんだった。
とっくにラップに包まれた肉は冷凍庫の中にしまわれたけど、僕は冷凍庫の前で過去の会話を思い出している。もちろん電気代がもったいないからちゃんと冷凍庫の扉は閉めている。
「あのね、丘野くん、僕はね神様はいると思うんだ」
そうだ、あいつはそう言ったんだ。あまりにも衝撃的な一言すぎて思い出すのに時間がかかった。あいつはそんな実在がその目で確かめられないようなものは信じないタチだった。そして当時の僕も驚いて聞き返そうとした。その言葉を遮るようにあいつは続けた。
「でも、それは絶対的な世界の創造者という意味の神を言っているわけでもなければ、多神教的なことを言っているわけでもないんだ。第一、宗教とはかけ離れてる」
ぽかんとしている僕を横目にあいつは話し続けた。
「僕が言っているのは、いつもお天道様みたいに僕たちを見ていてくれる神様でもない。ただ気まぐれで僕たちを見ている神様のことを言っているんだよ」
ようやくここで、僕は疑問を投げかけることができた。
「気まぐれ?」
「ああ、そうさ。気まぐれ。少なからず僕はそういうことにしているんだ。まあまあそんなお化けを見るような目で僕を見ないでくれ。まあ、お化けなんているわけもないんだけれど。おっといけない、話が逸れたね。つまり、僕はどうしようもないときだけ神様を信じるんだ――。えっとだからね、たとえば、信号に運悪く引っかかったとするじゃないか。ああ、せっかく走ったのに赤信号だよ、みたいな」
「うん」
「そのときには神様が何らかの意味を持って赤信号にしたんだ、と思うわけさ。これで万事解決。僕は苛立つこともなくなるし、未来に希望を持つことができる。万が一、直後にいいことがあれば神様のおかげだと思えるし、たとえば偶然信号に間に合った人の頭にハトの糞が落ちたとかね。まあ、これは実際にあったことだけど。それで、そのあと特段何も起きなかったら、神様はもっと先のことを見据えているんだ、と思えばいい。どうだいデメリットがないだろう?ノーリスクハイリターンさ」
このとき僕は、最後の言葉だけ合理的な幸村らしい考えだ、と思ったものだ。こんなことまで思い出せたんだから、やっぱりあいつの存在は僕にとって大きかったのかもしれない。その証拠にあのとき僕がつるんでた当時の一軍メンバーとの会話なんてこれっぽっちも思い出せない。
とはいえ、まだ幸村の下の名前は思い出せない。そういえば、さっき他のクラスメイトとあいつを比較したけれど、そんな話を幸村本人にもした気がする。お前と話してると何だか面白いみたいな雑なことを言ったのだろう。もしかしたら結構影響を受けたみたいなことも言ったかもしれない。
いつの間にか狭い部屋の小さな窓から西日が差し込んできている。はあ、また今日の20時には家を出ないといけないのか。そう、それであの時の幸村の返答も意外なものだった。それこそ、夕日のようにとかなんとか言っていたっけ。
「俺も丘野からちょっと眩しい夕日くらいの影響を受けてるよ」
あのときは朝日じゃなくて夕日っていうチョイスらしいやって思った気がする。あいつ、割と丘野くんのこと気に入ってたみたいだよ。今じゃあいつどこいるか分かんないけど、って聞いたのは二年前くらいのことだっただろうか。たしか同窓会のために海外から帰ったあいつの姉さんがそんなことを僕に教えてくれた。なんかねぇ、俺の名前を褒めてくれたやつは血のつながってないやつだと丘野だけだ、とか言ってたのよ。まあ、たしかにね。あいつの名前、めずらしいもんね。
そうだ、思い出した。聖職者の聖、と書いてひじり。あいつの姉さんとした会話を思い出してたら、思い出したなんて言ったらあいつは怒るだろうか。
ピンポーン
「丘野様、宅配便でーす。小さいものなので郵便受けに入れておきますね」
返事をする間もなくインターホンは切れた。何だよ間が悪い。せっかく思い出に浸ってたというのに。まあ、これもあいつが言うには神の考えあってのことかもしれない。
そう思って部屋着のまま丘野は郵便受けに投函された荷物を取りに行った。
横のゴミ箱からは破られたホーリー・ハッピー・ビレッジの文字が覗いている。
そういえばあいつは 頭野 融 @toru-kashirano
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