浮夜の街に筆の鳴る
衣見 ヒビキ
第1話
変わるものと変わらないものが、この世には在る。
世界は移ろい、変わり往くものだ。
時間というものは止まることなく進み続け、すべてに平等に変化をもたらしていく。その前では“永遠”という概念など存在せず、いかに
それは、この地にしたって例外ではない。昔は“どこまでも続く原野”として知られた美しい草原にもいつしか雑木林が入り交じり、今では都市開発のあおりを受けてビルや社屋、人が住むための住宅地によってほとんど埋め尽くされてしまった。
この地に暮らす人の数が増えた以上、致し方ないことではある。いくらそれらを無くさぬよう努力しても、やはり百年、二百年も経ってしまえばいずれは失われてしまうのだろうか。
「なんて、な。まあ変化がすべて悪いものだとは言えないけどね。それに、こうして変わらないものも、ちゃんと在る」
のんびりとした口調とともに、手にしたペットボトルを地面に置く。
春の
無論、それらが完全に過去の武蔵野の風景を保てているかと言われれば、そうではない。それでも、かの景色が人々の心から失われていくことを憂い、少しでも残そうと努めることは、正しく敬うべき行いだ。
彼らのおかげで、本来在ったはずの形からは多少変わりつつも、この地には変わらず自然があふれていた。
「いやはや、世は常に無常なり。されど想いは時代を超えるってね。暮らし向きが変わったって、そう人の根底が醜くなるなんてことはないだろうさ」
見た目に反して達観したような言葉を並べる青年。年齢は二十代そこそこといった風だ。端正な容姿にぼやっとした表情を浮かべ、椅子の背もたれに身体を預けてのんべんだらりと絵を描いている。
傍から見ればだらしがないとしか言いようのない姿でも、この男にはなぜかそんな格好が良く似合った。
「あの......少しよろしいですか?」
そんな彼の背後から、おどおどとした声が聞こえてきた。
ゆっくり振り返ると、そこには妙に力の入った少年がこちらを
「はいはい、どうしましたか?」
青年は椅子ごとそちらに体を向け、にこりと笑って先を促した。
普段は“覇気がない”などと
のんびりとした態度に緊張がほぐれたのか、少年もすこし表情を崩して話を始める。
「すみません、少し道をお聞きしたくて......。あの、桜の木が咲いてる場所って分かりますか? たしか、秋でも咲くとかなんとかって聞いたのですが......」
「あー、十月桜ね。あそこの橋を渡って芝生をまっすぐ進んでいけば見えると思うよ」
「あ、ありがとうございます!」
「どういたしまして......ひょっとして観光かい? それともこの辺に引っ越してきたとかかな」
「あ、いえ。下見と言うかなんというか......」
微笑む少年。ほっとして肩の力が抜けたと同時に、周囲に気を配る余裕ができたようだ。青年の姿から少し視線を外し、彼が今まで向かっていたものの存在に気づいた。
「あっ......それって、もしかして絵ですか?」
「ん~? ......あ、これね。ザッツライト」
「わぁ.....すごい......! 僕、風景を描いてる絵描きさんに会うの、初めてで......。あれ? でもこの絵、なんだか絵柄に特徴がありますね。えっとなんだっけ、日本画みたいな......」
「浮世絵、かな?」
「そう、それです!」
少年の反応にあてられ、男は照れくさそうに頭を掻く。
こうも好印象を抱かれるのはずいぶんと珍しいことだ。顔見知りの少女に口うるさくせっつかれこそすれど、褒められることはまずない。
「まあ俺が描くのはあくまで“浮世絵風”なだけであって、それ風に水彩で描いてるっつう特殊なものだけど......。
しかし詳しいね。浮世絵なんて、現代ではそう有名じゃないだろうに。さては君、真面目に歴史を習ってた感じだな?」
「いやいや、そこまで難しい話じゃないですし、きっとみんな知ってますよ」
素直な性格なのだろう。謙遜しながらも嬉しそうに頬を緩ませる少年に、彼もすっかり気を許した。
歳は中学生か、高校に入り立てといった所だろうか。若干幼さの残る容姿に、学校の帰りがけなのか服装は制服だ。会話の端々に光る丁寧な姿勢は、おそらく両親の育てによるものだろう。
なんにせよ、彼はこの時点で十分な好印象を青年に与えていた。
「それでは、失礼します。教えていただいてありがとうございました」
それ故に。ぺこりと行儀よくお辞儀をし、後ろを振り向いた彼の首筋に“それ”を見たとき、青年には放っておくことができなかったのだ。
「あ、ちょっと待って」
不思議そうに振り返った少年。手を出して、と言うと素直に右手を差し出した。その手のひらに人差し指を押しつけ、何やら不思議な陣を描く。
「はいっと、これでOK。そんじゃ気をつけてね~」
「え、あ、はい。ありがとうございます。......えっと、今のは......?」
「おまじないだよ。本番がうまくいくように、ってさ」
男の怪しげなウインクを受け止め、少年は頬を染めつつ困ったように微笑んだ。
...
