年の夜に香る湯気の向こうで君が

椰子草 奈那史

年の夜に香る湯気の向こうで君が


 それは1980年があと数時間で終わろうとしていた大晦日の夜のことだった。

 しんしんと底冷えのする表通りを僕は息を切らしながら走っている。

 アルバイトが長引いたせいで帰りがすっかり遅くなってしまった。

 もう夜の8時を回った商店街は殆どの店がシャッターを下ろし、僕が本来立ち寄ろうと思っていた田中青果店も既に店のシャッターにはしめ飾りが下げられてた。

「遅かったか……」

 あてもなく歩き始めた僕の耳に、どこかの家から今年のレコード大賞の最優秀新人賞を告げるテレビの音声が漏れ聞こえてくる。


 はぁ、このあたりでまだ開いていそうな店はあっただろうか……。


 半ば諦めて歩いていくと、商店街の角にある山本商店の明かりが目に入った。

 店の前ではお婆さんが商店の戸を閉めようとしている。

「ま、待って! すみませんっ、買い物したいんです!」

 急に駆け寄ってきた僕にお婆さんは肩をビクリと震わせたが、僕の必死な様子を目にすると「もう閉めるから急いでね」と言って中に入れてくれた。


 僕はポケットからメモを取り出すと、店の中とメモに視線を交互に走らせる。

 しかし山本商店の商品は煙草やお菓子、日用雑貨などが主で、メモに書かれたものに該当するものは殆どなかった。

 それでも何か近い物や代用出来そうな物を探して、いくつかの商品を手に取る。

 しかしメモの最後に書かれていたものを見て僕は途方に暮れた。

 見渡しても、該当するような品がどうしても見当たらない。

「弱ったな……」

 そう呟いた時、視界の端に見慣れないものが目に入った。


「あ、これって……」


 ※※※


 午後9時を回った頃、アパートの古い木のドアの鍵を開ける音がした。


「浩二、ただいまー」

 一瞬の冷気の吹き込みとともに陽子の快活な声がする。

「ごめんねー。お店の片付けに時間がかかってすっかり遅くなっちゃった。紅白、ヒデキの出番まだだよね?」

 部屋と流しを隔てる硝子障子の向こうで陽子が靴を脱ぎながら問いかけてくる。

「まだだよ」

 部屋に入ってきた陽子はコートを脱ぐのさえもどかしそうにコタツの中に足を潜り込ませるとテレビの前にかじりついた。

「あー、間にあってよかった」

 陽子はテレビから流れてくる聞き覚えのある流行歌に合わせて鼻歌を口ずさみ始める。

「あの、陽子、頼まれてた買い物の件だけど……」

「そうだ! ね、お店で残っちゃったコロッケ頂いたの。今日のご飯はそれでいいかな?」

「え? ああ、もちろん」

 隣駅の駅前にある精肉店に勤めている陽子は、時々店で売れ残った惣菜を貰ってきてくれる。それはまだ生活が安定しない僕と陽子にとっては有り難いものだった。


 コタツの上にコロッケと陽子が作り置きしてあった大根の煮物、それに日本酒の入った徳利が並べられた。

「ちょっと味気ないけど、こんなところかな」

「いや、十分だよ」

 こうして、僕たちは遅い夕食を始めた。


 ※※※


 陽子と暮らし始めてもう二ヵ月ほどになる。

 陽子は僕と同い年の二十一歳。

 高校を出てすぐに働き始めた陽子に対して、僕は大学の三年生だ。

 出会ったきっかけは去年、陽子が大学の学園祭に訪れたときに僕の入っている軽音楽部の出し物を見に来たことだった。

 それから間もなく僕達は付き合い始めた。

 一緒に暮らすことになったのは、僕達が自分達の将来のことを意識し始めたことと、元々あまり裕福ではなかった僕の実家からの仕送りが厳しくなってきた時期が重なったことによる。