その夜のこと。
都内にある住宅地の通りには、下見を終えて帰り道を急ぐ少年の姿があった。
彼の様子を見るに、どうやら準備はばっちりらしい。
ロケーションを確認し、計画を整え、本番である明日に備える。それを想ってのことか、彼の口元には少々の恥じらいを含んだ笑みが見え隠れしていた。
この年頃の少年にしては、別段異常なことではないだろう。
────ならば。その背後にあるものは一体、何だ。
うぞうぞと、あるいはどろどろと。得体のしれない液体のような“何か”を纏い、少年の影に潜む無数の、手。
腕はなく、胴もなく、ただ手首から上だけがそこに在る。
日常では見られない存在、まさに異常の生物だ。生きているかさえ定かでないが、独りでに動いている以上、そう形容するほかあるまい。
実際、彼らには命があった。
活動時間は夜、目的は捕食、ターゲットは“跡”のついた者に限り、日に一人まで。命を長らえるにはそれで事足りる。
おかしな話ではない。今日が彼の番だったということだけだ。
少年の影が電灯の光から遠のいた瞬間、それらは動いた。
無数の手が足元の影から這い出て背中を駆け上がる。まずは窒息させ、動かぬ身体にしたかったのか。彼につけた
「“
そのすべてが一斉に消えた。
先ほどの異常な風景は、まるで夢か幻覚であったかのように突如として消えてなくなった。
後に残ったのは今しがた起こった奇怪な現象にも気づかず、元気に帰り路を行く少年の姿だけだ。
その光景を目にした一般人の姿はなく、それに奪われるはずだった無辜の命もまた、
かくして、日常は守られた。
「ふう。危ない危ない」
そんな言葉とともに、通りの陰から件の青年が出てきた。
昼間に使っていた年季の入った絵筆と、茶色い無数の手が描かれたキャンバスを右手に抱えながら。
...
変わるものと、変わらないものが、この世には
この地が武蔵野と呼ばれるよりもはるか昔、この日本という国が誕生する以前から、“
それらが人々に認識されるようになってから千年余り。それだけ多くの時を経ようとも、人を傷つけ
人と歴史がより集うこの武蔵野という大地にもまた、怪異と呼ばれる存在は巣食っていた。およそ日常に生きる人の身に感じられるものではなくとも、確かに彼らはここに在る。
そういったものたちを絵に封じ、人に危害を与えぬよう対処するのが“
「つっても、当人がまるでこの世から“浮い”ちまってるってのが、また問題だよなあ......。社会に従事せず、昼間から絵ばっかり描いてるなんて、他人からすれば
がっくりと肩を落としながらキャンバスに向かうゼン。その目に、ふと見知った顔が見えた。
「おや。なかなかうまくいってるようじゃないか」
彼が居座る川の向かい側、自然あふれる
わざわざ現地に下見に来るほど熱心に準備していたのだ。今日のデートはきっとうまくいくだろう。
「うんうん、仲良きことはいいことかな。こういうのを見ると、俺もなかなかいい仕事をした気がするねえ」
変わらないものは在り、変わるものも当然また在る。
かつて果てなき自然の美を有していたこの地ですら、今や人が暮らすための土地へと姿を変えた。時間はすべてに平等に変化を与えていく。それを嘆く者だって少なくはないが、変化というのも全部が全部、悪いものではないようだ。。
水鳥を見つけて微笑み合う二人の男女。いまだ関係は浅いのか、間に漂う空気は少しばかり照れくささや初々しさがある。
この先二人の関係がどう変わっていくのかを、今の彼に知るすべなんて存在しないけれど。
橋の手すりに寄りかかる二人の姿をキャンバスに描き足しつつ、ゼンは優しく微笑みながら満足げにうなずいた。
浮夜の街に筆の鳴る 衣見 ヒビキ @bikky673
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