 陽子の提案で、僕は陽子のアパートに転がり込むように同居を始めた。

 もちろん、アルバイトをして生活費や家賃は捻出するようにはしているが、陽子に支えられている部分が大きいことは否定できない。

「今日はアルバイトだったんでしょ?」

「うん、おかげで少しお金が入ったんだ」

「浩二は今はあまりそんなこと心配しないでしっかり勉強してね、来年試験なんだから」

「ああ、わかってるよ」

 来年、四年生になったら僕は就職活動を始める。

 将来の安定した生活を得るために、僕は国家公務員試験を受けようと考えていた。


「あ、ヒデキだ!」


 その時、大好きな歌手の登場に陽子が色めき立つ。

 僕は猪口ちょこを口に運びながらそんな陽子の姿を見ていた。


 ※※※


 今年の紅白歌合戦は紅組の勝利で終わり、出場歌手の「蛍の光」の合唱とともに大団円を迎えた。

 番組が切り替わり、華やかだった画面が一転して雪のちらつくどこかの寺院が映し出されると、陽子がコタツから出て立ち上がる。

「よし、それじゃ年越し蕎麦でも用意しようかな。私も忙しかったし、浩二もアルバイトで食べてないでしょ?」

「あ、うん……」

「頼んでおいたお蕎麦はどこ?」

 陽子が流しの前にあった紙袋を開いて中を探る。

「えーと、その事なんだけど……実はアルバイトが長引いちゃって、買い物が出来なかったんだ」

「え、そうなの!? 明日からどうしよう。……まぁ、実家から送ってもらったお餅があるし、おせちもいくつかは作ったから贅沢言わなきゃ三が日くらいはなんとかなるかな」

 そのまま陽子が小首を傾げる。

「でも、大晦日にお蕎麦を食べられないのはちょっと物足りないわね」

 そういった行事を割ときちんとしたがる陽子はやや不満そうな表情を浮かべた。

「それなんだけど……こういうものがあったから買ってみたんだ」

 僕は山本商店で買っておいたものを戸棚から出して陽子に見せる。

 それは、ドンブリ形のカップに鮮やかな緑色の紙蓋がついたインスタントのカップ麺だった。

「緑のたぬき? あー、コマーシャルで見たことある。それお蕎麦なの?」

「うん、今年から発売されたらしいよ」

「ほんとに美味しいのかな」

「それはなんとも……」

「ううん、ボヤボヤしてたら年を越しちゃうわね。私はお湯を涌かすから浩二用意して!」

「わかった」

 陽子がガスコンロにやかんをかける間に、僕は紙蓋に書かれている説明書きを読みながらカップの中にあったスープの袋を開けて麺の上に振りかける。

 数分後、やかんを持った陽子がカップの中にお湯を注いだ。

 紙蓋の上に箸を乗せて僕達はテレビを注視する。

 テレビはどこか遠い地方の寺院の様子を映し出していたが、僕達が見ていたのはテレビの上に置かれた小さな時計だった。

「4分なんだ。ラーメンよりも長いのね」

「うん」

 自然と口数が減るなか、時間は1分、また1分と過ぎていく。

 そして時刻が11時58分を指した時、「4分経ったわ」と陽子が言った。

 緑色の紙蓋を開けると、出汁のよく効いたつゆの香りが湯気とともに鼻に届く。

 僕達は初めて口にするカップの蕎麦を口に含んだ。

「うん、けっこう美味しいね」

 陽子はまんざらでもなさそうに笑みを浮かべた。

「そうだね」

 箸を動かしながら僕も頷く。

 二人が思い思いに蕎麦を啜っていると、テレビでは鐘の音とともにアナウンサーがちょうど新年の訪れを告げていた。

 テレビの音量を下げて陽子が僕に向き直る。


「年、明けたね」

「ああ、最後ちょっと慌ただしかったけど」

「浩二と初めての年越し」

「ん、えと……今年もよろしくね」

「これからもずっと、だといいな」

「あっ、もちろん、そのつもり……だよ。その、試験頑張るから」

「ふふ、期待してるね」


 1981年の始まりの日を、僕達は年跨ぎの年越し蕎麦を食べながら迎えた。

 それは、まだ若く何も手にしていない二人のささやかな暮らしの新たな始まりでもあった。

 静かになった部屋には二人の蕎麦を啜る音だけが響き、窓の外の寒空には小指の爪先のような細い月が浮かんでいた。


 ※※※


「あ、智也ともやくん、そこに積んであるのをテーブルに並べてくれる?」


 娘のあやが、4ヶ月前に結婚したばかりの智也君に指図している。

 智也君は彩に言われた通り、テーブルの上にそれを四つ並べた。

「緑のたぬきが年越し蕎麦なんですねー」

 智也君の素朴な疑問に彩が億劫そうに答える。

「そうなの。なぜかうちの年越し蕎麦は紅白が終わった後に緑のたぬきを食べる決まりになってるのよ。これなんでだっけ?」

「ん? えー、それはだな……」

「それはね、お父さんとお母さんが初めて二人で年越しをした時にそうしたからよ」

 言いよどむ私の横から陽子が口を挟んだ。

「へぇ、ロマンティックなのかそうでないのか微妙な話ね」

「そんな事はないわよ。初めは二つで始まったこの決まりも、彩が生まれて三つになって、そして今年からは四つになったわ。それに、すぐにもう一つくらいは増えるでしょ」

「ちょ、気がはやーい」

 彩と智也君は揃って顔を赤らめた。


 だが、陽子の言うとおりだ。

 大晦日の食卓に並ぶこの緑のたぬきが増えていくこと、それはすなわち我が家の幸せが増えていく証なのだから。

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